江戸怪談 加賀屋敷の乳やりゆうれいの事

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安永五年六月末のこと、本郷加賀屋敷の百五十俵取り小十人須田忠兵衛、よわい三十で身持ちが悪く、ばくち、大酒、遊所だけが楽しみだった。伯父のこれも小十人百俵取りの山田七左衛門と申す人、健在の頃は色々と異見をし世話して世間体を保っていたが、この春死去後はますます悪行がつのり、湯島あたりの踊り子であった人妻を強引に盗み娶ってしまった。女房には十歳以上の息子が三人いたものの放埓はやまず、浅草で俵録を受け取ったさいには直ちに博打や遊所に入れあげ家には一粒も入れなかった。間もなく女房がお産をしたさいにも家に帰らなかった。四人になった子供には食事なども与えられず、上の三人は麻疹にかかってしまったが、構わず薬もやらずにおき、何とか水などを飲み生きながらえていた。


裏に住む上田長庵という医者は余りにも女房を気の毒だと思い何かと世話を焼いていたが、今度は見かねて何でも気安く頼むがよいと言ったところ、ご存じのとおり亭主は不埒者ゆえ一向にかまってはくれません、私は産後で子供は麻疹をし食事など食べさせたくても米の一粒も無く、焚き木なども無く、私は幾日も絶食して死んでも苦しくはありませんが子供がふびんでなりません、子供のために毎度お世話ながらご慈悲にあずかりまたまた頼らせていただけませんでしょうかと言ったところ医者もたびたびのことながら気の毒に思い食事等を与え、これ以上はいいですからと言われたものの薬なども調合してやった。

女房、ある時医者に申したところ、裏に柏の木があります、これを切っていただけませんかと頼った。近所に大工の七兵衛という者、これも忠兵衛の家と前から懇意にしていたので、さっそく世話をして売り払ったところ銭四百文になり、女房に渡した。殊の外喜び、おかげで一両日の命を延ばすことができますと涙を流した。ところがその夜亭主が帰ると銭を見つけ、これをよこせと言ったので、前々から難渋していた話をし、やっと出来た銭ゆえお許しくださいと言ったが合点がいかず無理に引ったくり、その上子供ともども一所に寝て破れ蚊帳を吊っていたところがそれも寄こせと言った。女房が赤ん坊に乳をあげながら、私はどうなってもいい、子供が蚊に食われてはふびんでなりません、ぜひぜひこれだけは残してくださいといえども無理に引きはがそうとしたところが、女房手が使えず口で咥え据え置こうとした。忠兵衛は足で女房を踏みつけ蚊帳を無理に引っ張ると、前歯が残らず抜けてしまい、産後間もなくの身体のこともあっておもむろに血の道があがり即死してしまった。忠兵衛はそれをもかまわず蚊帳と銭を持って喜びいさんで出かけた。

騒ぎを聞きつけた裏の長庵が来て見たところが、悲惨な有様に驚き大工も呼び寄せた。このままでは済まないと本家へ知らせに行ったが、忠兵衛の日頃の悪行から一向に知らぬ存ぜぬで通され、結局長庵と大工は申し合わせて少々銭などを出して片を付けた。翌日、子供はさぞや淋しがっていようと暮過ぎ頃に見回りに行った。すると中から女の話声などしていたので不思議なことだとこっそり覗き見したところ、昨夜死去した女房が乱れ髪で乳飲み子に乳を飲ませており、残りの子供たちと話している最中であった。長庵はおおいに肝をつぶし七兵衛に知らせて二人でもう一度見たところ、女房の亡霊が来たに相違ないということになった。

亡霊が子に乳をやる屋敷として、これより段々と評判になった。

長庵、七兵衛ともに気味悪くなり、引っ越して行ってしまった。今も夜毎に出るとのことで夜はその近辺に行く者は無いが、昼のうちは屋敷見物しても大丈夫だといって大分人が多い。この忠兵衛は不埒なことにこの六月十五日山王祭の時、糀町より囃子出て吹上御上覧所に入って芸事をも行うほどの不埒、と一文字屋道夕と申す茶道具屋が来たときに大工七兵衛と懇意で直に聞いた話と語った。河崎順丈も参ってこの話をしたことから事実であったと認める。

(正長軒宗雪「吾妻みやげ」)

田沼意次時代の武士の凋落と町人の台頭を象徴するような話が多いですが、二つほど怪談があり、もう一つは「予言獣」ものです。予言獣の話はこの随筆でも既に指摘されているとおり御札など売りつけるための嘘っぱちです。姿かたちを変え明治時代まで続きました。

飴買い幽霊のバリエーションというより、芝居がかった怨み話の多い江戸なので都市伝説に読めます。

mixiサルベージ

by r_o_k | 2017-07-19 15:33 | 不思議
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