2017/7/25仙台高尾の足跡を追え!ついでに薄雲太夫の墓参り。→結論めいたことまで→明治中期お品資料追加
2017年 07月 25日
才色兼備の名妓ゆえに「伽羅先代萩」「高尾ざんげ」「紺屋高尾」等の主役に擬せられ、諸説を生み、「塩原高尾」「万治高尾」「妙身高尾」とも称された。(引用おわり)
さてと。 pic.twitter.com/iNXRipWhIz
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月27日
長々と書いておきました。まあ答えはありませんよね。>20170128二代目高尾太夫の墓いずこ? #flickr https://t.co/T2e1yPHvKw
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月28日
今回そもそものきっかけとなった、髑髏を祀る高尾稲荷神社の写真を改めて。髑髏は半世紀後の漂着でただの流行神だったにせよ、墨田の流れを中心とする江戸の風流も香る半日でありました。感覚的には巣鴨だな、タマシイが入ってるのは。 pic.twitter.com/BV5f4cP3nk
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月27日
さすがに万治年間は遠くなりにけり。。 pic.twitter.com/rD5nh59o9c
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月27日
ゆらゆらとされこうべが流れ着いたとさ(右端) pic.twitter.com/tNUjsslK6m
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月27日
さすがにね、これは後者がほんとうだとおもいます(最後の写真は巣鴨へ移転する前の場所、北斎が亡くなった長屋のすぐそば)標識は前者に立てられてますが、お殿様が立てたかも怪しい気がする
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月27日
商売っ気でいうと後者なんですが、浅草から越した現在は綺麗にされてますね
二代目高尾太夫の旅は続く pic.twitter.com/0FHZEfLbBd
はい。もと麻布仙台藩下屋敷内、高尾稲荷(現在は麻布氷川神社末社)に寄っておわりー。ちっちゃ!
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月27日
案ずるに仙台高尾は二代高尾とは「別に」実在したがきちんとお殿様のところに入り、しかし若くして亡くなったことから祀られた(品川の下屋敷には梅一本生やした塚もあったとか)んではないかなあ。 pic.twitter.com/REY7HzTWiT
西方寺(もと日本堤際隅田川そば、現西巣鴨)の二代目高尾太夫墓には招き猫の石像があり知られざる参拝者の愛玩物となっていますが、これは元々門柱に載っていたものでボロボロ、最近も破損されたらしい。これは元禄期の薄雲太夫愛玩の招き猫伝承が、二代高尾と混同され猫塚まで作られたとのことです。 pic.twitter.com/tkiMhp21P1
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月28日
(続)西方寺は「道哲」と通称されたのは二代目高尾を不憫に思って祀ったことから始まり、新吉原界隈の「投込寺」3寺の一つとなったとか(悪い噂もありましたが維新後は積極的に名乗って土地柄「繁盛」したようで、釣り銅標があります)。童女塚は浄閑寺でいう新吉原供養塔。竹屋渡の高尾塚碑もあり。 pic.twitter.com/f8T033REac
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月28日
道哲和尚は二代目高尾の左脇に地蔵として祀られていますが、このような型式は異例にも思えます。共に江戸初期にはありえない庶民墓ですので後世造立でしょうし、道哲の死が高尾の死の直前ないし直後説もあって、道ならぬ恋説も芝居化されました。坂戸市の永源寺には高尾と道哲の駆落ち伝承と墓がある。 pic.twitter.com/P7HCdIgCOj
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月28日
右脇の無名遊女供養塔は昭和のものです。 pic.twitter.com/EILMNFMTwT
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月28日
メモ。ネット情報だが日本堤の隅田川側端にあった刑場で仕置を受けた者、新吉原から密か運ばれ捨てられた遊女を初代道哲が供養したところから始まったという庵のち西方寺、巣鴨に移転の際二代高尾墓下から骨壷が2つ出て、道哲に違いないとして現配置になったと。線香畑は戦前浄閑寺の塔婆林立に近いな pic.twitter.com/oVq3Q3hnyx
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
あと、西方寺の竹屋の建てた高尾塚碑も、最近まで猫と一緒で門前にあったらしい。何か理由があって世俗色を払拭したかったのではないかと思う。招き猫発祥とも書いてない。道哲の名は表札に残っている。いずれ何も説明もなく墓地は周辺寺院と共同の広大なもので、時間がないなら調べて行かないと困る。 pic.twitter.com/7dr71KCV0z
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
西方寺二代目高尾墓にくっついた石像群、なぜこれが?というのがこの小さな庶民板碑で、実際の刻銘時期は知らないが享保十二年に百十二歳!こちらDL注意、江戸は白髪三千条なので話半分。 https://t.co/ISbrcspW1K
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
戒名が信士とあるから男、伝説高尾に操を立てたのかも。 pic.twitter.com/QIpBSXfN1Y
西方寺と春慶院の二代目高尾の戒名は同じ(震災戦災で共に墓石の銘刻全貌は確認不能)。最後に西方寺の新造織部灯籠。 pic.twitter.com/jLNiIcTuK5
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月28日
角の肉屋さんのあたりかと思ったら、江戸東京重ね地図なるものがあって、「土手の道哲」こと西方寺(西巣鴨に移転)はこの茶色の建物から後ろのビルにかけてあたりの庵だったようです。道標が現存するので角かと思ったら微妙にずれていた。そして薄雲太夫の招き猫発祥伝説は今戸神社より信憑性高そう。 pic.twitter.com/Ohk60zJ7nq
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
西方寺の元々の位置(但し明治時代になっての話)、グー地図で照合したら通りの角から狭い一帯となってますが、道自体が少しずれたようで、このスカイツリー写真のベルト屋さんのビルの敷地のようですね。墓地は更に引いて四枚目の山谷堀写真の右手ビルあたりのようですが。グー地図も厳密ではないかも pic.twitter.com/eU1pvhlRQe
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
遍照院(北斎終焉之地)墓地から山谷堀側。山谷堀はこのマンションの位置で支流のドブ川が二条別れていたようで、正面のマンションが境内北端にあたり、合力稲荷の場所は全く変わっていない(遍照院本堂も)。うーむ、マンション正面の写真を撮っとけばよかった。まあまた行くことあるでしょう。 pic.twitter.com/mnrzRRT6sw
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
メモ。三浦屋薄雲太夫(元禄期)について、商売繁盛の招き猫の由来説。西方寺の元位置について再考させられた。尤も切絵図ではまた少し違う感じ。 https://t.co/QTNQlzl8N7
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
メモ。見逃してた青物横丁の妙蓮寺に薄雲太夫墓あり、但し詳細不詳。もとから品川にある寺で新吉原との関係?強いていうと姉分の二代目高尾(初代薄雲説も)の吊るし斬りを間違われ近所の仙台公屋敷(張本人とされた元仙台公が蟄居)絡め作られたか?無事源六に身請けされ、愛猫家とも。三代いた説あり
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
新吉原近くから移転した投げ込み寺、練馬か板橋だと思うが思い出せない。という備忘録。
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
はい。すぐ品川行って参りました。大井公園は伊達下屋敷の一部で「万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布(現・港区)下屋敷を返上して、新たに大井村に拝領した下屋敷であった」と標識にありますから万治年間にここに蟄居したのは確かです、しかしのちに越前藩と交換し一部を残して移りました。 pic.twitter.com/HwpaUBLhcd
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
切通し右高台の公園に築山があります。「この屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている」近代埴輪片が表採され古墳とのこと。計三基確認、他現存せず。高尾塚ではないでしょう。ちな奥に山内容堂一家の大墓が纏められてます、見晴らしは良い。 pic.twitter.com/qSieqJjnf7
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
仙台坂は伊達屋敷の名残。尻目に東海道(第一京浜)を上って閉鎖的な海晏寺前を渡って旧参道らしき右脇に幸稲荷。芝の末社?新しいか。 pic.twitter.com/Ovx3AxDtab
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
さらに上って第一京浜沿い妙蓮寺に行き着くわけですが、ここ、来たなあ。思い出した。コンクリで本堂が覆われ見えないが雰囲気は良い。薄雲太夫の墓。綺麗に角柱成型され銘刻も前にしかなく質実。新しそうだが年代は江戸中期で合ってますね。左脇の尼僧さんが関係してそう。関東大震災被災者追悼碑が。 pic.twitter.com/t91YNF0xQx
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
丸橋忠弥の首塚はあくまで伝説。斬首されたその首が寝起きの和尚の枕元にあって、ねんごろに弔った。五輪塔様式を取り入れた特異な型式、ただ一言の刻銘の文字の形、これも新しいと思います。 pic.twitter.com/deOOdMnjSf
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
寺勢のすごい天妙国寺に寄りました。ここは無縁塔も有名だったのですが、一部分けられたようで戸惑いました。伝伊藤一刀斎墓(本当はその系統の剣士の供養墓らしい、伊藤一刀斎がそもそも伝説上の人)が分けられたと聞いて見に来たら、確かに。剣を下に構えたお姿も心なしかはっきり見えるような(笑) pic.twitter.com/7SzrlKXIX0
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
時間が余ったので、大井まで戻って少し先に。小泉純一郎さん手植えの桜まである来福寺。綺麗だけど庚申堂が焼失した模様。。阿波の藍商人大坂屋一族塔が有名です。徳島との深い関係。このあたり下町風情がありますが、近くに梶原稲荷。伝梶原景時の塚を祀ってます。狐塚として願掛け周回する。不思議。 pic.twitter.com/KuSXPtJMRp
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
このへん戦争で焼け残った家があるのは梶原景時一族塚稲荷の守護という話もあるのか。大井は軍需工場があったので爆発したとこは爆発したんだけど、無駄な空襲というのはやられないものなので(散在する町工場を狙って下町大空襲とか原爆とかはもう無茶苦茶だけど)焼け残るのは割とあることでもある。 pic.twitter.com/NW2qzjrd1F
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月2日
そんなこんなで、まあ、江戸の人の足なら余裕な距離に分布してましたよ、薄雲太夫の墓と品川仙台屋敷。山内容堂墓には驚かされた。かなり敷地を狭められたようで灯籠が散乱し荒れてましたが、高知の筆山と同じような巨大石を脇に添え維新後の神道様式の土まんじゅうを築いてました。雑草は刈られてた。 pic.twitter.com/RbZS2mWPxn
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月29日
綱宗目線で伊達家の宝物みてると面白い。お品(三沢初子じゃない方)=なぜか高尾と呼ばれたというのが真相らしい。高尾太夫ほど美麗だったということ?(綱宗は別の太夫に入れあげていたのが真相らしい)お品は品川大井町に住んだけど仙台出身で綱宗が左下顎の癌性病で没した後、仙台に戻った。 pic.twitter.com/E5t9cM1b4n
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年5月2日
高尾太夫の謎については鴎外が書いたので一種権威付けされたものの、その後別の権威者が説をたてて、またまた高度経済成長期に生活の余裕が出た人々が失われた歴史を返してそれにも反駁し、結局、その三方向で混乱してしまっている。お品は何処の人? https://t.co/XdWJijWKXU
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年5月2日
※別の権威者の説は鴎外より前だった(高尾太夫の名を継ぐ者が綱宗の吉原通いの時期に存在しなかったという説)
側室にあげられながら高尾と呼ばれ続けたのは疑問がある。後世の俗称ではあるのだろうが、品川仙台屋敷(綱宗幽閉の地)で高尾塚が築かれたのも麻布仙台屋敷で高尾稲荷が祀られたのも、それが伊達家から離れたとしても武家屋敷として継がれていった土地の以上、俗称を繋いだのはおかしいよなあ。
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年5月2日
しかし、高尾が無数にいて(これは高尾が三代で絶えた三浦屋抱の太夫という説への反駁としては成立つ、別店で勝手に使った可能性も)、みっちり詰まっていて、春慶院の秋葉のあしらわれた供養墓の主も万治高尾も仙台高尾も、薄雲すら高尾を名乗っていたというのも全部別人として並べ立てるのは、根拠?
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年5月2日
品川屋敷(大井屋敷)跡行けばわかるがとんでもなく広大で海に面した風光明媚な場所(当時は辺境)、ここに当時の風雅大名にはよくあることだが広大な庭園を作り、朝呟いた浦島太郎一行像はそこにあった鑑賞設備とのこと、鴎外説の高額硝子屋敷で狩野派の絵を嗜み煙管を吸い亀千代に書を送る日々。うん https://t.co/2l7OEDZfoE
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年5月2日
鴎外が惹かれたのもわかるな。瑞鳳殿設備の3つの御霊屋(空襲で全焼)のうち、三代綱宗廟のみ写真が残っておらずいっさい記録もないというのは、もちろんその時代には殉死が禁じられ華美な装飾も出来なかった(前二代より立派には出来なかった)ろうし、良くない伝承から人気がなかったかもだが不可解
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年5月2日
記録がないためこの姿はあくまで最近再建したときにふさわしい装飾を施したもの。
三代が三代とも独特の別の埋葬方法がとられていたのは驚いた。正宗はともかく、あと二代はそれぞれ水銀、蛎殻石灰で固められ防腐措置が施されたというのもすごいし、何故か石材不足が原因と断定されてるが、確かに巨大自然石製の多い土地柄とはいえ古い板碑で石室を作るとか。綱宗は瓶棺を吊るされてた https://t.co/4CM2rHw1KK
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年5月2日
スギハラ品、通称高尾と椙原2基。仙台駅歩25分江戸初期創建(元は福島にて中世まで遡るため古い縁のお墓(右手駐車場奥から無縁のように並ぶが調査結果コピーを頂ける)もある)仏眼寺。幕末堂の内陣格子欄間に縦三引(確認できず)と輿2、地震損壊した笠石は木瓜紋。元は綱宗側室らしく立派だった pic.twitter.com/ISDugexEY1
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年5月3日
仏眼寺にはおとめの方という人も品川屋敷に仕えのち、綱宗側室になり、大原家として代々続いたとされていた。お品、おとめ共に本人は綱宗没後剃髪し尼となったといい、戒名が普通と異なる。このお寺はなかなか奥深い歴史があり、途中伝承が断絶したり伊達家に関わったりなど、正史が読み辛い。資料頂く pic.twitter.com/Dc3XrAKdx9
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年5月3日
お品の方の左側面に珍しく建立碑文があるが、通常状態での文字判別は困難。後代が建てた可能性が高いと思う。笠石は昭和の地震で崩落したようだが、後補の小さな笠石も古く見える。他の墓石より転用した可能性。いずれ浅草の高尾墓の立派な大名様式のものに近い形式だった(写真があった)。 pic.twitter.com/QNvSrjyCLV
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年5月3日