
「姨さん、わたし、これから中野へ往って来ますわ、何人か知ら、私を呼ぶような気がして、じっとしていられないのですから」
雪は其の時二十であった。主婦は何の他愛もないと思ったが、とめることもないので笑った。
「そう、往ってらっしゃいよ、佳い人が待っているでしょうよ」
「いやよ、姨さん、佳い人なんかないことよ」
雪はきまりがわるいと見えて顔を赧くした。主婦はそれがおもしろかった。
「隠すことはないじゃないの、あるのが当然じゃないの、彼方にも此方にもあるのでしょう」
「ばか、ねえ、姨さんは」
雪は逃げるように帰って往ったが、其の足で中野へ往ったものとみえて、夜遅くなっても帰って来なかった。雪の家では雪が芳紀(としごろ)ではあるし万一のことがあってはならないので、父親が娘の奉公先へ往った。奉公先では来ないと云うので、父親は心配して他を探すべく帰りかけたところで、門の右側の庭にある松の木に、何か黒い物がぶらさがっているのが電灯の光に見えた。父親は不審に思って往ってみた。それは縊死してぶらさがっている娘であった。
そこで大騒ぎになって医師も来たが、死後九時間も経過していたので蘇生しなかった。其の松の木は、それまで既に二人の縊死者があったので、雪で三人目になるが、今に其の木は昔のままになっているとのことである。