浅草オペラ拾遺〜Wikipediaにあるけれど速記録だとこうなる

「江戸趣味テナー」

あなたの一番最初の舞臺は?
京都の南座で、新國劇の旗舉げ興行の時でした。東京の旗擧げが新富座で、散々の不入りで
中上、そのあとです。山川浦路や上山草大など居た。勿論その時は劍劇でなく、中村吉蔵の"信賴者"と、もう一本か二本何かあった。【註。新富座旗擧げは大正六年四月、出し物は、額田六福作「暴風の跡」、野上彌生作「一事件」、岡本綺堂作「新朝顔日記」、松居松葉作「急行列車」である。京都に行って急にそう出し物が變る筈もないと思われる。この"信賴者"というのは、「急行列車」を藤原氏が"寝台車"と記憶していて、その速記違いか?】
私は、松井須磨子の芝居を見て、是非ともシェクスピアの芝居が演したくなった,それで新國劇に入ったんだが、京都に行って、たまたま田谷力三の唄を聞くと、今度は急に歌唄いになりたくなって、それから淺草のオペラに入った。町田金嶺が中學の同窓で、それを賴って行った。一番初めに習ったのが”リゴレット"で、先生は藤村悟朗。


なんでも私が聞いた話では、日本館で、あなたが威勢の好い、江戶ッ子の職人になって、西洋式の唄を大いに罵倒して、オツな咽喉で小唄かなんかやつたというが…【笑】
いやいや、そんなオツな藝當なんか僕にはないよ。あの時は都々逸ですよ。 何にしろ、バタ臭いことが嫌いだったから可笑しい。學校の庭なんかで町田君がバタ臭い歌を唄うのは怪しからんと騒いだ方なんだから、…當時は、清元延壽太夫に夢中になってた僕なんだから。【大笑】
そのころの浅草オペラって、どんなもんだったんです?
ただもう面白オカシク見せりゃ好かったんだ。今は本物をやらなければ納まらない,ーレコードやラジオで教育されてるんだもの。昔ならこの臺辭は廢めよう、此處はオーケストラが難かしいからカットだ、てな風にして、勝手に省略しちまった。今、そんなことをしたら大變だ。忽ち投書がやって來て"私の持ってる楽譜にはチャンとあるのに、どうしてカットしたのか"って叱られる。
昔の客は暢氣だった。あれは大正六年ごろだったかな、赤坂の葵館で、三卷物の"カルメン"が出た時に、例のズボ達の黒田君が、今で云うアトラクションで出て、ハバネラの唄をやった。當時、ズボ達君は自分でバス唄いだと稱していたんですよ。【大笑】
バスで"ハバネラ"は、空前絕後だろう、これは受けるかもしれんなア。
所が客は笑いもしないで、感心の體で聽いてたんだ。【笑】そのズボ達君、イタリヤに修業に行ったら,お前の聲はテナーだと云われてテナーになり、日本に歸ったらバリトンになっちまった。
【大笑】

〜徳川夢声対談集「同行二人」養徳社、東京日日新聞連載s25〜藤原義江の巻

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by r_o_k | 2018-04-07 12:02 | 本・漫画 | Comments(0)

岡林リョウの日記☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi