揺りかごから酒場まで☆少額微動隊

岡林リョウの日記☆旅行、歴史・絵画など。

2017/8/23波の伊八と笠森観音、いすみ鉄道のたび。(笠森観音浮世絵追加)

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日帰りバスツアーで勝浦の方まで行ってまいりました。目的は北斎も参考にしたといわれる「初代波の伊八」のホンモノしかも代表作を見ること。なかなかでした。ほとんど堂内のため撮影禁止でしたので、いすみ市のサイトから。(しかしこういうものは特に立体物で他の物との組み合わせなので、現地で見ないとわかりづらくて・・・とはいえもうちょっとサイトに写真を載せてくれてもいいのに。伊八会より現役では2冊写真集が出ており、手元にあります。修善寺にも伊八手があるようです)

飯縄寺(牛若丸と大天狗ほか)
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〜二代広重「諸国名所百景」上総笠盛寺岩作り観音(安政年間)三代広重ばりに誇張がひどいが堂の下の岩を強調している
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〜由来について(読本)



千葉県いすみ市 飯縄寺

飯縄寺は堂宇は小さいのに豪勢な彫刻寺で、木製マリア観音まで持っているとのこと(陶器製なら証拠隠滅しやすいので潜伏切支丹によく使われたと言われ、古いと考えられているそう)

初代伊八のすごさがわかった
板を合わせて作るのではなく一木で彫ってると、波を


行元寺
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伊八会さまの資料によると48→58歳作品でした。以後有銘作はなくなるようです。

但し書院自体が小さいうえ欄間彫刻としては華美な彩色の(現在は修復済のピアピカな状態)本堂内陣にくらべ地味さは否めない。前室の上の欄間は人物刻でさきほどの飯綱寺の「牛若丸」を単純化したような感じで正直あれほどの密度も力もなく荒く作った感すら覚えると同時に、中へ入ると欄間の裏が見える。片面彫りなのだ。これは一般的な欄間彫刻では普通なのかもしれないが、室内からは彫るとき地面に置いたほうの面を見ることになる。これはあくまで外から入るときの期待感を煽る造作との説明もあるが、東国天台宗第一の寺として天海僧正はもとより特に綱吉に多大な援助を受けた(ちいさいけど)大学坊であり、内陣(もともとの本堂)に東照宮と同じ装飾を同じ職人により施すことを許され(高松又八は今も続く流派にいたが東京大空襲により作品はここにしか残っていないとのこと)徳川本家の葵の紋を左右柱に掲示した格式高い寺において、幕府公認の流派を築いたでもない江戸職人はそれ以上のものを作ることも許されなかったろうし、あくまで学坊で儲かるような寺院ではないので、書院のほうにはそれほど金を出せなかったのかもしれない(総門は巨大だが本堂と同じ職人による彫刻はわずか。本堂も現在外から見えるいわば覆堂の入口には、柱上等に獅子と獏と龍が小さく彫られているのみである)。奥すぐ右手の間(三間しかない)との間にある「波に宝珠」に目をやると余りの彫りの繊細さに舌を巻く。同じ人の同じときの作品とは思えない(飯綱寺の飛龍のしぶきの飛ぶような波とも屋外に彫るおおざっぱな波とも違う、北斎の後年普通に描いた波はここまでの細かさはなくむしろ飯綱寺の飛龍の左の押し寄せる筋波と右の襲い掛かる波頭に近いようにすら思う)。実物はぐにゃぐにゃの波。ありえない噴水のような盛り上がりや柔らかく有機的な波頭、そこに無数の(無数の!)宝珠が乗っているという非常に前衛的な作品で、さきほどの入り口の欄間は裏のど真ん中にきちんと作者名札があり(浪ではなく良と書くのが特徴らしい。弟子の名もちゃんと書いてある)室内から丸見えだが、こちらは小ぶりのためか名前をしっかり示す気が無いようにすら思える。たぶん長らく浮世絵を片付けていた北斎同様、あくまで依頼仕事をやる職人であったのだろう、48歳のそろそろ作家として引退を考える時期に初めて、表に出ない書院の室内欄間で、その名にしおうものを自由にやっていいとなり、覗と呼ばれる図法(波を彫るのにかぶさる裏側の筋まで見上げるように彫る、実際九十九里で馬を駆り大波の)をさらに進化させてこれをしつらえたのだろう。テレビで見るとこの裏面の左端が北斎の「神奈川沖浪裏」の構図そっくりということになるが、実際には両面立体的に彫られてはおらず、一応彫線はしっかり表より続いて裏まで下りているものの、平面であり、もし影響を指摘するとしたら覗画法の極みに達した表面の、あくまで方法論ということになると思う。浪裏って、別に波の背中をいうわけではないのだ。裏面がほぼ平面というのはちょっと意外だった。表面の艶の出るうねりが無い、これは裏面を見せない堂の欄間彫りを手掛けてきた「波の伊八」のやり方がけして、「立体彫刻」を志向するものではなくあくまで寺院装飾のための(誤解を恐れずに言えば)地方に伝統的な技術にのっとった、寺社彫刻に流派をもっていた房総の風土から出た江戸の職人だった、という気がした。代替わりもし、名前の記されない真贋のわからないものも多い人だそうだが、外連味の強いものなら「牛若丸と大天狗(眼球ももとのままとのこと)」最も腕が出ると言われる龍(髭までもピンと彫りあげてあり屋内欄間だからこその作りこみがある)、そして波のオーソドックスに凄いものならその左右の「飛龍」の下のもの。だが別格として、この寺の「波に宝珠」これで尖った作風は網羅された。屋外向けの彫刻も素晴らしいが、巧緻であるという以外に目につく特徴はすくない。まあ、いいものを見た。素っ気ない藁葺の書院というのがいい。


九十九里はすっかりサーファー天国だったなあ(といっても死ぬほど広いのでショップ間の距離がそこそこあるが)海水浴には向いてないので(もってかれる)波打ち際でみんな足首海水浴してたposted at 01:05:02

by r_o_k | 2017-08-24 16:48 | 旅行 | Comments(0)

by ryookabayashi