
どこの宿場かは聞き忘れたが、宿に着いた頃には風雨が激しくなり、まさに大嵐といった空模様。早々に宿屋の主人が出てきて言う。
「当宿場には、このような荒天時は決して人を外へ出さないという掟があります。このような日は、人足や馬の賃金さえ受け取りに来ることはありません。」
「御家来衆にもなにとぞ、決して外出はなさらないようにお伝えください」
「なるほど」石川氏と同僚三名はそれぞれの用人を呼ぶと、その旨を中間たちに周知するよう申し付けた。すると同僚の抱える中間の一人が用人に懇願した。
「先ほど休憩をとったところで草履の代金を貸しましたので、ぜひ取りに行きたいのです」
「ご主人の命であるから、それは叶わぬ」
用人が固く禁じると、一旦は引っ込んだものの、しばらくしてまた同じように、
「明日には発ってしまいます。今取りに行かないといけないのです」
「土地には土地の掟というものがある。諦めなさい」
「どうしてもあの金が必要なのです。すぐそこなのです。これくらいの雨なら蓑もいらないくらいだ。是非に」
「黙れ!ならぬものはならぬ。」
きつく叱ると、その中間、しぶしぶ葛などが積んである従者部屋(次の間)に引っ込んでふて寝を始めた。
しばらくして用人は中間の様子が気にかかり、従者部屋に行ってみると、果たして姿が見えない。あわてて宿じゅうを探すがどこにも見つからなかった。これは宿の外に出て行ったに違いないということになり、宿屋の主に伝えると、
「このような大荒れの日には、この宿では必ず怪しいことが起こります。ご覧ください、あらゆる戸口には錠を下ろして固く閉ざしてありますので、決して表へ出ることはできません」
と答えた。
「さても不思議なことである」石川氏と同僚たちは灯りを点し、宿の者や用人らと更に隅々を調べた。
「うわっ」
用人の声があがったのは玄関であった。一同集まってみると、
錠で閉ざした大戸に一寸ほどの節穴があった。
その節穴と周囲に、おびただしい血が流れていた。用人がおそるおそる節穴に手をやると、一房の髪の毛が垂れ下がっており、摘んで引き抜くと、皮肉のかけらがへばりついていた。
「外へ出たいという中間の執念に、何者かが魅入ったのだ」
「髷を引き掴み、この節穴より一気に引きずり出したのだ」
「恐ろしい妖怪がいるものだ」
一同舌を震わせて恐れた。
果たして嵐の夜が過ぎ去っても、中間は戻らなかった。
~東隋舎「古今雑談思出草子」