近代怪談「墓石の戒名」

2012年08月22日
東京市小石川区第六天町江戸川縁から拓大の方へ往く途中の谷あいの街に、黒板塀の古い家があるが、其の家へ元松嶺の藩主であった酒井と云う子爵が引越した。引越したのは不幸続きで、地所も家作も持っていたが、それがどうにもならない結果であった。

ところで、其の家へ引越してみると、どうにもならなかった地所が高く売れたり、区割整理で家作が買収されたりして、めきめきと有福になったので、そこで本郷千駄木へ邸を新築して、いよいよ引越しと云う時になって、毎日踏んでいた庭の飛石の一つに文字のあるのを見つけた。それは古い墓石に彫った戒名であった。

酒井家では気が注かなかったとは云え、毎日墓石を踏んでいた事であるから、其の仏に対してすまないような気がして、近所の人に訊いてみると、其の家は旗下の家で、其処に非常に可愛がっていた一人娘があって、それが早世したので、邸の内へ葬ってあったが、その後其の家は人手に渡って、墓石は何時の間にか庭の飛石になった。しかし、其の家は縁起の佳い家で、其処へ入った者は皆繁昌して他へ移って往ったが、移って往く時不思議にその墓石の戒名がはっきり見えるのであった。松井桂陰君はそれに就いて、墓石と云うものは踏まれると罪障が消滅するそうだと云った。

(田中貢太郎「日本怪談実話」より)

~墓石にまつわる祟り話を田中氏はいくつか書いているが往古墓石というものは無縁になったら魂を抜いて再利用されるたぐいのものにすぎなかった。それは宗教的な意味付けされていることもあるが、石材は貴重品であり、移転を繰り返す寺など礎石や石塀に墓石を使っている例は幾らでもある。最近まで東京唯一の国宝建造物だった、東村山の正福寺には都内最大の3メートル弱の板碑が保存されているが、これはもともと小川の渡しに使われていたもので確か江戸名所図会にも出てくる。板碑とは鎌倉~室町期に流行した墓石の形態で種子梵字の彫られた薄石の簡素なものが多い。だいたい埼玉から北関東に青石を使った自然石様のものが多いが、小規模なものは都下にも普通に見られる。
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この正福寺の「経文石」は変な字の彫られた石橋と単に認識されていたものを、墓石であると判断したものが外して保存しようとしたところ祟りをなしたという(由来は諸説ある)。折角人の足下から救い出し綺麗にまつろうというのに祟るものではないと思うが、この小石川の踏み石といい、人に踏まれる事で供養されるという考え方が意外と民間に広まっていたことを窺わせる。キリスト教会の床に埋められる棺といったものとは違う意味合いであろう。江戸初期には切支丹の踏み絵のようなことがなされていたものを、日本人の宗教意識というのはどうも御都合主義的でいーかげんである。人々が踏むことによる供養といって思い出すのは浅草寺の「踏み付け」縁起の久米平内像であるが、これは参道に自らの像を埋めて人々に踏みつけさせることにより悪行を懲らしめてもらうという、とてもまっとうな?考えかたによるもので踏み石の話とは根本的に違う(その効果はいつか別記する)。最後の松井氏の説はこの久米某の話に近い。子が親より先に死ぬのはそれだけで罪とされた時代である。

それにしても、住む者がいずれも踏み石によって幸福をもたらされている、というのが面白い。この少女はほとんど座敷わらしだ。相手かまわず幸せにするというのはいかにも異界的なわけのわからない怪異である。この本にも続いて二つほど幸福の訪れる家の話が書いてある(しかも一つは首くくりの霊の出る家が幸せをもたらす話、もう一つは「強力わかもと」の創業者の家の話である)。しかし思うのだが、少女はなぜ自分の肉親には幸福をもたらさなかったのだろう。少女の墓石を残して引っ越さざるをえなかった家族、考えてみれば墓石を捨て置いた家族はつまり結局少女を捨てていったのである。寂しい少女は家族が早く帰ってきてまた一緒に住めるように、引っ越してくるよそ者にわざと富をもたらして、さっさといいところへ引っ越させてしまおうと考えていたのかもしれない。

今も「座敷わらし」と総称される神の話がそこここに聞かれる。先日テレビを見ていたら青い絣の着物を着た子供の写真が「座敷わらしの出る家で撮られた心霊写真」として出ていた。今やテレビにまで進出した無差別幸せ神、ディスプレイを通じて日本中に幸せを振り撒いてほしいものだが。(2005記)

(mixiサルベージ)

by r_o_k | 2017-07-18 21:33 | 不思議 | Comments(0)

岡林リョウの日記☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi