産業奨励館(旧称商品陳列館など、原爆ドーム。屋根は銅葺でドーム部は当初赤銅色、すぐに緑青で緑色になった(証言および土産絵葉書より。ただどうもこれら白黒写真はいずれもドーム部の色の濃さからいってすぐ明るい緑青になっていたとは思えない、詳しい方に聞いてくだされ。ちなみに1940年の写真とされるものには白っぽくなったドームが写っており、同様の写真も、復元像も作られているから、緑青化は確かな模様)。参考にニコライ堂(東京)の緑青ドーム付き昭和初期修復建築写真)
商工会議所(旧館)は相生橋東詰に見える建物です。ドームの隣に三角屋根の旧館、コンクリの新館と続き、新館は日赤が今もしようしています。旧館は消滅。
参考)ニコライ堂(緑のドームに白い壁):

(参考)モージャー氏撮影「墓場の迫る原爆ドーム」について
2017年9月より公開された国会図書館寄贈カラー写真(1946-47/1)について、原爆被害者のお墓が原爆ドームのそばまで広がっていたというような感想がつぶやかれていました。モージャー氏は南側と南東側より撮影しておりその後者が当該写真にあたります。(瓦礫写真に原爆ドームのものも含まれているかもしれませんが判別はつきません、南側の写真からそのまま川べりに出て相生橋をのぞむ写真が二枚ありますので参考)
ドームから先は日赤のみ残っています(手前の商工会議所旧館は跡形もない)。ドームの入り口前の写真も角度はほぼ同じですね。
以下が墓場の写真。

これは現在地に残る二つのお寺のうち、よりドーム裏に面した西蓮寺の墓地である可能性が高いです。もともとは平和記念公園内までが敷地だったと思われます。ここの写真はのちのち多く、大仏が慰霊奉納されていた時期もあります。被爆地蔵尊で知られる今は小さなお寺ですが、その下に被爆直後の現場写真が貼られており、古地図どおり原爆ドーム裏は寺に面し、それは墓地であったのです。戦後しばらくたってのことであり新しく墓石が建てられていることはあるでしょうが、増殖したとかいきなり墓地が出現したわけではありません。手前の桶は朽ちかけた早桶を掘り出したものでしょうか、水桶でしょうか。横の小桶は何でしょう。古地図どおり不動尊を本尊にしたお寺であったことが、この写真左中央の標柱から読み取れるでしょう(戦前の広島市史参考)。「不動尊霊場 西蓮寺」とはっきり書かれています。この右のほうに被爆地蔵☆も写っています。真上から被爆し表面が上だけ荒れておられます。(地図リンクは重くなるためキャプ貼りすいません。地図上の地蔵尊が現在の西蓮寺の西面になります(地図上の表記からすると角一角がすべて西蓮寺の持ち物のようですね))。
☆御影石の被爆地蔵尊(広島市街には同様の地蔵尊が多く存在)は西蓮寺角、現地で坐像を綺麗に示していますが、こちら以外にも被爆地蔵がありました。じっさいは形状から恐らく地蔵ではなく観音様、もしくは何か光背の一部が付いていたのではと思われますが、顔部のみのものです。子育て地蔵と伝えられ、戦地から帰った西蓮寺住職より人づてに東京へわたり、目黒の常円寺にて手厚く供養されています。顔だけの大きさからも現地の被爆地蔵より大きい石仏だったと思われます。
広島城 ※天守閣は戦後再建
広い堀はすべて蓮に覆われていたが、すべて焼失し現在に至る。
路上標識から


燃料会館(現在のレストハウス、最終的な生存者は地下の一名のみだった)

爆心地(島病院直上(病院は現在も存在)、この位置からは鳥居は元は見えなかったはず)

翻って広島城内、司令部地下通信室(学徒動員中の比治山高等女学校生の一人がここに残っていた軍事用回線を使って通信したのが原爆被爆第一報と言われている)

天守閣をはじめとする建物全てと高い木々は全て焼け飛び、堀は火傷を癒やすため飛び込んだ人々の亡骸で埋め尽くされたと伝えられる。
T字橋はまだ真新しい(被爆寸前の築造説もあったがこの絵葉書の撮影はおそらくもっと前。戦後「骸骨」原爆ドームとともに阿房日記上で内田百閒が軽く記している。)


相生丁字橋から日赤、商工会議所旧館、産業奨励館。日赤は鉄筋コンクリートで屋根に大穴があいたが残った。鉄路とバスが見える。広々としている。(撮り方により狭く写ってるものもある)

:遠景、産業奨励館左に見える(右あたりが爆心地)
:真新しく見えた相生橋(T字橋本体)も欄干をすべてうしなった

御幸橋
※一部新しい印刷写真を含んでいます
・宮島(戦前戦後広島はおろか日本一の名勝であり空襲被爆も免れ写真記録も山ほど残っている観光地)

千年の火で炊かれ続ける湯を鉄瓶から飲むと生きながらえると伝えられる。というか飲んだ。鉄臭かった。体は変化なかった。

鬼を祀る三鬼神社。全国の天狗を使役するともいわれる。


おどり。

時代は遡り、明治になると八年に建てたばかりの鳥居がじつは白木にされていたことがわかります(この初期の写真絵葉書(明治後期)はほぼ薄写真になぞって描いてしまっておりかなりの部分が絵ですが、太い脚を見ると今と同じ丸太の綾がついていて忠実になぞっているのがわかります)。この半端な彩色は少し調べたところ、別の写真でもそうなっていて、全体に改めて丹塗りされる途中の段階か、意味があって部分的に朱を入れていたと思われます。
宮内庁所蔵、「明治の日本」より。心柱にも塗りがみられます。同じ所蔵写真でも
このようなものもあり、赤は全体的に塗られているときはモノクロ写真だと白く飛ぶし、日射があると陰と区別がつきづらいことから、部分的に徐々に塗られていく過程なのか、よくわかりません(「明治の日本」では真ん中の白い鳥居が最初、最初のもの、最後のパノラマという順番になっています。)大正時代まで塗装を含む修復工事が行われており、写真絵葉書普及時期の観点からもだいぶ後半に塗装がなされたとみていいと思います。
明治末期の全国写真集より。まだ白木部分があるように見えます。同時期の「旅の家つと」シリーズでは
明治初期とされる白(く見える)鳥居写真は他にもあります。こちらはワーグマンコレクションのものですが、最上段だけ赤いのか、白いのか、全体が赤いのか正直あまりわかりません。

この小アルバムは土産写真を寄せ集めているようで時期が下るものもある模様です。オランダにあったもの。今は長崎大学蔵。
遠いですが、こちらの非彩色写真ですと貫と呼ばれる二段目まで朱塗りになっています。この状態のものを接近して撮った写真はいくつか存在し、ネットでも出てきます。鶏卵紙写真で撮られたものもあり、この状態のほうが島木までの彩色のときよりも長かったのでしょう。これも中途半端といえば中途半端です。
笠木の中に重しとして石砂が詰められており、石は一つ一つに般若心経の文字が書かれました。赤は仏教色とみなされていたため、神仏分離の折いろを落とすよう強く政府から圧力をかけられての素木鳥居だったのですが(もともとは朱鳥居です)、仏教部分には敢えて色を付けたのかもしれません。社殿の方を見ると、やはり一部しか塗られてませんが、これも真実で、平清盛改修以来の朱を落としてしまったそうです。ちなみに赤は平家の旗色でもあり、全国の平家の息のかかった社(源氏は仏教派で神社には積極的でなかったため、残ったものには平家の神社が多いとも言われます)は鳥居が朱い傾向があるともいいます。扁額をベタッと塗ってるのも変ですがこれも別の写真を見ると笠木と同じような感じで黒くなっていますので本当の色と思われます。もっとも左高台の建物はしっかり丹塗りを示してますね。神社の本体は塗りを落とさないなら焼けとまで言われましたが、付随する寺院建築はその範疇ではありませんでした。五重塔は赤いままでした。これは分離される側のものなので相手にされていなかったのではないかと思います(今でも寺は寺で混在はしてますがいちおう別れてますね)。ところで大鳥居は海中に立っていますから丹塗りは実際には防腐剤の意味も強かったと思われます。そのため主脚に大楠の一木をせっかく使ったのに早々に割れが入り痛みが発生してしまった様子が見て取れます(今の状態と同じですね)。いっぽう赤は古来魔除けであり格式や豪華さを示す色でもありますが、やっぱり江戸時代の過剰に派手な仏教のありようから維新感覚では朱塗りは仏教の混淆で排除すべきもの、もしくは想像ですが明治神道の原型としての伊勢、簡素な白木の鳥居に倣い赤を禁じられたということだったのではないでしょうか。赤鳥居は普通は稲荷ですから庶民宗教としてのイメージも悪かったのかもしれません。混淆しやすい神でしたし(伏見大社も思いっきり混淆してました)。明治33年の嵐の大修理のさい、岡倉天心らと行動を共にした漆芸の大家、六角紫水が現状を嘆き、その助力を得て朱塗りに戻したのが現代の、大元からの全体朱塗りだということです(その後も塗り直しは何度もあったでしょうが)が、工事自体が明治34年から大正8年までかかり、本殿は先に行われたが大鳥居は終盤で塗られたと思われるのは前記の通り。

祭りは古今変わらない。

厳島神社裏。鏡池が明確に見える。
宮島の千畳敷、当時はしゃもじを奉納する習慣がさかんだったらしい。秀吉寄進で、今は見晴らし良い休憩所となっている。ただ早くに閉める。


今も行われる祭り(先ほどと同じ)

広島不動院金堂(被爆建造物、国宝。寺宝の朝鮮鐘や秀吉書状なども残りました。たくさんの避難者を受け入れられるほど被害は最小限に留められたようです。)


※古写真にご興味あればこちらも→
☆さて旅日記です。フェイスブックからの断片的転載なので記録としての抜けはFlickrの写真や動画をお願いします。☆
まずは山へ登る(ロープウェイでショートカット) 外国人だらけ
お堂がいくつか※さきほどの絵葉書にある2つが代表的

全国にはいくつか鬼を祀ったお堂がある。ここにも三鬼堂というお堂があるのだが(神仏習合の名残とも)ふと傍らを見ると、アジア系の外国人が五体投地をしていた。ありゃ、鬼に五体投地?…仏教は鬼も神として習合するし習合された側の鬼とされる神をいただいた方々かも、、、
大岩が増えてくる
超古代の巨石文明と聞いて

弥山山頂、広い展望台でみんな寝てる 寝釈迦の上で寝釈迦(どちらかといえば女体になぞらえる山体だけど)

こんな山の上まで外国人だらけ。。

下り道、干満の水を秘めた穴(穴の中の水が枯れず海の干満と同期をとっているという伝承、カンマンは仏教用語とかけたのだろう)など少しミステリーな岩が散在、またひっそり神社もある。ぐるっと回ってロープウェイ駅まで往復となる。麓の紅葉ヶ谷は大昔に災害でやられたので断絶を経ている。

宮島の鳥居 干潮時に歩いて行った
かなりの補修っぷりである

ふじつぼんぼん(きゃりーぱみゅぱみゅ風)
大鳥居(明治時代、神仏分離の影響でしばらく白木だったと伝えられる)硬貨を貼り付ける現代の民間習俗は大柱を痛めると問題になっている

鹿のいる風景

宮島なう。2つ失敗したが久しぶりの旅なら上々だらう。
<二日目>

動かぬこと達磨の如し

満潮時の宮島は雰囲気が違いますね
広島へ移動、三度目
原爆ドーム。ボロボロ。中は瓦礫。立入禁止。

この上空600メートルで爆発した。
原爆ドーム


宮島とは世界遺産の意味が違うな

まだ座ってらっしゃる
岩国へ〜
錦帯橋とか(何度もかけ替えられてる、下に人形の石を産し人柱の霊としてお守りに売っているそうですが見かけなかった)

岩国城にも行きました。

佐々木小次郎がツバメ返しを編み出した場として設定された川岸の一角。

〜<三日目>
きょうは呉。

戦艦大和の建造されたドック。当時としては最大級の穴を掘ったため、その土砂を積んだら運動場が出来上がり使われている

いまは民間のドック(覆屋内、秘密らしい)

大和の塔

今は潜水艦の故郷、自衛隊呉港
戻って最後に広島城。すべて復元です。



宮島のお寺にこんなところも
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