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上が震災前で、すでに元芝崎村の庭園は半壊、塚の上には慰霊碑ではなく記念碑(「古蹟保存碑」)が新造された。それが上左写真の塚上の石碑です。園地として扱われたのですね。上右写真のように慰霊碑(法名碑)や灯籠が塚の下に置かれました(下写真塚の手前に見えますね)。白い塗が異様ですが、明治39年5月神田明神氏子の家に残る拓本から起こされたものだそうです。戦後再現され今、灯籠前に見られるものです。これは明治時代、関東大震災までの塚配置を作り出し(じきに上にきちんと置かれるはずだったらしい)その前段階で発掘整備を指揮した「将門宗の」阪谷大蔵大臣のころに作られたようです。浅草の名号碑(上人の文字を写して彫ったもの)とは別で、不思議なことにあちらは震災前後の記録には出てきませんが、首塚に戦後まであり、1970年何者かにより3つに折れたものを日輪寺で修復した、その写しを現地に建てたが改めてそちらは胴塚へ贈り新造の戒名碑を現地に復活させた、とは聞きます(板塔婆とありますので石柱に貼り付けられた日輪寺のものとは違う気もしますが、、、あるいは胴塚のものが折られたもので、日輪寺は戦争かそれ以前に摩耗し移築されたのかもしれないです)。元の拓本は本物の(中世の)慰霊碑のものだったようなのですが、それでも戦前の写真と比べても名号碑のほうが古いことはたしかす。現地にはありましたが、移転した日輪寺のものとしてあったもので、整理を機に割れてはいますが返したのかもしれません。さて大蔵省敷地となり造幣局が労働者を集めている中で徐々に壊されていったとき御手洗池や首洗井戸も失われました。藤澤衛彦「日本伝説研究」第二巻T14前に紙数がさかれております。将門関連の書籍やパンフで新しいものの中には庭園の地図(時期によって変わるので原型は江戸時代の酒井雅楽頭上屋敷以下大名庭園まで遡る必要があります)を載せているものもあります。藤澤本は国会図書館デジタルライブラリーにあります。






















※ダブりますが…(いつごろのものかはよくわかりません、2018/7放送の「ミステリアスジャパン」によると今首塚にある板碑と同じ六字名号を彫った古いものであることは間違いないようです。日輪寺こと芝崎道場が首塚あたりにあった頃というと明暦大火以前ですが、大蔵省庭園にこの形の石碑ないしは写しがあったという話は明治以降は読んだことがありません。板碑は明治の時点で前記の通りオリジナルの拓本を丸ごと石碑面に写して新造されましたが、そのオリジナルの書(中世に巻き起こった将門の祟をおさめたといわれる真教上人直筆)は日輪寺にあるのでしょうか。その他現在も現地にあるものとして最も古い大名庭園時代の灯籠が、塚の麓に大きな基壇を設けたうえに立てられ、さらに名所に指定されたときの新造標柱が塚の上に建てられました。関東大震災で灯籠のみ残り(残され)、板碑は少なくとも戦後は失われており現在再び写しを造ったものが正面に真新しく立っているということです。)


胴塚は将門の胴を埋めた公式の塚


首が飛んで胴を求める話は異説が多く、落ちた場所も各地に伝承されてます。また、手持ちで持ち去られた話もあります。靖国神社そばの筑土神社にかつて伝わった首桶や骨のかけら、髪の毛がそれとも(こういう話は茨城千葉にもあります)。(筑土八幡がビル抜けての以下建物、小さな社が築土神社だそうですが…)




