浅草十二階凌雲閣について(展望、夜景写真、洗い髪お妻、バルトン写真、遠景、見晴らし、内部構造、浅草公園地図、絵、絵葉書等、土台発掘写真追加)~2017/9/1防災の日(関東大震災の日):歳時記

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アルバム
〜浅草六区の十二階凌雲閣は大正の大震災で半壊され危険なので、赤羽工兵隊の手で爆破した。明治二十三年に出来てから僅か三十四年の寿命でこの世から消えた。 十階までは八角形の総練瓦、十一、十二階は木造で高さは二百二十尺、総経費五万五千円。入場料大人六銭、軍人小児三銭也。日清役後は洋風画で台湾ボウコ島、遼東半島ののぞき絵や、東京美人の写真を各階に並べ、三階に西洋音楽を聞かす休憩所が二銭出すと入れた。九階に行くと官報と新聞の閲覧室。十一階に又休憩所、美少女が茶菓を持ってくる。勿論茶代を払う。十一、十二階に登れば遠望鏡の借賃一銭。富士と筑波を左右の雲間に望んで、秩父の連山、房総の山々、品川の海には白帆が浮び、南は羽田沖から東は鴻の台に達して、天気が良いと西は箱根、北は日光までが見はらかせた。〜「東京そのむかし」宮尾しげをs30アソカ書房

(2018/2/12-13工事現場写真等)
20180112浅草十二階(凌雲閣)土台発掘現場・浅草寺その他
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〜上部に白い部分があるのは改装後の後期の写真。

浅草十二階「凌雲閣」は明治23年に浅草寺北西の六区の北、千束に建てられた当時としては日本一の民営の高層タワー。当初周囲に何も高い建築物が無く、夜はまばゆい無数のアーク灯がぐるりをめぐる窓のすべてから光を放ち(いつもではない)、見た目の突飛さ、上階景色の秀麗さ、周辺風俗の華やかさから数々の文学・絵画作品に取り上げられた。
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推定明治24年1月撮影(竣工二ヶ月後)〜「吉原下町談語」掲載
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開業広告(東京日日新聞)〜「変態広告史」掲載
<工事は一年とかからず極めて短期間で行われたという。頑健なレンガ造り(コンクリで継ぎコンクリ土台を敷いた、これは日本初とも推定される)だがエレベーターはすぐ危険だというので止められ末期は老朽化が指摘された。くすんだ茶色の煉瓦が池に映る姿は愛され、失われて後すぐ、同時代者にすでに研究される対象となっている。>
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〜設計者ウィリアム・バルトン。エジンバラ出身。水道工事などのほか多彩な活動を行った。

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大日本凌雲閣之図(左に螺旋階段とエレベーターの構造図が見える)〜「図説浅草寺今むかし」掲載
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設計者バルトンによる十二階の写真。時期不明。イギリスからお雇い外国人として来日したが、写真家としての面もあった。明治28年まで実に8年間滞在している。小説「Ayame san」の挿絵がわり写真の一つ。「外国人カメラマンの見た幕末日本Ⅱ」より、国際交流基金図書館蔵
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〜「明治の日本」より宮内庁所蔵、前期の浅草寺側入口付近の様子がわかる。
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〜明治時代の写真集より古いものを。
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〜「東京案内」掲載、後期の改装済の姿。
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〜最上階に「十二階」の看板が見える。改装前。
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〜夜景。最上階におなじく看板が見える。同時期の絵と思われる。下敷きは写真と思われる(同じような構図の写真がある)。
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〜夜景部分、前掲「東京そのむかし」裏表紙より。
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〜区史料より引用、改装後の十二階彩色写真だが、看板がみられる。
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〜明治三十年代の石版画。十二階が簡単に書き添えられている。大正時代にこのシリーズで十二階を入れた浅草公園の絵も刷られている。
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〜明治四十一年「東京名所図会(復刻本)」上野の山から十二階をのぞむ。
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〜(参考)原本、合本しかないので展開して見られる復刻本の図版も残しておきます 綺麗です
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〜同書(復刻版)神田駿河台個人宅から浅草遠景、ここにも浅草寺奥に十二階が見える。
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〜「東京名所図会(復刻本)」浅草公園全景、綴じ目にちょうど花やしきが隠れてしまった。。この図は浅草区史にも流用されている。
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〜同、六区から十二階。
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〜後年の粗い写真ですが上野山からの絵と同じ方向。
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〜明治四十三年「東京名所写真帖」浅草対岸から浅草寺越しに十二階がみえる。
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〜明治四十一年「東京名所図会」下谷浅草附近遠望、と称する写真。左上に薄く十二階が写っています。(復刻版よりはるかにクリアな写真です。。)

千束は六区と違い建築規制がなかったのである(のち池側に有名な仁丹看板(仁丹塔は別物、雷門前から突き当りのファミマのあたりに80年代まであった「模型」で、今は貼り紙のみ)が立つが、ファミマがキーとなるとすればひさご通り(アーケード)のファミマあたり?角度が違うか?)。前年の大阪のものを凌ぐ外国人設計者によるモダンな本格煉瓦建築であり(上2階を除く)、塔高50メートルを越え、十二層にもなり浅草歓楽街の象徴となった。目的は産業振興等のためさかんに行われた博覧会の一つに供することだったが、他の博覧会建築と違い取り壊しを前提とはしなかった。もちろん突飛な建築物が江戸の象徴たる浅草の景色にそぐわないと忌み嫌う向きもあった。戸川残花は「東京史蹟写真帖」で大銀杏二本(辛うじて一本焼け残っている)と五重塔(空襲焼失)につき書き記し、墨田の夕暮れは筑波山とこの五重塔で面白いのに、唐突に十二階で一幅の名画に汚点を与えた。今戸、橋場の屋根の上にも電線の高く見えるは花川戸の助六も見下ろして苦笑するだろうと言っている。
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〜明治43年8月東京大洪水時の浅草公園。十二階をのぞむ人工池ひょうたん池(正式には大池というそうです。東京の古い人に聞けば知ってます)が溢れて、道を筏でわたりしまいには泳いで遊ぶ人が出る始末。仁丹看板が見える。

ちなみに、以下同じものを含む浅草公園の写真(絵葉書もあるとのこと)
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「明治の記憶」学習院大学より(最後は浅草本願寺と記載されている)

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〜日露戦争後ころの十二階、販売はおそらく明治末期か(後出の絵葉書と同じ凌雲閣のスタンプが押されている。この角度のこの色調の絵葉書はいくつかあるよう)色合いは末期のそれを描写したものに似ている。
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〜十二階で最も有名なのが東京百美人というコンテストで、時代柄ほとんどはプロの藝妓だったが、立派なブロマイド写真を百枚、階段に飾りトップ5を競った。初回は名前もはっきりしないコンテストで、テコ入れ的な企画にもかかわらず大評判となったがために色々芸能人のような扱いをされる藝妓も出てきた。これは東京名所絵のていをとりながら、下に東京百花美人の名でエントリした藝妓を配している(熊澤喜太郎による明治24-25年の石版画)。背後に十二階が見える。隅田川をはさんでいるので今戸を俯瞰で見たら、このように見えた(大きすぎる気も)ということだろう。
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〜「バルトン先生、明治の日本を駆ける!」稲葉紀久雄、平凡社h18より引用(百美人とあるため初回ではなく、第何回かはわからない)

参考:一位 深川八幡の新橋玉菊
この絵もそうとう売れたようです。(他にも何枚か手元にありますが脱線するのでここまで)
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選外だが、当初撮影に髪結いが間に合わず洗い髪で駆けつけて、結局改めて結髪にて撮影され展示されたものの、話が漏れてむしろ洗い髪写真を表に出したところ大評判となり「洗い髪おつま(お妻)」として広告などに引っ張りだことなった有名人が花の家のこちら。手元の資料には二位とあるが、それほど伝説的な存在。研究もされている(本来はもう少し大きい写真でのちに他にも洗い髪のままの写真が撮影されたが、ほとんど現代のグラビア写真のポーズである)。没落した対馬藩士の娘という。のち伊藤博文や桂太郎などの愛妾となりかけるも40代で命を落とします。
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この初回百美人は十代中心。非常に若い藝妓らが選ばれました(のちに一般枠が拡大しプロ以外にも門戸が開かれます、母親が上位になって気恥ずかしかったという記述も読みました)。下は選外の芳町小てる。同時期のものでしょう、とても若いですね。
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はなしをもどします。
明治24年、風船玩具の包紙兼オマケと思われる。子供向けの名所でもあった(これが末期には裏に大人の店が密集する場所となっていく)。
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十二階は単独で威容を誇ったあと次第に周囲が拓け始め、浅草寺域内の「浅草公園」としてひょうたん池(最大で現在の「ひさご通り」南側周辺から花やしき脇パチンコ屋(十二階記念碑がある)周辺、JRA手前までくらいか)が掘られ、周囲に桜など植え込みが植えられた中から望める奇景として、さかんに写真の被写体となる。絵ハガキが売られ海外へも出回り、最初から最後まで多く残された。コレクターもいる。世界一周映画の一編としてリュミエールも映像におさめているそうである。※ネットではwikipediaのみの記述

大正時代はじめの十二階の玄関(芝居見世物看板)が映る動画はこちら。浅草の震災前の雰囲気が擬似的にわかるよう編集されています。

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もちろん当初の目的である、かつてない高所から低い建物しかない下町ひいては関東平野を見晴らし筑波山関八州までのぞめる、という売りはしばらく人気を呼んだ。名目上は美術館ということもあってまだ新鮮だった頃は「日露戦争ジオラマ」のような展示物があった。しかし周辺の発展と同時に建物も猥雑な雰囲気に埋もれていき、人気も落ちて、大正の頃には目の前に浅草国技館も建ってすっかり景色の単なる一部となった。
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〜日本名勝旧蹟産業写真集 より、国技館と重なった不思議な角度。

下層階周辺とくに裏が酒場、「白首」と呼ばれる私娼の巣窟になるなど様変わりした。このあたりも文学者の格好の素材となっている。
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絵はがきのように十二階劇場という芝居小屋が目前に出来、お化け屋敷ないし見世物小屋(あるいは季節物の芝居)になっていて、東京の遊興者の評判はそちらに取られてしまっていました。
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明治40年4月「最新東京明覧」掲載、博覧会見物者用の各名所地図が載っているなかのひとつ。不明瞭ですが十二階周辺が拓けているのはわかります。十二階も存在感があります。
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大正11年3月関東大震災直前の萬朝報附録「東京案内大地図」裏面掲載、浅草公園案内(左下隅に十二階が見えますがもはや付け足しのようです、この地図は表面も少し不正確なのでこれも目安程度か)
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〜「よみがえる明治の東京」より、十二階上から浅草公園を見渡す(なぜか十二階内部と上からのパノラマ写真は数少なく、絵葉書も一枚しか確認していない(書籍よりトリミング、問題あれば削除します↓))
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末期の十二階からの大池です。元浅草国技館の頭が見えます。手を加えないリアル写真ですとさらに。
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〜同書より浅草寺方面。
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〜浅草観音(明治二十年代か。撮影は日本初の商業乾板写真で初めて早取写真師の名を頂いた浅草の写真家江崎禮二(のち浅草公園は観光記念の早取写真(ポラロイドみたいな感覚)が名物となる)、鶏卵紙に拡大複写販売されたもの)。季節が冬で上の写真では見えなかった経蔵から墨堤までが見える。(建物は戦災で本堂、五重塔や仁王門とともに焼失、中身は避難して助かった)

じゃまな網のうつらないパノラマ写真も実はあるようだ。撮影用に外したのかもしれない。だが手元に掲載本がないので載せられない。
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〜「浅草区誌上巻」大正3年より。前掲書と同じ写真と思われる(国会図書館本では浅草公園方面の二枚は省かれています)
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直径13m弱の塔には店舗などとともに日本初の電動エレベーターも敷設されたが故障のため長くは続かなかった。階段を登らせるため、平山蘆江によれば芸者写真を集め壁面に展示、当世美人コンテストのような「東京百美人(これはかなり長期に渡り実施されたようである)」等で人を呼んでいた。しかし結局、末期に十二階の人気回復のため再敷設されている。
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花やしき近くのところにも塔があり奥山閣と呼ばれ料理屋となっていた。天頂の鳳凰像の金ピカに輝くところもいかにも浅草らしい。
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アングルはよくあるものだが、十二階手前によく写っている。
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明治前期に潰された弁天池写真だが弁天池と奥山閣を共に写した写真があったかと思う。これは尾張徳川家の写真を参考引用(ベアトの幕末写真は蓮の繁茂以外ほとんど同じ、別項掲載)。明治十六年陸軍省の測量図では鐘撞山を中心とした低い建物に囲まれた丸い池となっているが、境内を浅草公園方面へ広々と見渡す写真に池が写っているものもある。測量は正しいかと思われるが池自体がやや大きかった、建物のない時期があったことは推測される。

これは昭和初期の浅草本を読むと書いてある。曰く建物のない風景は関東大震災でぐるりと焼けてしまったものだという。古い写真にも拓けたものはあったように記憶している。しかしこの本によると「明治初年の、弁天山(鐘撞山)は鐘楼の傍に薄気味の悪い様な池があって、新派悲劇の舞台等にはうってつけの場面だった」。確かに薄気味悪かったらしい。


愛宕山には十二階と標高が同じといって愛宕塔なる望遠塔も建てられた。他にも似たようなものがあった。大阪の十二階というものすらあった(凌雲閣より早かったらしい。形は円錐形みたい)。
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江戸東京博物館の復刻
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しかし

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関東大震災は浅草一帯にも壊滅的打撃を与え、十二階も免れえなかった。煉瓦のため火災による焼失を免れた一方、地震には弱く上半分が折れ落ち観覧客らを巻き込んだ(明治時代の大地震で既に亀裂が入っていたという)。営業側では復旧不可能と判断され、ぼろぼろと崩れゆく状態に危険性をかんがみて軍により二回かけ爆破された。これは映像が残っている※。これもまた画家の格好の題材となっている。バベルの塔になぞらえるような表現も見られるが、写真のとおり周辺の大建築が皆燃えてしまったから当初の単独峰の姿が復活しただけである。
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※京都大学がデジタルアーカイブで公開している関東大震災映像に含まれている。コレクションから辿っていかないと検索では探しにくい。題名もややこしいので注意。
前掲のような隅田川対岸からの浅草にもはや、十二階は見えない。
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罹災地図より、上野公園からの十二階。
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瓦礫の始末は方々で問題となり、古来の池泉に投げ込むことで処理される場合も多かった。けっこう遠いのだが入谷駅近くに朝日弁財天(戦後私有から寄付された土地に建てられた名前でもともと姉弁天もしくは弁天院と呼ばれる)がある。もともと松山の水谷伊勢守勝隆が不忍池の弁財天とともに下屋敷内に建立したもので、つまり東西(朝夕)対となっていた。不忍池の広大さに対しなぜこちらが対になるのかといって、このあたり一帯も「水の谷の原」と呼ばれるほどの一大湿地帯であり、明治時代になっても8000坪もの池が多くの生き物を孕んで広がっていたという。
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明治12/20年の浅草の地図(まだ浅草公園は作られておらず田圃になっている)。現在地と少しずれるが鷲神社裏に大きな池が見える。このあたりが湿地だった。龍泉の地名は今も残る。
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(奥の緑が現在の朝日弁天公園だが、元はこのあたりまではあった。空襲もあり、そのため十二階の瓦礫はどこに埋まっている、もしくはいたのか不明である。)
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(児童公園になっているが、マンホールがいくつか目につく。水気を感じる。向かって右手にある小池は人工のもの。)
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ここに十二階やその他浅草の残土瓦礫が放り込まれることとなった。煉瓦は重い。牛馬が運搬の労で斃れることもあった。池泉の生き物たちもことごとく焼けた土砂の中に潰されていった。このことをのちに嘆く歌を詠む者もあったが、結局のところ池は全部瓦礫で埋まったようである。現在コンクリの小池が社殿向かって右脇にみられるが、空襲などですべてを失った戦後に宗教法人として整備された延長上で復興したものだろう。近年、瓦礫運搬の家畜や池泉の生き物を供養する観音像が建立されている。境内は池を含めればもっと広かったとのことで、どのあたりが十二階の煉瓦の眠る場所なのかわからない。
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近年再建され、最近解体された仁丹塔(現在はファミマと看板)
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:荒俣宏「異都発掘」1987

現在発掘調査により十二階の建っていた最も確実な位置と思われる浅草2-13-10~14-8の一角の地面をよく見ると、赤煉瓦の破片が見える。これは後世のものだろうか。※
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※当時のものでした。2018年に入り更地(もと台東医院)の開発が始まったところ煉瓦層が二箇所現れ、地固めのコンクリートがその下に発掘され、ここが角地であることが判明。同じ基礎は向かいの元焼肉屋の赤いビルを建てるときも出たという(それがここの場所確定の根拠となった)。そちらのときはイギリス積みの煉瓦がかなりの硬さで難儀したとか。さて塗りの厚薄あるようですがどうやらコンクリートで煉瓦をがっちり繋いでいるため堅くなったようで、薄いですが重い煉瓦そのものは紅ぽいものと橙ぽいものがあるようにも見受けられました(光の加減か湿気のせいかもしれません)。壊滅はしましたが出土瓦礫の一部は保存され記念碑が検討されているそうです。このあたりはすべて浅草寺の土地で、どうやら再開発のターゲットになっているようで、現況保存の頼みの綱は公共であり塔の真ん中があるかもしれない「道路」だけですね。ただ、敷設や水道管埋納等工事のつど掘り込まれ土砂やコンクリートで侵食された可能性はあります(そもそも基礎が床面全部を支えていたかどうかも不明)。最初の発見の時の出土煉瓦は下町資料館に展示されているそうです。簡単な資料も存在します。
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左前のマンションをニ、三階低くした建物が、おそらくこの正面にあり、このあたりが入り口だった模様。
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ちなみに前記パチンコ屋前の標識では2-14-5(当地)となっている。浅草町会の標識には五区~千束2-38とある。後者は古い地番であり、発掘前にはこことされていた。
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ひょうたん池は昭和30年代までは辛うじて残っていたが商業地に埋められた。その名をのこすのが花やしき通り突き当り右のアーケード「ひさご通り」で、ここを少し行って老舗すき焼き屋手前を左に行くと先程の推定位置に出る。角の店はよく変わるので番地で調べていくと良い。四つ角より少し南、少し「国際通り(現在のビューホテルあたりは寺跡で、永らく松竹の国際劇場があったことからこう呼ばれている)」側が中心部であったようだ。下記ツイートのリンク先動画も参照。
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浅草寺側からの十二階
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〜浅草寺本堂脇。奥山閣から十二階がうっすら見える。
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〜ほぼ同じアングルから。
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〜浅草公園一帯が桜の名所でひょうたん池際の桜の絵葉書は彩色により咲いてないのに咲いてるように偽って販売されたくらい。
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〜ただの冬の風景に見えますが同じ写真の彩色になると花がわんさか咲いてます。枯れ木に花よ花咲かじいさん。

花屋敷側からの十二階
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〜上階の構造が比較的よく写っています。近かったことがわかる。
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〜十二階なき池の端。

その他、ツイッターから〜

2017/8/31浅草十二階跡地・ひょうたん池跡地・瓦礫処理地(朝日弁天池)


十二階幻影(Flickr動画)
十二階幻影20170831_145646浅草.mp4

資料


by r_o_k | 2018-02-12 17:30 | 旅行 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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