
「これでも食うかい」
老婆は昼の残りの飯一握りをやった。猫は旨そうにそれを平らげた。
翌日。
「こう暑いと参ってしまうよ」
また山の上で涼んでいたところ、あの猫が現れた。
「今日はもう飯は無いよ」
すると猫、しばらく老婆を見ていたかと思うと、砂の上に臥し転んで、あっちへころころ、こっちへころころ、さまざまに不思議な遊びを始めた。そのさまがとても面白かったので、老婆は立ち上がると、砂の上に転がり、猫を真似てみた。
「おお、涼しいじゃないか。心地よい心地よい」
しばらく同じように転げ回っていたが、不意に猫は立ち去って行った。
老婆は砂を払いながら、
「また来なよ」
と言うと山を下りた。
「なんだか身が軽くなったような気がするよ」
その翌日も山の上に行ってみた。すると既に猫がいて、転がり始めた。老婆も砂の上に臥し転び始めた。小一時間もすると猫はまた不意に立ち上がりどこへともなく去って行った。老婆は立ち上がって驚いた。腰は伸び、足も強くなったように感じた。
「これはどうしたことかね」
村人たちは浮かれて下りる老婆の様子を不思議そうに眺めた。
また翌日、さらに翌日と何日も何日も老婆は山に上っては、猫と戯れた。まるで取り憑かれたかのように砂の上を転げ回り、そのたびに肌の皺はなくなり、歯は生え揃い、目も良くなり、若返って行った。
「婆さん、毎晩どこへ行ってるんだね。」
行きがかりの村人が声をかけても、にやにやと笑うだけで、まるで飛ぶように山道を走り去った。
これはおかしいということになり、遠縁にあたる男が老婆のもとを訪ねた。
「婆さん・・・それはどういうことだい」
男は絶句した。目の前に現れた老婆は壮年のごとく若返っていたが、目はらんらんと輝き、歯は鋭く、爪も長く尖り、
「どうにもこうにも楽でしょうがないよ。」と言った。
男にひとしきり猫のことを説明すると、頭をかいた。すると、白髪の束がわさっと抜け落ちた。
「それは化け猫だ。婆さん魅入られたんだよ。一緒に家へ行こう」
「なんだって、あれを悪く言うのかい!こんなに元気にしてくれて、私や感謝してるんだ」
「お前なぞ何もしてくれやしなかったじゃないか。私は爺さん亡くしてそれはそれは大変だった。毎日が辛くて辛くて、早くお迎えが来てくれないかと神さんにお祈りしてた。それが」
落ちた髪の毛の下にはびっしり細かい毛が生え、目元にはみるみるうちに隈取りが現れてきた。
「今はもう何も辛いことはない。何も食べなくても元気がわいてくる。もう今にでも空にとびあがれそうだ」
と言うと縁先から外へ駆け出した。男は止めようとして縋るが、怪力で振りほどかれた。
老婆は地を蹴った。そしてぽーんと飛び上がると、山やま、家いえの上を跳ねていった。
村人たちは肝を潰した。
「婆さんをなんとかしなければ、今に悪さをするに違いない」
「そうだ。婆さんはもう化け猫に取り込まれちまったんだから」
「捕まえてぶち殺してしまえ」
村人たちは大きな網をこしらえ、天高く掲げて捕らえようとするが、婆はさらに高く飛び、大笑いしながら跳ねて行った。
「家で待ち構えよう」
夜になり老婆が家に戻ってきたのを確認すると、村人たちは火をつけた。
えんらえんらと燃え上がる家の中から、修羅の形相の老婆が現れた。
「私は何もしていないのに、なぜこのようなことをするか」
半ば猫と化した凄まじい姿に見る村人みな驚き、気絶する者もいた。老婆は火をものともせず家から出ると、地を蹴って虚空へ飛び、消え去った。
すると空一面雷動し始めた。
土砂降りになり村人は散り散りに逃げた。
山は片端より崩れ川の数々ははんらんし、洪水で家々は流され畑は潰されていった。
村はおろか島中が大荒れとなった。
朝には見るも無惨な景色が拡がった。
朝日さす雲間に巨大に膨れ上がった化け猫婆の顔が現れた。婆はさらに大きくなり、佐渡ケ島の空を覆い尽くした。
「もはや島に用は無いわ」
大音を轟かせると、毛だらけの右手を上空に伸ばした。それは海を越えて越後の空まで到達した。やがて雲を一ひねりしては各地に雷雨を落としてまわり、侍もただただ恐れうろたえるばかり。
弥彦山あたりの里人、かねてより「妙多羅天女」を信仰していたが、天空に拡がる婆とそのふるまいを見てこれは天女の怒りであると確信した。里人の頼みを受けた社の神主、
「まさしく猫多羅天女(ミャウタラテンニョ)である。髪の毛を取り寄せて崇めん」
と託宣し、佐渡のかの地より取り寄せるよう指示した。果たして婆の親族が髪の毛を保存していることがわかり、何とか取り寄せて社にまつり祈ると、天空の婆は俄かにすーっと姿を薄くし、やがて消えた。
以後その姿を見た者はいない。ただ、年に一度、佐渡ヶ島じゅうを揺るがす雷鳴が轟くようになった。これは猫多羅天女のせいだとされた。
~「北国巡杖記」 より編