歳時記:写真でたどる日本橋今昔-2017/9(写真さらに追加、修正)

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〜日本橋魚市場でタコ大暴れ(芳年)
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〜明治四年??「日本橋夜景」井上安治、明治五年架橋直前の貴重な18代日本橋の絵?してみると師匠の清親より前に描いたことになるが、まだ十歳にも満たない頃のはずで、光線画すら確立されておらずその時期の作品なわけはない。これについては明治二十年出版の絵地図にこういうものがある。
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これは明治浮世絵で知られる伊藤静斎の絵による銅版画。安治を写しているか、古い絵を写している可能性もあるが情報量からしてちゃんと描いたものだろう。これは19代である。かつ橋の拡幅があった可能性を示唆している。鉄道が通ることになるわけで、誇張があるにしても↓
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日本橋上(清親)

※時期の問題はあるが木村荘八さんなど秋葉原の例を出し清親は誇張して田舎に描くといい、実際に弟子の井上安治が同じ絵を書き写したり同じ場所で書いたものはドラマがなくより写真的なものもある。安治の銀座などは清親より写実とみられるらしい。いずれこれらの名所絵の時期は明治10年よりさかのぼるものはなく、架替よりしばらくたっている。生活道として観光道としてこの静けさは演出とも思える。
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東京真画(小型名所絵)シリーズ(6割が清親の模写といわれるがこれは独自)日本橋夜景(安治)橋上に沢山人が見える。
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名所絵一覧の小銅版画だが多分これらの中では一番古い絵か。架橋8年後(明治13年)の19代日本橋。

最後の木造。Wikipediaに19代のあとにいったん石橋があったかのような記述がみられるが、あったとすればその頃から二本架けられていたことになる。そういう景色を写したものは知らない。ただ、架替中に仮橋が下流側すぐ脇に架けられて、二本あった時期はある(後記:Wikipediaにも絵葉書が掲載、仮橋には両端に石造りの橋脚がないので別とわかる)。絵葉書となった航空写真で確認できる(市電は通れる幅がない)。地上から袂を撮影した絵葉書では仮橋を通る道は本道から横にそれて混み合っている。
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:架替の仮橋
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:お役御免の仮橋

19代日本橋にも都電(市電)は走っていました。鉄路を含む市指定の道幅を確保するため20代は頑強な石で架けられた。20代日本橋のとき関東大震災があり一帯はこっぴどくやられました。鉄路には市電を走らせることができなくなり、鉄道馬車が走りました。下の写真のような皮肉な光景が見られたのです。のち空襲でも焼き尽くされますが石なので今ものこります。
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:震災復興後の日本橋(背後の白いビルが三越)昭和七年

日本橋はお江戸から現代まで(今や橋じゃなく地名としてかもしれないけど)東京の中心。運河だらけの江戸の日本橋川という川にかかっており五街道の起点となっていました。明治44年に真白い石橋に架け替えられたのが現在の国重文の眼鏡橋になります。街燈や銅像など和洋折衷の見事なものが装飾的に配置され今も保存よく残っています。国重文というとお雇い外国人ぽいですが日本人が設計しました。徳川慶喜の揮毫による銘板も見えます(漢字もあり)。
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ちなみに橋のたもと(三越の向かい側)に近年記念碑と案内所ができましたが、20代目という説明がされています(くわしくは別の場所にこのあたり区の案内所があるそうです)。日本橋川クルーズの発着点の向かい側(三越側)が昭和初期築地に移る前の魚河岸跡で、記念像が残されてます。そのためこの部分はちょっと景観は変わってます。下記写真にスロープ状の橋の構造が断ち切れて残ってます。ツイートの写真と見比べてくださいな。これらのことを記したと思われる銅板は水に向かっており、橋の上から見ることは難しいです。
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というわけでわりと三越にはよく来てたせいか見て回ったりもしてるんですが、改めて絵葉書写真を中心に、それについて。明治5年架橋の木造橋(二枚の写真のとおり架け替え前には都電が走っていますので、都電(市電)を通すため石橋に架け替えたというのは厳密には誤りです。ただ、理由の一つにはなったと思います。また明治初期から石橋だったという説は写真の橋脚構造を見る限りでも明確に誤りです。都電が通った後にもしばらく木造だったわけです)


道路元標碑のこと。元標そのものは地面に埋め込まれている。
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<開通記念絵葉書の構図>


最初の写真のほうですね

あ、さきほどの日本橋の件は現役書籍にちゃんと書いてあるので、ネットより書籍を信じましょう。

昔の日本橋の話をしていて、どの時代に主眼を置いてるかをハッキリさせてからでないとだめだと。魚河岸が日本橋にあって賑やかだったが末期はあんまりいい雰囲気じゃなく、移転してなんもなくなったてのはまあ聞いた話(関東大震災で壊滅後、大都市計画により昭和初期には築地に移った。江戸名物がまた消えたと言われた)。
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:築地魚河岸(昭和七年)

問題は都電は日本橋を通ってる一本だけって話で、地図や写真の電柱から逆川沿いにも走ってた話が。買い出しは日本橋の魚河岸だったそうだが、写真からするとそんな大きな感じはしないんだよなあ。その対面に川沿いに都電が走り、日本橋手前で交差するようになってるのが手元の大正くらいの地図。地図もいーかげんなこともあるので、写真を見ると今の日本橋開通時の写真に川沿いズラッと電柱が写ってる。ちな、木橋のころの写真(明治初期架橋のもの)だと日本橋が今の感覚から言ってけして大きなものではないように思う。先の石造日本橋開通写真も割と残ってるが、しょうじき今の感覚からするとみすぼらしい電飾を小さい橋にかけてるよな、、、まーそれでも木橋のころから都電は走ってるんだけど。
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by r_o_k | 2017-10-12 10:56 | 旅行 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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