十二階は単独で威容を誇ったあと次第に周囲が拓け始め、浅草寺域内の「浅草公園」としてひょうたん池(最大で現在の「ひさご通り」南側周辺から花やしき脇パチンコ屋(十二階記念碑がある)周辺、JRA手前までくらいか)が掘られ、周囲に桜など植え込みが植えられた中から望める奇景として、さかんに写真の被写体となる。絵ハガキが売られ海外へも出回り、最初から最後まで多く残された。コレクターもいる。世界一周映画の一編としてリュミエールも映像におさめているそうである。
大正時代はじめの十二階の玄関(芝居見世物看板)が映る動画はこちら。浅草の震災前の雰囲気が擬似的にわかるよう編集されています。
もちろん当初の目的である、かつてない高所から低い建物しかない下町ひいては関東平野を見晴らし筑波山関八州までのぞめる、という売りはしばらく人気を呼んだ。
〜前掲図の抜粋。左先に墨堤に隠れた三囲神社鳥居が書かれている。距離的に見えないと思うが(この鳥居の遠景写真をさがしてます)
名目上は美術館ということもあってまだ新鮮だった頃は「日露戦争ジオラマ」のような展示物があった。しかし周辺の発展と同時に建物も猥雑な雰囲気に埋もれていき、人気も落ちて、大正の頃には目の前に浅草国技館も建ってすっかり景色の単なる一部となった。
〜日本名勝旧蹟産業写真集 より、国技館(遊楽館)と重なった不思議な角度。
下層階周辺とくに裏が酒場、「白首」と呼ばれる私娼の巣窟になるなど様変わりした(震災後に立ち退きを余儀なくされついに東向島へ移る、つまり玉ノ井)。このあたりも文学者の格好の素材となっている。西洋風に飛び降り自殺する者も現れた。
(看板絵が同じのため同一写真と思われる。下は前掲参考文献より。)
絵はがきのように十二階劇場という芝居小屋が目前に出来、お化け屋敷ないし見世物小屋(あるいは季節物の芝居)になっていて、東京の遊興者の評判はそちらに取られてしまっていました。
千束町大通から(東京名所図会など)
…
参考。
明治40年4月「最新東京明覧」掲載、博覧会見物者用の各名所地図が載っているなかのひとつ。不明瞭ですが十二階周辺が拓けているのはわかります。十二階も存在感があります。
珍しい空撮写真の絵葉書。十二階のランドマークぷりがよくわかります。
大正11年3月関東大震災直前の萬朝報附録「東京案内大地図」裏面掲載、浅草公園案内(左下隅に十二階が見えますがもはや付け足しのようです、この地図は表面も少し不正確なのでこれも目安程度か)
〜「よみがえる明治の東京」より、十二階上から浅草公園を見渡す
〜「古老がつづる台東区の明治・大正・昭和Ⅱ」大正7年頃
(なぜか十二階内部と上からのパノラマ写真は数少なく、彩色絵葉書も一枚しか確認していない(書籍よりトリミング、問題あれば削除します↓))
末期の十二階からの大池です。元浅草国技館の頭が見えます。手を加えないリアル写真ですとさらに。
国技館ができる前の大池の景色。同じ写真の別彩色(後者は横浜写真、「明治の日本」増補版、横浜開港資料館より、赤が強く出てしまっています)
〜「よみがえる明治の日本」より浅草寺方面。(原本:浅草区史)
〜「浅草区誌上巻」大正3年より。時代の下る景色。前掲浅草寺方面はこの写真のコピーとのこと(国会図書館本では浅草公園方面の二枚は省かれています)
※こちらでした。隅田川のむこうの煙突群まで見える克明なものになっています。新吉原がはっきりしないほど建物が建て込んでおります。時期は下るでしょうが、大池の手前にはまだ国技館はありません。「博覧都市江戸東京」江戸東京博物館h5より
以下同じ絵葉書のスタンプなし。(一枚三万数千円とかとんでもないプレミアついてます!)「浅草地域のあゆみⅡ」江戸東京博物館調査報告書第33集h30より
〜このようなベランダから展望した(広告ポスターより)
〜人間には妙な性癖が有る。少しでも高い所から人を見下すと愉快を感じるらしい。明治十八年頃ださうナ、五重の塔修復の時、足場を掛けて登らせたら大変儲かつたと云う。そこで香具師が今の富士館辺に富士山の模型を築き上け金五銭で登らせたら案の如く大繁盛だ。すると、 最後に凌雲閣が出現して富士山を蹴散かして了つた、是が明治二十三年から今日に至る迄浅草の標的となつて肩をいからして聳える十二階。三人死んだから是真の三死十二階は落語家の云ひ草だが、自殺を企てる不所存者を防ぐ為めに十一、十二階は金網が厳重だ。その鳥籠のような中から、『あの丸いのが国技館かい』『彼方の白い燐火箱の行列が吉原だよ、どうだい公園にウヨウヨする人間共の小さいこと、 まるで姐虫だね」と怖る怖る覗き込んでは、征服者の得意さを顔の筋肉に表示させる。(吉岡鳥平「甘い世の中」T10)
直径13m弱の塔には店舗などとともに日本初の電動エレベーターも敷設されたが故障のため長くは続かなかった。階段を登らせるため、平山蘆江によれば芸者写真を集め壁面に展示、当世美人コンテストのような「東京百美人(これはかなり長期に渡り実施されたようである)」等で人を呼んでいた。しかし結局、末期に十二階の人気回復のため再敷設されている。
以下、「博覧都市江戸東京」江戸東京博物館h5より凌雲閣十二階の編年。一部重複等省略。
花やしきにも塔ができて奥山閣と呼ばれ料理屋となっていた。天頂の鳳凰像の金ピカに輝くところもいかにも浅草らしい。
:奥山閣から浅草寺参道側風景、以上2枚「明治の日本」増補版、横浜開港資料館より(スキャンで赤が強く出てしまっています)
※花屋敷は嘉永六年設置の庭園パークで幕末すでに十年余り営業していた老舗※。浮世絵にも描かれ(最後の写真のみワーグマンコレクション(オランダ→長崎大学)だがキャプションはないものの明治初期の旧状を残した花屋敷内と思われる)、菊などの植物、あとは名物のこの虎の稚拙な絵、貧弱な展示に奥山閣。それが維新後の浅草公園の設置、繁栄により門構えがどんどんいかつくなっていく。明治後期の写真というがずっと前の写真か、奥山閣だけの入口として独立したものだと思う。他でも掲載される写真だがこれは国際日本文化研究センター蔵、「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」より
※参考文献の誤記が判明したため一部記載を訂正しました
〜東京名所図会「浅草公園」復刻版より、十二階より遥かに頁数が割かれている。
十二階上から奥山閣越しの浅草寺(このアングルは前掲三枚と同じで、人気だったのかもしれない)
2枚の彩色版。前者はいわゆる手彩色、後者は土産用に横浜で彩色された横浜写真(「明治の日本」増補版、横浜開港資料館より、スキャンアプリの性能上赤くなってしまいましたが緑がよく出ています。前者は後者を下敷きにしたものという説明もあります。書籍掲載写真よりカットが大きい。)
ちなみに同じ頃か少し前の洪水時に十二階から眺望した風景とされるもの(風俗画報)角度もさることながら三囲神社の鳥居まで見えるのはやりすぎ。。ふつうの鳥瞰図として捉えるべきか。
アングルはよくあるものだが、十二階手前によく写っている。
【脱線】弁天山と弁天池について
明治前期に潰された弁天池写真だが弁天池と奥山閣を共に写した写真があったかと思う。これは尾張徳川家の写真を参考引用(ベアトの幕末写真は蓮の繁茂以外ほとんど同じ、別項掲載)。明治十六年陸軍省の測量図では鐘撞山を中心とした低い建物に囲まれた丸い池となっているが、ファー・イーストの写真を始め境内を浅草公園方面へ広々と見渡す写真に池が写っているものもある。測量は正しいかと思われるが池自体がやや大きかった、建物のすくない時期があったことは推測される。
〜井上安治(探景)「金龍山之図雪月花之内雪」(「浅草寺今むかし」より、カラーは画像が発見できませんでしたが何年か前の台東区のカレンダーにあったそうです。北渓など古くから似た俯瞰図は描かれています)明治十八年、経蔵、五重塔、仁王門手前の配置がよくわかります
〜広重、弁天池を手前に広大に広げるデザインしてます。ちなみに弁天山は築山ではなく関東大震災あと坪井正五郎博士らにより古墳として調査されたりしました。
〜本堂・仁王門間から隅田川方向。コンパクトな版画なのでコンパクトに凝縮した表現。仁王門から奥に続く石塀は本堂と参道の障壁(神社の結界)で右に弁天池があるはず。他の絵同様恐らく広重模写でしょうが、原図を知りません。コレ自体は作者不明。幕末頃か。
これは昭和初期の浅草本を読むと書いてある。曰く建物のない風景は関東大震災でぐるりと焼けてしまったものだという。幕末明治初期の古い写真にも拓けたものはある。しかしこの本によると「明治初年の、弁天山(鐘撞山)は鐘楼の傍に薄気味の悪い様な池があって、新派悲劇の舞台等にはうってつけの場面だった」。確かに薄気味悪かったらしい。
アングル違い、
初回「大江戸」で話題になった「高精細画像で甦る150年前の幕末・明治写真」浅草寺弁天池の有名な写真(ファーイースト明治4年1月17日号掲載、モーザー撮影)拡大写真、池は開化後すぐなくなりこの弁天祠があるが、原写真では提灯に交差大根が見えるという。これは右、経蔵よりさらに右奥の待乳山聖天から和合神を習合したのでは??
この弁天は宇賀神を頂く(光背頂部にも3つの宝珠のようなものが見える)弁天像で、白髪ゆえ老女弁天として知られる本尊とともに新築弁天堂におわす。縁日巳の日(不忍池弁天島と同じ蛇の日ですね)法要で開扉される。写真は「浅草寺今むかし」から。
放送大学附属図書館蔵の写真部分。ほぼ同時期とされるが精度のせいかうらぶれた雰囲気がある。このあたりは陰鬱で池のなくなる明治20年以降も情死に使われそうと言われていた。弁天祠には大根提灯は無い。時期の可能性もあるが少し下るのかもしれない。「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」 より部分
弁天池から仁王門、「明治の日本」横浜写真(横浜開港資料館)より彩色写真(スキャンアプリの性質上赤く出ています)
ワーグマンコレクション(オランダ→長崎大学)より、気味の悪い雰囲気は出ている。ちなみに中央が現在唯一残る大銀杏(戦災銀杏)だろう。明治前期。前掲のファーイースト高精細写真と同じか。
参考、埋めた後(池際の障壁が残っています)
もっと精度の高い写真もあるがついでということで。俯瞰で見ると弁天池は意外と広々としている。また弁天祠(宇賀神)をよく見ると縦長の大根提灯が2つ下がっていて最初の写真に似る。確かこれもファーイースト写真(復刻版には収録されていない)。時期は同時期だろう(同紙短期間しか出なかった)国際日本文化研究センター蔵を引用、「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」
※下は「明治の日本」横浜写真(横浜開港資料館)より彩色写真(スキャンアプリの性質上赤く出ています)
ファー・イースト復刻版収録、池の向こう。幕末。
五重塔と下の雰囲気(「高精細〜」より)同時期。
ついでに。昭和7年、関東大震災復興大工事のとき観音堂最上階から五重塔を見る(彩色絵葉書にもなった)。公園化した境内は噴水などあり、関東大震災をへて整然としている。この塔も仁王門も戦争で失われた。
現在は位置の変わった二尊仏坐像は幕末写真の至るところに現れる。大銀杏とともに江戸浅草の生き証人となっている。
北斎2枚(参考)
経蔵。これも現存せず。
経蔵と五重塔(観音堂(本堂)向かって右手前に並んでいた)
観音堂内から同アングル(「明治の日本」より手彩色写真)
縁起より
観音堂手前左の軒
浅草寺大銀杏二本ですが、右が経蔵と五重塔の間(現存する)。左は本堂裏(恐らく石碑のある今の小さな銀杏が、幹の形を見るに生き残った「頼朝の箸が育った銀杏」だと思われる)
経蔵と五重塔、参道沿いに灯明台、大灯籠ができている。なぜかあまり写真が出てきませんが前記の一切経蔵です。新門辰五郎らが鎌倉様式で再建したもので、最初の正面写真、向かって左軒にかかる銀杏は現存する戦災銀杏です。この写真だと右手前が五重塔。中には回転式の転輪蔵があり回して肖ろうとする人々で賑わいました。鶴岡八幡宮から明治3年5月神仏分離令で持ち出され塔の辻で焼却されそうになった元版一切経を、御徒町出身の貞運尼という僧侶が色々と貯めた資金に人々の協力を加えて買い取り、品川まで船で輸送したあと新門辰五郎の力を得て大八車に行列を調え翌三月、浅草寺に奉納しました。
:ベアト撮影、明治初期の鶴岡八幡宮経蔵、手前に舞殿が見切れている
:同、多宝大塔(横浜開港資料館蔵、書籍より)塔の辻とはこの前のことか
:それより前の唯一の完形写真
:「浅草寺今むかし」より鶴岡八幡宮江戸時代の配置(階段下大銀杏側に経蔵があり現存しない入口壁際に塔がある)
百八十箱五千四百二十八巻を収めたのが八面の転輪蔵です。経文はのちに戦災を避けて疎開し、今は仁王門こと宝蔵門楼上に保管されて国重文指定を受けています。経蔵も仁王門も五重塔も焼けましたが肝心の経文は助かったのですね。
(関東大震災後の馬道から浅草寺五重塔、銀杏(現存)、経蔵、本堂※六区ではありません)
池上本門寺に現存する経蔵は形式においてほぼ同じ(時期は江戸後期で遡る)と思われるので参考。東京名所図会によればもっと大きなものだったと思われる。こちらは中に入って動けるとは思えないかなり手狭なもの。栃木の国宝鑁阿寺の経蔵よりも大きい。池上本門寺の経蔵は中に壇を設け御幣が立てられている。
江戸名所図 天 部分
閑話休題。
愛宕山には十二階と標高が同じといって愛宕塔なる望遠塔も建てられた。他にも似たようなものがあった。大阪の十二階というものすらあった(凌雲閣より早かったらしい。形は円錐形みたい)。
大阪難波に十二階の前年、九階建の同名「凌雲閣」が建てられ、戦前まであったといわれる。
江戸東京博物館の十二階復刻
しかし
※京都大学がデジタルアーカイブで公開している関東大震災映像に含まれている。コレクションから辿っていかないと検索では探しにくい。題名もややこしいので注意。
前掲のような隅田川対岸からの浅草にもはや、十二階は見えない。
罹災地図より、上野公園からの十二階。
森田峰子編「写真記録 関東大震災」s55国書刊行会より
(国際画報大震災記念号からの転載写真)
花やしきから十二階、猛獣は逃げて被害が出る前に射殺されたが奇跡的に五重塔に結び付けられていた子象が助けられた。
全焼の六区(右方向に浅草寺)前掲写真と同じ
危険性を鑑み陸軍工兵隊による爆破が行われた(二度に渡った)
瓦礫の始末は方々で問題となり、古来の池泉に投げ込むことで処理される場合も多かった。けっこう遠いのだが入谷駅近くに朝日弁財天(戦後私有から寄付された土地に建てられた名前でもともと姉弁天もしくは弁天院と呼ばれる)がある。もともと松山の水谷伊勢守勝隆が不忍池の弁財天とともに下屋敷内に建立したもので、つまり東西(朝夕)対となっていた。不忍池の広大さに対しなぜこちらが対になるのかといって、このあたり一帯も「水の谷の原」と呼ばれるほどの一大湿地帯であり、明治時代になっても8000坪もの池が多くの生き物を孕んで広がっていたという。
明治12/20年の浅草の地図(まだ浅草公園は作られておらず田圃になっている)。現在地と少しずれるが鷲神社裏に大きな池が見える。このあたりが湿地だった。龍泉の地名は今も残る。
(奥の緑が現在の朝日弁天公園だが、元はこのあたりまではあった。空襲もあり、そのため十二階の瓦礫はどこに埋まっている、もしくはいたのか不明である。)
(児童公園になっているが、マンホールがいくつか目につく。水気を感じる。向かって右手にある小池は人工のもの。)
ここに十二階やその他浅草の残土瓦礫が放り込まれることとなった。煉瓦は重い。牛馬が運搬の労で斃れることもあった。池泉の生き物たちもことごとく焼けた土砂の中に潰されていった。このことをのちに嘆く歌を詠む者もあったが、結局のところ池は全部瓦礫で埋まったようである。現在コンクリの小池が社殿向かって右脇にみられるが、空襲などですべてを失った戦後に宗教法人として整備された延長上で復興したものだろう。近年、瓦礫運搬の家畜や池泉の生き物を供養する観音像が建立されている。境内は池を含めればもっと広かったとのことで、どのあたりが十二階の煉瓦の眠る場所なのかわからない。
近年再建され、最近解体された仁丹塔(現在はファミマと看板)
:荒俣宏「異都発掘」1987
現在発掘調査により十二階の建っていた最も確実な位置と思われる浅草2-13-10~14-8の一角の地面をよく見ると、赤煉瓦の破片が見える。これは後世のものだろうか。※
※当時のものでした。2018年に入り更地(もと台東医院)の開発が始まったところ煉瓦層が二箇所現れ、地固めのコンクリートがその下に発掘され、ここが角地であることが判明。同じ基礎は向かいの元焼肉屋の赤いビルを建てるときも出たという(それがここの場所確定の根拠となった)。そちらのときはイギリス積み?の煉瓦がかなりの硬さで難儀したとか。さて塗りの厚薄あるようですがどうやらコンクリートで煉瓦をがっちり繋いでいるため堅くなったようで、薄いですが重い煉瓦そのものは紅ぽいものと橙ぽいものがあるようにも見受けられました(光の加減か湿気のせいかもしれません)。壊滅はしましたが出土瓦礫の一部は保存され記念碑が検討されているそうです。このあたりはすべて浅草寺の土地で、どうやら再開発のターゲットになっているようで、現況保存の頼みの綱は公共であり塔の真ん中があるかもしれない「道路」だけですね。ただ、敷設や水道管埋納等工事のつど掘り込まれ土砂やコンクリートで侵食された可能性はあります(そもそも基礎が床面全部を支えていたかどうかも不明)。最初の発見の時の出土煉瓦は下町資料館に展示されているそうです。簡単な資料も存在します。
左前のマンションをニ、三階低くした建物が、おそらくこの正面にあり、このあたりが入り口だった模様。 ちなみに前記パチンコ屋前の標識では2-14-5(当地)となっている。浅草町会の標識には五区~千束2-38とある。後者は古い地番であり、発掘前にはこことされていた。
ひょうたん池は昭和30年代までは辛うじて残っていたが商業地に埋められた。南部はすでに埋め立てられ浅草東宝が開業し、今はリッチモンドホテルプレミア浅草など高層建築が立ち並んでいる。
その名をのこすのが花やしき通り突き当り右のアーケード「ひさご通り」で(むかしはすこし怖い地域だった)、ここを少し行って老舗すき焼き屋手前を左に行くと先程の推定位置に出る。角の店はよく変わるので番地で調べていくと良い。四つ角より少し南、少し「国際通り(現在のビューホテルあたりは寺跡で、永らく松竹の国際劇場があったことからこう呼ばれている)」側が中心部であったようだ。下記ツイートのリンク先動画も参照。百美人の広告ほか。 浅草寺側からの十二階 〜浅草寺本堂脇。奥山閣から十二階がうっすら見える。
〜ほぼ同じアングルから。
〜同じアングル。
〜浅草公園一帯が桜の名所でひょうたん池際の桜の絵葉書は彩色により咲いてないのに咲いてるように偽って販売されたくらい。
〜ただの冬の風景に見えますが同じ写真の彩色になると花がわんさか咲いてます。枯れ木に花よ花咲かじいさん。
花屋敷側からの十二階
〜彩色写真(横浜写真でしょう)
〜十二階なき池の端。
その他、ツイッターから〜
2017/8/31浅草十二階跡地・ひょうたん池跡地・瓦礫処理地(朝日弁天池)
十二階幻影(Flickr動画)
資料