~片瀬で電車を下りると、両側に土産物店が軒を並べてうるさく客を引く。桟橋を渡って岩山道を窟に向ふのであるが、窟の中で蝋燭を買って小坊主に案内して貰って奇態な節の説明をきいて、外へ出て橋銭を惜しみ乍ら砂浜の茶店へ休んだ。(京や金介、s3「現代漫画大観」)
というわけで、
江ノ島へ。順不同です(明治〜昭和初期)

(ザ・ファー・イースト明治4年12月7日砂州手前、7月17日小動岬前)復刻版より、三枚目のみ「明治の日本」横浜写真から(同時期と思われるが横浜写真は既存も含め彩色を施し土産物に売ったもので時期特定はすこし難しい場合も、作成は明治前中期)
小動岬
七里ヶ浜から
単体写真というがおそらくザ・ファー・イーストの異版か同時期のもの。以上二枚「文明開化期の横浜・東京」横浜開港資料館他
「明治の日本」(横浜開港資料館)横浜写真から、江ノ島遠景。富士山は当時の技術では写らないことが多かった。大部分が書き加えか。明治中期まで。
ライデン大学コレクション(当時)(朝日新聞社「甦る幕末」1987より)明治時代とあるがさほど下らない時期と思われる(橋は無い)
(ザ・ファー・イースト明治4年8月2日 江ノ島神明様の社(江島神社中津宮))上は復刻版、下は「文明開化期の横浜・東京」より
現代(向かって左手の堂に江島弁財天、俗に言う裸弁天などが祀られている。岩屋にはいない。江戸時代は人気だった。当時、奥、中、辺の三宮まとめて江島明神と呼ばれたという。)
本来着衣のものである。日本三弁天(竹生島、厳島)に数えられることもあるが、スケール感は少し劣る。
奥津宮(本来は岩屋が奥宮でこちらは本宮御旅所という)現代は不明
個人蔵、「文明開化期の横浜・東京」より
明治4年7月17日 岩本の御前 江ノ島の長老神官という。ある大名の兄弟(こういう役回りなら弟だろう)、85歳。宿を経営。撮影を渋ったが死後の記念にと聞いてようやく居住まいを正した。(ザ・ファー・イースト復刻版)

(ベアト写真、外国人居留区に近く手軽な行楽地だっただけあって、江ノ島もいくつか撮影されている。明治30年徒歩橋のかかる前※、とくに幕末までは干潮時砂州を歩くか担いでもらって渡った。もしくは船。こちらは日芸蔵のもの(「F.ベアトの幕末」より引用))
※杭を2列並べ時期になると上に板を渡す臨時橋は明治10年にはあったようだ。
(同じ写真のトリミングのない版か?明治中期と書かれている。ベアトなら遡るはず。放送大学附属図書館蔵、「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」より引用)(龍口寺境内からというが龍口寺自体は麓にあるため裏山の先、左手に小動岬)個人蔵、「文明開化期の横浜・東京」より
これは大正になってからか。(彩色はこちらで)

※
「明治の記憶」学習院大学より 明治十一年天皇行幸時撮影上より少し遡る写真とされているが、2枚とも杭の列が写り、ほぼ橋のかかったような状態に見える。
〜「大日本全国名所一覧」
1880年代とされる鶏卵紙の彩色写真。橋がかかっているので1897年以降と思われるが、いずれ架橋最初期のものとして参考に。
「明治の日本」横浜写真 より


神奈川、江ノ島いにしえの風景〜明治後半から昭和初期(絵葉書)
(一部昭和初期に石橋になった)昭和五年の観光ガイドより

(ベアト写真。幕末明治初期、橋もない時に江ノ島の今の参道がどうなっていたかはわからないが、この鳥居は現在の表参道入口の青銅鳥居。扁額は外されているが造り付けの注連縄と脚部下の鋳刻などから断定できる。日芸蔵「F.ベアトの幕末」より。「文明開化期の横浜・東京」(ファーイースト掲載(尾張徳川家蔵品からの復刻版には収録なし、他版か)だがややフォーカスが甘い)では江戸中期建立のそれと断定し左建物を恵比寿楼としている。参考に現在↓)
もう少し遠巻きの写真がザ・ファー・イースト明治5年2月24日に掲載されている。干潮時(上、復刻版より:下、「文明開化期の横浜・東京」より)よく見ると並んでいる人が違うので異版。
戦前、江ノ島の店や宿の数などたかが知れていたと聞いたのだが、江戸の栄えをまだ遺しどうしてこれだけ並んでいる。ファー・イーストでは明治新政府が江ノ島弁財天の処遇について検討していたことに触れられている。
1890年代とされる鶏卵紙焼きの複製大判写真(鶏卵紙特有の退色がなくのっぺりしていて同時代の印刷かもしれない、安かったし)。これは鳥居などトリミングされているのではないか。英国の資料室のようなところにあった旨の書き込み。少し新しいような建物も見られるが、看板や小屋など下の横浜写真と似ている。鳥居脇の石積が顕著な違いか。人は少なく閑散期なのだろう。
「明治の日本」横浜写真(横浜で鶏卵紙に施した土産用の彩色写真、明治中期頃まで)より江ノ島の各地。鳥居は少しトリミングが異なる写真(モース・コレクション「百年前の日本」所収)も。鳥居周辺の雰囲気がよりわかる。なお横浜写真についてスキャナ都合で色が赤方面にきつくなっています。最後の写真は冒頭で揚げた小川一真のもの。


司馬江漢「江ノ島稚児淵眺望」寛政年間、仙台市博物館蔵
(「小田野直武と秋田蘭画」展カタログより)烏帽子岩から富士山と崖に大袈裟ではあるがそれが司馬江漢の流儀を示している。同じような絵が他にもある。東日本大震災での被災家屋から発見された絹本油彩衝立で裏面に金沢能見堂。以上、稚児ヶ淵(建長寺僧の寵愛を受けた稚児が身を投げたという)今のように歩行路が整備されておらず(現代でも台風で破壊されしばらく岩屋に至れなかったくらいだ)、崖沿いに岩屋まで険しい参道があり途中小さな洞窟などあった。「文明開化期の横浜・東京」より、個人蔵
【付け足し】江嶋縁起(江島神社本)から、
300年以上たって荒廃した社を復興させるよう宋にいた良真が宇賀弁財天の託宣をうけ、社殿の北の無熱池南東にあるガマに似た石がすべての障りのもと、を封じるため社殿を池の北西から池の向きにすること、と慶仁禅師から地鎮石を授けられ背負って帰るところ。
それがこちらです。参道まっすぐいった門のところ。「江の島金沢鎌倉名所記」M6(文字のみ)には「がま石」と書いてありました。「福石」もあるようです。
弁財天も見下ろしています。以上は最初の江ノ島案内図にはありますが、古い図にはありません。テーマパークだったんですね。

まだ覚えている方がいる龍口園。日本一の屋外エレベーターで知られた、龍口寺の上にあった遊園地です。江ノ島への玄関口でしたが今に残るものはほぼありません。
腰越海岸
(ザ・ファー・イースト明治4年11月21日 鎌倉から江ノ島にゆく途中の砂浜に沿った漁村、とある)復刻版より、下は「文明開化期の横浜・東京」から
段葛入り口、鶴岡八幡宮二の鳥居。明治末〜大正頃。

(ベアト撮影、長崎大学附属図書館及び日芸所蔵「F.ベアトの幕末」より、ページ跨がりのため後者真ん中歪みすいません。前者はワーグマンコレクション所収(元ライデン大学蔵))段葛および二の鳥居です。段葛は若宮大路真ん中を土盛りして参道としたものですが、二の鳥居から海、一の鳥居側は早くに失われています(最後の写真は同書キャプションに一の鳥居とありますが奥に見えるのは三の鳥居(太鼓橋前の最後の鳥居)なので二の鳥居です。別の写真集では正しく記載されており、いくつか併せてファー・イースト掲載のものとされています(ファー・イースト復刻版では一枚しか確認できず)。いずれベアト写真では失われていたかどうかはわからず、明治初期壊滅説は立証できません)。鶴岡八幡宮へ向かう、言い伝えでは北条政子による盛土ですね。奥になるほど細くなり、より遠近感を感じるようにされています。鎌倉時代には単に作道と呼ばれ、急な開発で崩れ流れ込む泥水を避けるため盛土をしたそうです(Wikipedia)。ここも近年までは絵葉書のように古い参道の雰囲気を保っていたようですが、2016年改修での完全改造にも象徴されるように、無数に改変されてきたと思われます。その過程は古写真でもわかります。
ザ・ファー・イースト掲載、明治初頭(復刻版より)中央が掘られているものの、一応区切りがわかる。二枚目は「文明開化期の横浜・東京」より同じもの。三枚目も同書、個人蔵。
1890年代とされる土産写真(彩色)なんと段葛が消えている!
、、、なんてことはなく太鼓橋より内側の境内だそうです。鳥居は仁王門の痕に建てられたそうです。「文明開化期の横浜・東京」より、個人蔵
参考(明治6年)
「明治の日本」横浜開港資料館より(明治前中期)
ちなみにさきほどのような彩色写真は横浜写真と呼ばれ自然な配色が美しいのですが、なぜかまとまった資料に欠けており、横浜開港資料館の出した80ページ増補版写真集は絶版で古本屋にも出ていません。プレミア三万円!旧版は沢山残っているのに。(2003年より前のものは旧版、たいていのネットではちゃんと書いてないけど表紙の色使いが違うのでわかる。青は旧版、橙色は増補)
鶴岡八幡宮参道脇の、有名な大銀杏。東日本大震災前に大風で折れてしまいました。

遊行寺の小栗判官墓は現在も似たような形で存在しますが、水輪は後から追加されたもので抜かれています。ここについては別項参照
元箱根石仏群、大地蔵磨崖仏(近年覆堂復元により完全に屋内化)
箱根は早くから外国人の観光地だったため写真も少なからずあるが、廃仏毀釈運動で寂れ分散縮小した賽の河原同様に崩れたままにされたような小川一真の明治後期写真から絵葉書、外国人向け彩色土産写真と微妙に変化のみられる写真となっている。
横浜芸者。手彩色絵葉書だが、
こちらの横浜写真の歪な複写であるらしい。明治中期か。