2017/8/1江戸怪談 生きながら鬼女になった話
2017年 08月 01日
享保のはじめ、三河の保飯郡舞木村に新七という若者がいた。女房は京からわざわざ連れてきた、いわというもので、齢二十五を数えた。
都育ちの者が田舎にくだるというのはとても大変なことだ。いわは次第に心が刺々しく、きついことばかり言っては部屋に閉じこもるようになった。家事など一切やらなかった。新七が慰めようと肩に手を置くと、まるで汚いものでも触れたかのように振り払い、大声で
都へ帰る!
と叫んだ。といっても、出奔もせず家に居ついたまま、いっこうに帰る気配はない。それゆえ村の衆は、気にも留めていなかったのだが、新七はそうではなかった。
ある朝、通りがかりの近所の女房が声をかけても返事が無いので家を覗くと、男の荷物がさっぱり無くなっていた。土間にはいわがただ茫然と、乱れ髪で、寝着のまま立ち尽くし、西へ向け腕を挙げ指を指していた。
出て行ってしまったねえ。西のほうか。あんたのせいだよ、と話しかけると、ああ、と言って、奥へ引っ込んでしまった。
話を聞いた村の衆が集まって相談して、皆で新七を呼び戻そうと算段を整え家に行ったところ、いわはいなくなっていた。
新七さあん。
新七さあん。わたしが悪かった。
新七さあん。わたしが悪かったから、戻ってきておくれ。
あとを慕い追っているうちに新井まで来たが、ぼろぼろの寝着で幽霊のように汚れた髪を垂らし血だらけの裸足でいるさまは凄まじい。
ここにこれこれこういうお方が来たでしょう。通しておくれ。
関所の役人は慌てて門を閉めた。通すわけにはいかぬ、とだけ言って番所に引っ込んでしまった。
関所を通ることができなかったいわは、仕方なく帰ったものの、日増しに荒んだ心持ち増して、乱心のようになった。村の衆が声をかけても、
きい。
きいきい。
と奇怪な声をあげるばかり。
折しも隣家に死んだ者があった。田舎の習いで近所の林で荼毘に付した。
煙がつーと昇り天に散るのが村からも見える。
きいきい。
きいきいきい。
煙が上がらなくなった。おかしい、まだ時間がかかるはずだが。火の燃え具合を確かめに来た施主は、呆気にとられた。
きい。
そこにいたのはいわであった。どうやってか生焼けの屍を素手で引き降ろし、素手で腹を裂いて臓腑を掴み出し、まるで飯のように器に盛っては、うどんを啜るように食っていた。
きい。
嬉しげな顔を上げると施主のほうを見た。その眼は墨を垂らしたように真っ黒だった。
大いに驚き村へ飛び帰る。村の衆は皆棒など持ち寄って再び焼き場にやって来た。いわは屍のあらかた食い終わったところだったが、最後に残った赤黒い袋のようなものを差し出して言った。
これほど美味しいものは京にもありません。あなたたちもここへ来て一口味わいなさいな。
おのれ、狂いやがった!
大男が振り下ろした角棒をひらりとかわしたいわは、俄かに怒り狂った。
何をする、分け前を遣ろうというのに!
この鬼女め、殺してしまえ!
一同殴りかかるが、いわはひらりひらりと舞い踊るようにして、いっこうに当たらない。
きい
ついには一声挙げると蝶や鳥のごとくまるで身軽に走り去った。皆追いかけたが森の深い山の中、すぐに見失った。
その夜のこと、近隣の山寺に入って、器から残る臓物を出して喰らっているところを僧侶に見つかった。驚き騒ぎ早鐘で里へ知らせ、村人たちは飛んで集まった。いわは、
ここも騒がしいのう
と言い残すと、背後の山の道なきところを平地を行くかのように駆け登って消えた。
行方知れずとなった。
村人は生きながら鬼女となったことの顛末をお上に申し出て、近在の村々には注意するようお触れが出たという。
~菊岡米山「諸国里人談」
「怪物図録」参照