浅草十二階凌雲閣について(絵葉書等追加、土台発掘写真追加)~2017/9/1防災の日(関東大震災の日):歳時記

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アルバム
(2018/2/12-13工事現場写真等)
20180112浅草十二階(凌雲閣)土台発掘現場・浅草寺その他
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浅草十二階「凌雲閣」は明治23年に浅草寺北西の六区の北、千束に建てられた当時としては日本一の民営の高層タワー。当初周囲に何も高い建築物が無く、夜はまばゆい無数のアーク灯がぐるりをめぐる窓のすべてから光を放ち、見た目の突飛さ、上階景色の秀麗さ、周辺風俗の華やかさから数々の文学・絵画作品に取り上げられた。
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推定明治24年1月撮影(竣工二ヶ月後)〜「吉原下町談語」掲載
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開業広告(東京日日新聞)〜「変態広告史」掲載
<工事は一年とかからず極めて短期間で行われたという。頑健なレンガ造り(コンクリで継ぎコンクリ土台を敷いた、これは日本初とも推定される)だがエレベーターはすぐ危険だというので止められ末期は老朽化が指摘された。くすんだ茶色の煉瓦が池に映る姿は愛され、失われて後すぐ、同時代者にすでに研究される対象となっている。>
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〜最上階に「十二階」の看板が見える。
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〜明治三十年代の石版画。十二階が簡単に書き添えられている。

千束は六区と違い建築規制がなかったのである(のち池側に有名な仁丹看板(仁丹塔は別物、雷門前から突き当りのファミマのあたりに80年代まであった「模型」で、今は貼り紙のみ)が立つが、ファミマがキーとなるとすればひさご通り(アーケード)のファミマあたり?角度が違うか?)。前年の大阪のものを凌ぐ外国人設計者によるモダンな本格煉瓦建築であり(上2階を除く)、塔高50メートルを越え、十二層にもなり浅草歓楽街の象徴となった。目的は産業振興等のためさかんに行われた博覧会の一つに供することだったが、他の博覧会建築と違い取り壊しを前提とはしなかった。もちろん突飛な建築物が江戸の象徴たる浅草の景色にそぐわないと忌み嫌う向きもあった。戸川残花は「東京史蹟写真帖」で大銀杏二本(辛うじて一本焼け残っている)と五重塔(空襲焼失)につき書き記し、墨田の夕暮れは筑波山とこの五重塔で面白いのに、唐突に十二階で一幅の名画に汚点を与えた。今戸、橋場の屋根の上にも電線の高く見えるは花川戸の助六も見下ろして苦笑するだろうと言っている。
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〜明治43年8月東京大洪水時の浅草公園。十二階をのぞむ人工池ひょうたん池(正式には大池というそうです。東京の古い人に聞けば知ってます)が溢れて、道を筏でわたりしまいには泳いで遊ぶ人が出る始末。仁丹看板が見える。
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〜日露戦争後ころの十二階、販売はおそらく明治末期か(後出の絵葉書と同じ凌雲閣のスタンプが押されている。この角度のこの色調の絵葉書はいくつかあるよう)色合いは末期のそれを描写したものに似ている。

十二階は単独で威容を誇ったあと次第に周囲が拓け始め、浅草寺域内の「浅草公園」としてひょうたん池(最大で現在の「ひさご通り」南側周辺から花やしき脇パチンコ屋(十二階記念碑がある)周辺、JRA手前までくらいか)が掘られ、周囲に桜など植え込みが植えられた中から望める奇景として、さかんに写真の被写体となる。絵ハガキが売られ海外へも出回り、最初から最後まで多く残された。コレクターもいる。世界一周映画の一編としてリュミエールも映像におさめているそうである。※ネットではwikipediaのみの記述

大正時代はじめの十二階の玄関(芝居見世物看板)が映る動画はこちら。浅草の震災前の雰囲気が擬似的にわかるよう編集されています。

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もちろん当初の目的である、かつてない高所から低い建物しかない下町ひいては関東平野を見晴らし筑波山関八州までのぞめる、という売りはしばらく人気を呼んだ。名目上は美術館ということもあってまだ新鮮だった頃は「日露戦争ジオラマ」のような展示物があった。しかし周辺の発展と同時に建物も猥雑な雰囲気に埋もれていき、人気も落ちて、大正の頃には目の前に浅草国技館も建ってすっかり景色の単なる一部となった。下層階周辺が酒場、「白首」と呼ばれる私娼の巣窟になるなど様変わりした。
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絵はがきのように十二階劇場という芝居小屋が目前に出来、お化け屋敷ないし見世物小屋(あるいは季節物の芝居)になっていて、東京の遊興者の評判はそちらに取られてしまっていました。
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直径13m弱の塔には店舗などとともに日本初の電動エレベーターも敷設されたが故障のため長くは続かなかった。階段を登らせるため、平山蘆江によれば芸者写真を集め壁面に展示、当世美人コンテストのような「東京百美人(これはかなり長期に渡り実施されたようである)」等で人を呼んでいた。しかし結局、末期に十二階の人気回復のため再敷設されている。
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愛宕山には十二階と標高が同じといって愛宕塔なる望遠塔も建てられた。他にも似たようなものがあった。大阪の十二階というものすらあった(形は円錐形みたい)。
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江戸東京博物館の復刻
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しかし

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関東大震災は浅草一帯にも壊滅的打撃を与え、十二階も免れえなかった。煉瓦のため火災による焼失を免れた一方、地震には弱く上半分が折れ落ち観覧客らを巻き込んだ(明治時代の大地震で既に亀裂が入っていたという)。営業側では復旧不可能と判断され、ぼろぼろと崩れゆく状態に危険性をかんがみて軍により二回かけ爆破された。これは映像が残っている※。これもまた画家の格好の題材となっている。バベルの塔になぞらえるような表現も見られるが、写真のとおり周辺の大建築が皆燃えてしまったから当初の単独峰の姿が復活しただけである。
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※京都大学がデジタルアーカイブで公開している関東大震災映像に含まれている。コレクションから辿っていかないと検索では探しにくい。題名もややこしいので注意。

瓦礫の始末は方々で問題となり、古来の池泉に投げ込むことで処理される場合も多かった。けっこう遠いのだが入谷駅近くに朝日弁財天がある。もともと松山の水谷伊勢守勝隆が不忍池の弁財天とともに下屋敷内に建立したもので、つまり東西(朝夕)対となっていた。不忍池の広大さに対しなぜこちらが対になるのかといって、このあたり一帯も「水の谷の原」と呼ばれるほどの一大湿地帯であり、明治時代になっても8000坪もの池が多くの生き物を孕んで広がっていたという。
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(奥の緑が現在の朝日弁天公園だが、元はこのあたりまではあった。空襲もあり、そのため十二階の瓦礫はどこに埋まっている、もしくはいたのか不明である。)
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(児童公園になっているが、マンホールがいくつか目につく。水気を感じる。向かって右手にある小池は人工のもの。)
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ここに十二階やその他浅草の残土瓦礫が放り込まれることとなった。煉瓦は重い。牛馬が運搬の労で斃れることもあった。池泉の生き物たちもことごとく焼けた土砂の中に潰されていった。このことをのちに嘆く歌を詠む者もあったが、結局のところ池は全部瓦礫で埋まったようである。現在コンクリの小池が社殿向かって右脇にみられるが、空襲などですべてを失った戦後に宗教法人として整備された延長上で復興したものだろう。近年、瓦礫運搬の家畜や池泉の生き物を供養する観音像が建立されている。境内は池を含めればもっと広かったとのことで、どのあたりが十二階の煉瓦の眠る場所なのかわからない。
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現在発掘調査により十二階の建っていた最も確実な位置と思われる浅草2-13-10~14-8の一角の地面をよく見ると、赤煉瓦の破片が見える。これは後世のものだろうか。※
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※当時のものでした。2018年に入り更地(もと台東医院)の開発が始まったところ煉瓦層が二箇所現れ、地固めのコンクリートがその下に発掘され、ここが角地であることが判明。同じ基礎は向かいの元焼肉屋の赤いビルを建てるときも出たという(それがここの場所確定の根拠となった)。そちらのときはイギリス積みの煉瓦がかなりの硬さで難儀したとか。さて塗りの厚薄あるようですがどうやらコンクリートで煉瓦をがっちり繋いでいるため堅くなったようで、薄いですが重い煉瓦そのものは紅ぽいものと橙ぽいものがあるようにも見受けられました(光の加減か湿気のせいかもしれません)。壊滅はしましたが出土瓦礫の一部は保存され記念碑が検討されているそうです。このあたりはすべて浅草寺の土地で、どうやら再開発のターゲットになっているようで、現況保存の頼みの綱は公共であり塔の真ん中があるかもしれない「道路」だけですね。ただ、敷設や水道管埋納等工事のつど掘り込まれ土砂やコンクリートで侵食された可能性はあります(そもそも基礎が床面全部を支えていたかどうかも不明)。最初の発見の時の出土煉瓦は下町資料館に展示されているそうです。簡単な資料も存在します。
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左前のマンションをニ、三階低くした建物が、おそらくこの正面にあり、このあたりが入り口だった模様。
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ちなみに前記パチンコ屋前の標識では2-14-5(当地)となっている。浅草町会の標識には五区~千束2-38とある。後者は古い地番であり、発掘前にはこことされていた。
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ひょうたん池は昭和30年代までは辛うじて残っていたが商業地に埋められた。その名をのこすのが花やしき通り突き当り右のアーケード「ひさご通り」で、ここを少し行って老舗すき焼き屋手前を左に行くと先程の推定位置に出る。角の店はよく変わるので番地で調べていくと良い。四つ角より少し南、少し「国際通り(現在のビューホテルあたりは寺跡で、永らく松竹の国際劇場があったことからこう呼ばれている)」側が中心部であったようだ。下記ツイートのリンク先動画も参照。
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浅草寺側からの十二階
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〜浅草寺本堂脇。奥山閣から十二階がうっすら見える。
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〜ほぼ同じアングルから。
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〜浅草公園一帯が桜の名所でひょうたん池際の桜の絵葉書は彩色により咲いてないのに咲いてるように偽って販売されたくらい。

花屋敷側からの十二階
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〜上階の構造が比較的よく写っています。近かったことがわかる。

その他、ツイッターから〜

2017/8/31浅草十二階跡地・ひょうたん池跡地・瓦礫処理地(朝日弁天池)


十二階幻影(Flickr動画)
十二階幻影20170831_145646浅草.mp4

資料


by r_o_k | 2018-02-12 17:30 | 旅行 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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