神田明神と将門の首塚、関東大震災今昔(写真、絵追加)

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将門の首塚の祟りについては承前→国税庁のページ
※このページの着色写真は一般に開放されているニューラルネットワーク技術を使わせていただきました。

神田明神(神田神社)関東大震災前と後
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:東京市
案外と落ち着いた境内だったのですね。朝敵ですから維新早々将門は出されましたが、すぐ横の別社に祀られました(正式に戦後もとどおり併合された)。江戸の庶民の社ですから。
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そして首塚は離れてはいますが大手町。東京駅そば。神田明神ないし保存会の管理下にあります。神田明神発祥の地といいます(江戸初期まで念仏道場として知られた後述の時宗(当初天台宗)「日輪寺」があり、神田明神は境内の鎮守としてありましたが、葬式事をすることから不浄を避けて移転したといいます。現実にはすぐそばが江戸城ですから江戸初期の都市計画で広い大名屋敷が並ぶことになりバラバラにならざるをえなかったのでしょう)。京都から「単身」はるばる飛んできてここに落ちた、その胴体を求める「からだ〜からだ〜」の首の声から神田と名前がついた俗説がありますが、もともと神の田んぼがあったからなど諸説あります。(常識的には相馬の一族が貰い受けここへ持ち帰り葬って以後護った説をとるべきでしょう、石郭出土は本物としたら埋葬施設にふさわしい。古墳時代のものというWikipediaの記述の根拠を教えて下さいな。大手町に古墳群(地方墳ですから単独ではないでしょう)?)。
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:東京市編
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:田中長嶺氏筆
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:佐藤隆三氏撮影(震災後)背後が壁だったことが伺える
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:鳥居龍蔵氏撮影(震災後)土砂が崩れたあともしくは工事で崩したあとと思われ(壁も見当たらない)、これをもって円墳ではなかったというのは早計と思う

上が震災前で、すでに元芝崎村(今は浅草に移転した日輪寺(真教上人)により疫神たる将門を調伏したという、古碑が浅草に、写しは茨城の胴塚にあります※)の庭園は半壊、塚の上には慰霊碑ではなく記念碑(「古蹟保存碑」)が新造された。それが上左写真の塚上の石碑です。園地として扱われたのですね。上右写真のように慰霊碑(法名碑)や灯籠が塚の下に置かれました(下写真塚の手前に見えますね)。白い塗が異様ですが、明治39年5月神田明神氏子の家に残る拓本から起こされたものだそうです。戦後再現され今、灯籠前に見られるものです。これは明治時代、関東大震災までの塚配置を作り出し(じきに上にきちんと置かれるはずだったらしい)その前段階で発掘整備を指揮した「将門宗の」阪谷大蔵大臣のころに作られたようです。浅草の名号碑(上人の文字を写して彫ったもの)とは別で、不思議なことにあちらは震災前後の記録には出てきませんが、首塚に戦後まであり、1970年何者かにより3つに折れたものを日輪寺で修復した、その写しを現地に建てたが改めてそちらは胴塚へ贈り新造の戒名碑を現地に復活させた、とは聞きます(板塔婆とありますので石柱に貼り付けられた日輪寺のものとは違う気もしますが、、、あるいは胴塚のものが折られたもので、日輪寺は戦争かそれ以前に摩耗し移築されたのかもしれないです)。元の拓本は本物の(中世の)慰霊碑のものだったようなのですが、それでも戦前の写真と比べても名号碑のほうが古いことはたしかす。現地にはありましたが、移転した日輪寺のものとしてあったもので、整理を機に割れてはいますが返したのかもしれません。さて大蔵省敷地となり造幣局が労働者を集めている中で徐々に壊されていったとき御手洗池や首洗井戸も失われました。藤澤衛彦「日本伝説研究」第二巻T14前に紙数がさかれております。将門関連の書籍やパンフで新しいものの中には庭園の地図(時期によって変わるので原型は江戸時代の酒井雅楽頭上屋敷以下大名庭園まで遡る必要があります)を載せているものもあります。藤澤本は国会図書館デジタルライブラリーにあります。
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:明治38年9月27日付朝日新聞掲載の「将門の五輪塔」。最初の発掘が行われ(新しいもの以外出なかった)塚と脇にニ塔の形式が出来上がったころ、この灯籠が将門塚と混同されていたことから、現地にある最古の遺物であることは間違いない。(日輪寺のものはそれより古いと思われるが現地にあった確証がない)
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:蓮池(御手洗池)と千鳥岩(将門首洗井戸が傍らに沈んでいたという、おそらく上の図のように元はちゃんと池畔にあったと思われる)、震災前藤澤氏撮影
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:明治42年の大蔵省、この正門近くに蓮池があったというから左手壁の奥でしょうか。そのさらに奥に塚があり当時は6メートルの高さがあったそうです。

そして関東大震災で全焼しめちゃくちゃになったあと、仮庁舎建設のため塚が壊されると大臣などに祟ったと言って盛大な法要が行われた(二度目の発掘)。日輪寺から(ちなみに所在地は浅草の芝崎町という地名になっています)河野僧正が呼ばれました。新聞が書きたて、首塚のイメージを決定づけました。京都から胴を求めて飛んできて力尽きて落ちた場所、ていう。異説もありこのへんいつかはまとめます。バラバラではFlickrに写真載せてます。テレビがやった調査では戦後、塚を完全に壊したGHQに祟った話は判然としない、つまり普通の事故の範疇だったか、はなからなかったようです。工事中事故で死者は出た、工事をやめさせた、というのは神田明神氏子による証言があります。しかしいずれ、細かく検証すること、そもそもここが埋葬施設ではなく供養塚で、村に災厄の襲う中世まで忘れられていた可能性がたかいことは念頭に置く必要があります。江戸時代の首塚伝説の途絶も気になるところです。
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塚は無いですが戦災で痩せた石灯籠が唯一の元からのものとなっています。今の将門の首塚。
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日輪寺、胴塚の名号碑
胴塚は将門の胴を埋めた公式の塚
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ちな京都
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河原の首級晒場あと、神田明神(現在は屋内)

首が飛んで胴を求める話は異説が多く、落ちた場所も各地に伝承されてます。また、手持ちで持ち去られた話もあります。靖国神社そばの筑土神社にかつて伝わった首桶や骨のかけら、髪の毛がそれとも(こういう話は茨城千葉にもあります)。
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(C)筑土八幡神社
戦争で丸焼けになってしまいました。

by r_o_k | 2017-10-22 01:49 | 不思議 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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