2018/3/5【江戸の処刑場】法春比丘尼の涙は本物だったか?江戸二大刑場にのこる谷口巨大題目塔の謎【大阪堺月蔵寺最古塔追加、新馬場塔追加、絵金鈴ヶ森屏風、小塚原古写真追加】
2021年 04月 07日
幕末にまとめられ明治中期に国書刊行会が出した(近年中公より翻出)「燕石十種」所収の有名な江戸真砂こと「江戸真砂六十帖」2巻より「本郷谷口何某横死之事」。
中公版第四巻目次にはありますねえ。しかしこれは本文省略になっていると冒頭のページにかかれています。燕石十種は数々の著名戯作者や絵師が筆をとった江戸風俗好きには非常にアピールする稀少本集成で続刊も2シリーズ出てますが、図書館にあったら読む程度かな。目次で選んで読まないと大量過ぎ。
ちな国書刊行会版は続・新を含めると大正時代まで下るものの、幕末の刊行を復刻した元祖の部分(のち編者は変わっている)は未完書の復刻集成を謳っており、当時においてすでに流通していなかったものが多く含まれ、その写本をうつしたままだそう。従って刊本としては中公のものが唯一となり、近年までは写本しか掲載本の根拠がなかったことに。
江戸真砂自体は有名な本で、のちに徳川実紀にも参照されたほどである。厳格な時代に風刺を含めた講釈をあちらこちらの武家屋敷などで披露したのは肝が据わっており、緩んだ時代にお上自身が参照するほどの記録とされたことから、内容の真偽を問われることが少なかっただろうことは想像に難くない。天一坊、紀伊国屋文左衛門の記述も希少なものと扱われている。江戸前中期当時の風俗を仔細に記した随筆としての価値は確かにある。
鈴ヶ森刑場近辺の写真をすこし。パンフにも書かれているとおり法春比丘尼というのは謎の多い願主のようです。谷口氏と別けて刻まれており、それは出家したからなのか、もともと谷口と関係がないのか?元禄十一年二月五日刻も半世紀後元文六年説もあると札には書いてある。
話を戻して鈴ヶ森刑場の巨大題目塔は前記の通り谷口氏ないし法春比丘尼の銘を持つ。しっかりした文字が四面に深く刻み込まれていて、裏面に元禄年間に両名願主にて建立と。
ヒゲ題目、というか全般的に位置がずれて整地されたように思うが気のせいか。裏面下に前記二名の願主が広く供養を行うため建立旨、元禄の文字は真ん中、問題の元文の文字は頂上にある。頂上だけ書体が異なる。ちなここは古い石造物が少ない。塔の台石に僅かながら幾つか窪み、鉢状穴じゃあないよね…
見ての通り、法春の春が欠けてるんですよね。頑丈な御影石が欠けるとは、このへんの震災か戦災か。先の鉢状穴だって明治神宮石灯籠みたいに焼夷弾の跡かも。いずれ、一番上の刻銘は後からのものな気がする。元禄銘下を後からは考えにくい。題目を書いたのは誰なのか?あるいは表面だけ彫り直したのか?
小塚原刑場の題目塔。調べると街道沿いから移築した上、幕末には土に埋まった状態で掘り起こし立てた時に旨追刻している。回向院も今の寺も日蓮宗じゃないことと関係あるかも。様式は鈴ヶ森と同じ(従って鈴ヶ森の本門寺刻は追刻だろう)。埋まってたせいか願主がハッキリ。そしてここの標柱にはちゃんと京都の谷口家のことも書かれている。
形は同じですね。年月日も書き方もそっくり。材質がともに御影石とはいえ小塚原の方が色味が濃く黄色く見えるが、保管状態などによって表面が変化しただけでしょうか。大きさは台石の有無、特に小塚原は地面に掘り下げて立ってますので印象が異なる。違う点は追刻だけ。鈴ヶ森の脇も後彫りでしょうか。
「本郷谷口与右衛門横死の事」
本郷三丁目に谷口与右衛門とて有徳成町人なり、吉原へ行き、帰るさに加賀屋敷脇にて、犬に引き包まれて難ぎして、酒に酔いていたりければ、思わずも脇差抜いて追いまわるにより、懐中物落としける然れども、犬一匹疵付ゆえ、外の犬は逃げ走る、与右衛門内へ帰りぬ、翌朝、犬の頭に切疵有之を町の若ども見付けて、其分に差置きがたく、町奉行所へ訴出ける。即検使下り、段々詮議の所に一切知れず、依て庭先の番人牢舎す、下の番人の申上るには廻りに出候節、夜明前、鼻紙一折落て御座候拾い置き候、是を取寄御覧下さるべしと申上、則取寄て御吟味有に、手紙二三通あり、皆与右衛門が名前なり。早速与右衛門召し捕われ牢舎、糾明に逢て一度にて白状に及千住小塚原にて磔に被行ける、年三十三歳なり、壱人の子にて、母は嘆きて、品川・千住に御影石の石塔に七字を彫て長壱丈もあらん、今に谷口の名掛け建り。出典:
(中公版をさらに平易にされている。問題あれば中公版に差し替えます)
「江戸真砂六十帖広本」巻ノ三所収。まさに同内容が三田村鳶魚本に書いてあった(ほぼ全文訳出してたのだ)。石塔からの逆連想のように思われる。だいたい塔の形状も文字も違うように思う。3メートルの大石塔はこの時期に限らずとも江戸で庶民が発願した供養塔としては珍しい。小塚原も鈴ヶ森も江戸の街道出口ちかく人気のない荒れ野に設置された新刑場である。刑死者の供養は禁じられていたので御仕置場そのところではなく、街道側に置かれたと思われる。通る者に与えるインパクトはあっただろう。関西を中心として刑場や街道の要所に「法界の爲建之(無縁有縁供養のために建立)」として確認できるだけで100基以上を一気に建てた。前記のお寺のページによれば同様の塔には4メートルもの大題目もあるそうだ。
一人っ子とある。谷口法悦の母が法春比丘尼とするならば江戸本郷で裕福にしていたこの町人は誰の一人っ子だったのだろう(名前は次男ぽくもあるが)。大題目が谷口一族のもので法春は法悦とともに個人名のあきらかな建立者、しかも京都。法華宗徒には長くメジャーなテーマ故これ以上は詮議しない。
谷口長右衛門(法悦)と与右衛門・・・次男ぽくはあるが・・・
江戸真砂の刊本記載法の不思議に関する話。国会図書館写本、国書刊行会(明治期)本、中公刊本(画像)でそも分け方が違うことからの混乱。中公では四巻の広本は拾遺扱いで、一巻に本編が略本として掲載されている。中公版四巻の広本で省略されている(目次に○とある)ものは略本掲載ゆえ重複を避けたに過ぎない。高尾考は読み応えあるなー。
限定本で別の出版社から再刊されてるもよう。けっこう安いが、紙本はかさばるのでいらんです。電子本より取り回しの良い紙本をこの巻だけ購入。いちおう借りてきたけど。
三田村鳶魚本について。「江戸の思ひ出ところどころ」s11東京日日新聞連載、柴田宵曲編青蛙房蔵版「江戸の史蹟」s33収録に書いてあった。例によって典拠が詳らかでない。新聞連載コラムにそこまで要求するのは酷だ。ほぼそのまま現代語にしてるけど、与右衛門を旧字の與右衛門としてるのが気になる。とうぜん後者が正しいか。