【歳時記】写真でたどる日本橋今昔-2017/9(訂正:小倉柳村、追加:小林清親、江戸東京博物館)【帝都散歩】

<プロローグ>
浮世絵の日本橋
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〜日本橋魚市場でタコ大暴れ(芳年)幕末明治初期
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〜北尾政美(鍬形蕙斎)「山水略画式」蕙斎か北斎かと言われた(時代的に鍬形蕙斎が20年先行)略画式シリーズより全国の風景の略画編で、人物動物ほど略されていないが現実とはやや異なる簡潔に図案化された風景画の典型を示している。日本橋だが絵画的な完成度とは別に後摺りで富士を省略するなど、ややこしい。江戸鳥瞰図の屏風絵は極めて有名。
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〜歌川広重
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豊国(幕末)
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〜葛飾北斎
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〜歌川広景
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〜昇斎一景(明治初期)
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〜河鍋暁斎
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〜双六より
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〜広重
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日本橋魚廓図(亜欧堂田善)19世紀初頭頃。まだ浮世絵表現が爆発する前。彩色版も現存。松平定信の司馬江漢に増して魅了された、線の精密で圧倒的写実ぶりが一目瞭然な小銅版(江戸名所シリーズ)で、江戸時代の日本橋の「写真」としてどうぞ。庶民(そして恐らく多くの下級武士)相手の泥絵に零落していった司馬流儀は、西欧的遠近法という個性の主張が鏡絵という立体視法を前提として壮大で極端な歪みになり現れるものになるが、亜欧堂は現代的洋画感覚をもって複雑な被写体でもそのまま写す。井上安治より個性を出さない。銅版という技術の難しさが作為が入り込めない様式を呼んだのか、だがこの忠実さが松平に日本初の精密世界地図を委託される理由にもなったのだろう。北斎の実験銅版画は浮世絵で一般化した極端な遠近法を洋風画と緻密に融合させ、銅版画として完成されたものになってはいるが、出来には北斎そのものがあらわれすぎて現実風景とも洋画とも浮世絵とも異なるものになっている。まさしく写真という言葉は亜欧堂に相応しい。銅版画は画材や技術に左右されるので確実な技法と潤沢な画材流通経路が確立するまでは一般化しなかったが、維新後小型のものが主としてガイドや地図の名所説明挿絵で一気に増え、すぐに普及する清新な石版画への橋渡しのようになった。生き残りに必死な絵師は木版から銅版、石版と手がけ、こだわる者は木版で浮世絵師として衰退した。浮世絵版画は分業に付き人手がかかるので誰かが廃業したら終わる。-
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というわけで、以下「浮世絵だけじゃ見えない」日本橋を見ていきます。

<本編>
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〜「尾張徳川家の幕末維新」より明治初年の日本橋と推定されているおそらく最古の写真。

※さんざんかけ替えられている日本橋ですが、江戸前期の擬宝珠が日本橋東橋詰の漆器店黒江屋に所蔵展示されています。骨董として持ち込まれた経緯ではありますが今も日本橋そばに保管されるのは奇跡的です。少し潰れ破損していますが江戸東京博物館の展示物の参考にもされ、おそらく幕末頃のものとは違うものの、江戸の橋の遺物として極めて貴重です。写真では小さく見えますが結構大きい。
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作った大工の名前と年号が刻まれている。
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〜参考、広重二代
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〜参考、短命だった18代日本橋(明治三年〜五年焼失)、横浜開港資料館蔵→とされたが洋泉社「150年前の幕末・明治初期日本」によれば17代で同じもの。たしかに最初の写真と似ている。CG彩色された写真がムック本で出たことがある。
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〜一見同じ写真に見えるが橋上の人影、下中央の亡霊のような三人の魚市場の人から同時に撮られた別の写真と思われる。松戸市戸定歴史館蔵「泥絵で見る大名屋敷」学研より。2018/2刊行「150年前の〜」より何れも横浜発の英字紙「ザ・ファー・イースト」の専属カメラマンで知られるモーザーの手による(尾張徳川家所蔵版による復刻を見る限りファー・イーストには後者が採用された)。同書では高精細撮影によるより明瞭な写真を確かめられるが、見開きに1枚の写真を掲載するなど全体は見にくいところがあるので注意。。
(参考)江戸東京博物館の実物大江戸日本橋模型
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〜明治十三年「日本橋夜景」小倉柳村(注:訂正しました)
(参考)小倉柳村は東京名所画家として井上安治と同じく2年の短期しか活動せず、清親の光線画をさらに突き詰めて叙情的な表現をなしたことでしられる、とのこと。出来関係なくかなり高いです。細く無機質な描線と水彩画のような色彩感が師匠よりも自然な洋画表現に行き着いており、一方バタ臭くデジタルでカラフルな色も使い、また作品により手法的に司馬の浮絵の伝統も受け継いでいる。但し稚拙な面も…といってもわたしもこれと湯島と八ツ山と御茶ノ水しか知らないです。。確実なのは9枚、多くても13枚程度、うち世に出るのは日本橋、八ツ山、湯島、浅草寺参道と風景画で、夜景が多い。向島八百松は泥絵表現に似たものとして有名だが、同じくお台場の小さい表現が泥絵っぽい愛宕山とともに人物がとくに稚拙で、時期差があるかもしれない。御茶ノ水、隅田川岸、海運橋、品川の夜は未見(書籍や美術館にはあり)。水道橋月夜などクエスチョン付きらしい。

明治二十年出版の絵地図にこういうものがある。
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これは明治浮世絵で知られる伊藤静斎の絵による銅版画。この作品を写しているか、古い絵を写している可能性もあるが情報量からしてちゃんと描いたものだろうか。もう少し後になると同じアングルの写真も出てくる(建物の二階から見える景色なのだろう)。これは19代である。銅版画はほとんど写真起こしであることが知られる(西洋でも同じ手法が新聞挿絵にとられている)。
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開化絵にもあります。
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明治8年、ちな河鍋暁斎。

また、橋の拡幅があった可能性を示唆している(後注:明治後期に鉄道開通のため拡幅したそうです。それまでは鉄道馬車でしたが乗り心地は最悪だったとか)。鉄道が通ることになるわけで、誇張があるにしてもこんなスケール感をもって実感された↓
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日本橋上(清親)

※時期の問題はあるが木村荘八さんなど秋葉原の例を出し清親は誇張して田舎に描くといい、実際に弟子の井上安治が同じ絵を書き写したり同じ場所で書いたものはドラマがなくより写真的なものもある。安治の銀座などは清親より写実とみられるらしい。いずれこれらの名所絵の時期は明治10年よりさかのぼるものはなく、架替よりしばらくたっている。生活道として観光道としてこの静けさは演出とも思える。
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東京真画(小型名所絵)シリーズ(6割が清親の模写といわれるがこれは独自)日本橋夜景(安治)橋上に沢山人が見える。この絵はたぶん左右逆(蔵並等が手前に来るはず)。よくあるとのこと。…とおもったが
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右に電信局がハッキリ描かれており、向こうの蔵は三菱の煉瓦蔵で七ツ蔵と呼ばれた別物だそうでした。
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夜景より後年のもの(探景名義)。左に三菱の蔵。

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名所絵一覧の小銅版画(写真を下絵としている模様)だが多分これらの中では一番古い絵かほぼ同時期。手前は魚市?架橋8年後(明治13年)の出版。19代日本橋。
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明治初年の日本橋、というが人馬を分ける柵や袂の石柱より19代初期か。橋向の白壁は有名な魚河岸の納屋蔵で遠景はよく撮影されている(明治八年竣工)。手前左に高札場が残り、大傘には天ぷらと書いてある露天商。対面の橋の袂の小屋根3つは晒場とも(日本橋資料に基づく「よみがえる明治の東京」記述より)。
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清親、江戸橋(日本橋の東側)よりのぞむ日本橋の横顔(安治と逆側)富士山と位置関係に加え日本橋向こうの白壁の蔵の並び、形状からそれとわかる。この絵は赤の入った夕景だが、これは赤を落とし空を黒で塗って富士と入道雲を白抜きにし、時間を少し進めている。こういうのは後摺りなんだろう。明治十二年。
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井上安治のものは細かく写実で描かれ、夕景もどぎつい色を入れず写生に徹しているが、構図は模写だろう。

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電信局前の橋脚。まさに反りのない真っ直ぐな木橋だったことがわかる。
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電信局を逆から(北岸西側)「よみがえる明治の東京写真」
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日本橋町対岸で健在だった四日市町河岸から遠く日本橋や蔵を眺める。通常、橋の逆方向からの写真が多いので面白いですね。
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鉄道馬車が通る木橋。同じ角度の先の写真より時期が下る(手前右方向に石壁ができ細かい建物がなくなっている、歩道を分ける壁が撤去されていて、あるいは拡幅されたあとかもしれない)。この本では木橋のあと鉄橋、石橋になったと書いてあるが鉄橋は疑わしい。拡幅時の補強だろう。以上「東京そのむかし」宮尾しげを著より

-18代は木造橋としての最後になる。Wikipediaに19代のあとにいったん石橋があったかのような記述がみられるが、あったとすればその頃は二本架けられていたことになる。そういう景色を写したものは知らない。ただ、架替中に仮橋が下流側すぐ脇に架けられて、二本あった時期はある(後記:Wikipediaにも絵葉書が掲載、仮橋には両端に石造りの橋脚がないので別とわかる)。絵葉書となった航空写真で確認できる(市電は通れる幅がない)。地上から袂を撮影した絵葉書では仮橋を通る道は本道から横にそれて混み合っている。

最初は馬車道と歩道は分けられていた。
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〜「明治の東京写真」より
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この角度の写真は明治中期からいくつも出てくる。また、魚河岸から撮影した写真も多いのは絵になるからだろう。
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鉄道馬車時代のクリアな写真は結構珍しいと思う。
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魚河岸から。
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ちなみに魚河岸はこのような感じです。かなり広かった。「明治の東京写真」より
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江戸城をのぞむ珍しい写真。明治初期という。
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写真絵葉書(それまで鶏卵紙貼りの写真葉書はあった)は明治後期以降に登場するもので、手彩色のものは明治40年代より遡らない。市電が見えますが、拡幅後ですから石橋架替前くらいでしょうか。拡幅され真っ平らなさまがよくわかります。
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遷都30周年(明治三十年)祝典のため日本橋両側に杉葉大鳥居を建てたところ。厳島神社の鳥居の模型であるという。当時は大きなハリボテを杉の葉で覆う祝典用の門を作ることがよくあった。
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南詰(明治40年代)東京名所図会
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南詰(明治33年)個人蔵、書籍より参考

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:架替の仮橋
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:架替工事中の描写(東京印象記m44)
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:お役御免の仮橋
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:明治四十四年四月三日の開通式。神武天皇祭を兼ねている。天気は雨。日本一の最新豪華石橋を見る群衆で両脇は一杯だった。その見学に行った人の記念はがきが下の方に載せた金色のもの。

19代日本橋にも都電(市電)は走っていましたが、拡幅では耐久性にも問題があったのでしょう、数年で改めて、鉄路を含む市指定の道幅を確保するため新しい橋が頑強な石で架けられた。この20代日本橋のとき関東大震災があり一帯はこっぴどくやられました。鉄路には市電を走らせることができなくなり、鉄道馬車が走りました。下の写真のような皮肉な光景が見られたのです。のち空襲でも焼き尽くされますが石なので今ものこります。
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:昭和5年復興鳥瞰写真(魚河岸(跡)中心部に建物が建っている)
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:震災復興後の日本橋(背後の白いビルが三越)昭和七年

日本橋はお江戸から現代まで(今や橋じゃなく地名としてかもしれないけど)東京の中心。運河だらけの江戸の日本橋川という川にかかっており五街道の起点となっていました。明治44年に真白い石橋に架け替えられたのが現在の国重文の眼鏡橋になります。街燈や銅像など和洋折衷の見事なものが装飾的に配置され今も保存よく残っています。国重文というとお雇い外国人ぽいですが日本人が設計しました。徳川慶喜の揮毫による銘板も見えます(漢字もあり)。
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ちなみに橋のたもと(三越の向かい側)に近年記念碑と案内所ができましたが、20代目という説明がされています(くわしくは別の場所にこのあたり区の案内所があるそうです)。日本橋川クルーズの発着点の向かい側(三越側)が昭和初期築地に移る前の魚河岸跡で、記念像が残されてます。そのためこの部分はちょっと景観は変わってます。下記写真にスロープ状の橋の構造が断ち切れて残ってます。ツイートの写真と見比べてくださいな。これらのことを記したと思われる銅板は水に向かっており、橋の上から見ることは難しいです。
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魚河岸(明治40年代)
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というわけでわりと三越にはよく来てたせいか見て回ったりもしてるんですが、改めて絵葉書写真を中心に、それについて。明治5年架橋の木造橋(二枚の写真のとおり架け替え前には都電が走っていますので、都電(市電)を通すため石橋に架け替えたというのは厳密には誤りです。ただ、理由の一つにはなったと思います。また明治初期から石橋だったという説は写真の橋脚構造を見る限りでも明確に誤りです。都電が通った後にもしばらく木造だったわけです)
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6年にもわたる架け替え中風景


道路元標碑のこと。元標そのものは地面に埋め込まれている。
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地上にあった頃
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<開通記念絵葉書の構図>


最初の写真のほうですね

あ、さきほどの日本橋の件は現役書籍にちゃんと書いてあるので、ネットより書籍を信じましょう。

昔の日本橋の話をしていて、どの時代に主眼を置いてるかをハッキリさせてからでないとだめだと。魚河岸が日本橋にあって賑やかだったが末期はあんまりいい雰囲気じゃなく、移転してなんもなくなったてのはまあ聞いた話(関東大震災で壊滅後、大都市計画により昭和初期には築地に移った。江戸名物がまた消えたと言われた)。
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:築地魚河岸(昭和七年)

問題は都電は日本橋を通ってる一本だけって話で、地図や写真の電柱から逆川沿いにも走ってた話が。買い出しは日本橋の魚河岸だったそうだが、写真からするとそんな大きな感じはしないんだよなあ。その対面に川沿いに都電が走り、日本橋手前で交差するようになってるのが手元の大正くらいの地図。地図もいーかげんなこともあるので、写真を見ると今の日本橋開通時の写真に川沿いズラッと電柱が写ってる。ちな、木橋のころの写真(明治初期架橋のもの)だと日本橋が今の感覚から言ってけして大きなものではないように思う。先の石造日本橋開通写真も割と残ってるが、しょうじき今の感覚からするとみすぼらしい電飾を小さい橋にかけてるよな、、、まーそれでも木橋のころから都電は走ってるんだけど。
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渓斎英泉(写しか)

2017/10/12

by r_o_k | 2021-04-25 17:49 | 旅行 | Comments(0)