2017/2/9港区三田を行くシリーズ(2)「幽霊地蔵」※高輪築堤石積確認、お台場追記、八ツ山橋、鉄路敷設写真、幽霊通った飴屋のあった二本榎・地蔵元位置の芝浜
2021年 06月 14日
もくじ●
芝浦・芝浜
高輪(高輪大木戸)
お台場・御殿山
鉄道(品川駅・八ツ山・新橋駅)
二本榎
twitter探訪まとめ
月の岬
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芝浦・芝浜
(訂正)牛町児童遊園→車町児童遊園、車町児童遊園は高輪ゲートウェイ駅前道路にほぼ取り込まれた範囲で、泉岳寺駅前交差点から田町側のむかし公衆トイレがあったところにまだ旧マンション入り口への道が残っていて、今回の現場の近くまで寄れるが、目隠しで見えない。早速京浜東北線旧路を歩き地上より高輪築堤が確認できるか、景観の変化と共に記録。結論として高いビルもなく工事現場内の発掘箇所を見るのは工事櫓以外困難。牛町児童遊園と古いアパートが撤去され目隠し塀が設けられた先。ここは東海道高輪石垣が発見され埋納保存となった場所だろう。品川まで歩く。 pic.twitter.com/rahOz9ZgVB
— STE@ka (@ryookabayashi2) November 22, 2020
当然トンネル部には明治の石積はみられずここで遺構は切れているはず。ざっくり田町〜品川とひかれた図はあくまで当時のもので今回発掘された範囲ではないと思う。ちなさっきの水路写真は高輪橋架道橋下区道(天井の超低いトンネル)改築工事で地下水が漏れたのかもともとなのか、まるで高輪海岸の名残のように見えたところ。今は天井がボコボコ穴空いてますが、基本的に人道としては残置で、将来車も可能とのこと。なくなるという噂もあった。 pic.twitter.com/Mn8REOwG0k
— STE@ka (@ryookabayashi2) November 22, 2020
古い店やマンションや企業ビルが更地やTIMES駐車場や空きビルになって、もっとこまかく掘ったらほんと色んなものが出てきたのかもなあ。まあ、開発とはそんなもんですね。高輪築堤の見学したいな。 pic.twitter.com/GHxYoUNjXo
— STE@ka (@ryookabayashi2) November 22, 2020
早速京浜東北線高輪ゲートウェイ→田町の高架部分(この線路のみ)から高輪築堤を見てきた。スマホ写真グタグタ。障害物や工事車両が邪魔で俯瞰的には見づらい。築堤なのか後年の盛土なのか判然としない部分が多く札の辻側の築堤の石垣が辛うじて俯瞰できる(壁面とのせめぎあい)。動画撮るまでもない pic.twitter.com/HvtBQWGIWZ
— STE@ka (@ryookabayashi2) November 23, 2020
高輪築堤、やっぱりあんましっかり撮れない。諦めて帰宅。だいたい電車高架からしっかり見えるのはここだけ。しかも外側の石垣のみ。三枚目は高輪ゲートウェイ駅前道路の、外洋への出口施設あたり。高架でなく頻繁に山手線が来るので見えない。四枚目は例のトンネル。築堤は無いが構造は面白そう。 pic.twitter.com/ThQQzIDJ9w
— STE@ka (@ryookabayashi2) November 23, 2020
手元の適当な高輪ゲートウェイ近辺地図。
— STE@ka (@ryookabayashi2) November 23, 2020
明治14-20年くらい
明治43年くらい
大正2年くらい
戦後
地図上では大正初期に築堤はすでに埋め立てによって内陸化している(部分的に残るか地図が大雑把な可能性あり)。 pic.twitter.com/Nk9H5OZmRm
てきとうな高輪築堤辺の画像
— STE@ka (@ryookabayashi2) November 23, 2020
鉄道浮世絵は開化絵でさかんでしたが開通前のものも多く半分想像みたいなもんです
金杉海岸は築堤の東の始まり、外側の石積みの様子がわかる
清親の有名な図は汽車誤認があるので安治 pic.twitter.com/kpwEeeIMcz
さて、写真絵葉書に視点を戻すと時代が下り大埠頭がすでに作られその威容を見せつける写真ばかり(だいたい明治から昭和初期は名所旧跡より新築や新技術を見せつける写真集や絵葉書が多いので使えません、あと関東大震災で船で逃げる写真や、芝浦あたりの船溜まりで水上生活を送る人々の写真も多くあります)のなか、その途中と思われる絵葉書もありました。高輪の方と思われますが、砂浜がないところはこのような石積みになっていたのですね(江戸時代から東海道のこのあたりの波打ち際は石積みで有名でした、上の浮世絵でも道路下が石積みに見えます。別項で書いたように現在は間の運河も無く直接線路際となっており、一部は現地に埋納、一部は桂坂下に移されています。山手線の新駅が作られる予定です)。参考です。船は土砂運搬船?まっすぐの海岸線ではないので、鉄路が地上に上がる高輪の先の品川の小山かと。
目黒なので行人坂の大円寺へ足を伸ばし、とろけ地蔵を見たら高輪の「ゆうれい地蔵」にも行きたくなった。維新後に本芝二丁目(三田近くの芝四丁目、江戸の町割が残る)の源光寺を合併して光福寺となり、寺町として栄えた二本榎界隈にて所謂「飴買い幽霊」の噂をたてられた子安地蔵。塩地蔵だろう。 pic.twitter.com/hBa3czxzaz
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月22日
幽霊のような姿は塩を刷り込んで願をかけた名残。そもそも芝浜の源光寺(写真の位置と特定)にあったものを高輪に持ってきたもので裏に白い跡。光福寺には昭和に近隣で掘り出された巨大な織部灯籠残欠が江戸前期の墓石と無縁塔に祀られ壮観。 pic.twitter.com/scivAnyAuW
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月22日
源光寺のあった旧町名本芝町は芝四丁目の学校(都営三田駅出口側)と逆サイドの、大通りとの間の比較的狭いエリアに位置するエリアで、町会名として復活している。NEC本社をはじめとする巨大なビル群の間にあってエアポケットのように江戸の宅地が残ったのは寺のおかげだろう。半分原型を留めている pic.twitter.com/A87iJOJ2lK
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月22日
江戸の切絵図(goo地図がわかりやすい)で本芝の砂浜から陸地側に入ったところを見ると、大名屋敷などほとんど無いあたりに隣町から続いて寺の密集するエリアが見られる。そのあたりの曲がりくねった小道が残っており、残存寺名と照合すると、源光寺は拡張道路に貫かれ移転されたことがわかる。 pic.twitter.com/jmtkIx4yTM
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月22日
隣町と比べても砂浜から一層はなれたところにある寺で、境内や際にあったならば地蔵が浜風潮風を直接受けて風化したという説は疑問。廃仏毀釈で同じ浄土宗の寺院に吸収されたさい新たに作られたという説もあるが、そうなると風化ではなく人為的に幽霊化されたのだろう。水掛けに束子掛けもしたのでは? pic.twitter.com/3rbrQsfFaH
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月22日
こちらは織部灯籠。戦後近所で出土した由来の分からない残欠で一揃の銘も無く、切支丹灯籠の形式は整っていない。しかし人物彫刻は明らかに仏教のものではなくしかも明瞭。もし十字部分や火袋などもあったとしたら目立って巨大なものとなり、切支丹と関係がなくても目をつけられた筈。不思議。 pic.twitter.com/B907xY6LBG
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月22日
お寺の起源をみるのに無縁塔チェックは欠かせない。古い物は彫刻がなされ廃棄再利用を免れて残されがちだからだ。光福寺の無縁は江戸の寺では古いことがわかる。寛文年間のものは稀に見る大きさで銘も多く、その他小さい石仏も童子多めだが元禄年間が多く、17世紀のものである。珍しい形式もある。 pic.twitter.com/a567WgPjGJ
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月22日
摩耗して痩せた地蔵は珍しいものではなく、むしろ何の名前も由来も付されず各地で見受けられる。水中出現と塩擦り込みと何らかの被災のパターンがあるが、漁師の網にかかったという最初の説は顕現と結び付けられがち。浅草寺が代表格。 pic.twitter.com/3QmvH41JBP
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月22日
昨日の芝浜関連で高度成長期前の地図だと思う、このあたりはすごく変わった部分と変わらない部分があり、海沿いは昭和初期に既に大きな埠頭が出来上がり埋め立てられているからわかりにくいが、「本芝」が昨日呟いた「芝浜」、「芝浜町」と「芝浜松町」は確か大名屋敷があった辺りだと思う。 pic.twitter.com/k82BpdwBqJ
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月23日
芝浜について(江戸最後の浜辺)
昼休みに芝浜へ。地図が混乱してるが現在の鉄路は元第一京浜(東海道)から海側に移設されたもので、それを潜って昭和40年代まで浜が残っていた。そこから運河が伸びて今も船溜まりとして残ってる。 pic.twitter.com/NM9bgG7cgy
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月25日
わかりにくいけど鉄路を越えこの正面が芝浜のほぼ全景で、右半分に砂が敷かれています。元々のものじゃないだろうけど。北の端からの写真が二枚目。四枚目が南の端と思われる。この手前が三菱自動車本社、そして田町駅。西郷海舟が会った跡で、昔の本には旧藩邸の建物の写真が出てます。海へ突き出てた pic.twitter.com/OQsv5b97hb
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月25日
田町駅内に西郷海舟会見の図がありますが藩邸は逆側、森永越して三菱自動車本社の更に向こう端に碑文があります。そこから線路(海)側へ入ると芝浜(本芝公園、ほんと狭い)の南端、御穂鹿島神社(これは本によっては真ん中あたりから移転したようにも書いてある)。最近新しく併合新築したそうです。 pic.twitter.com/A6O6tu0q16
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月25日
夜の「芝浜」を札の辻から(田町駅のドーム状カバーの向こう側) pic.twitter.com/wwdTv1hQda
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月26日
芝浜の四方のビルに行って見下ろせる場所を探すが、陸側三方は住宅か企業なのでムリでした。正面線路越しに区の施設が新築されてますが、陸地側を見下ろせる場所がない。プールからは見えるかもしれないけど、そもそも施設内撮影禁止とのこと。。結局駅2階から斜め見るだけ。往時の雰囲気や無し。 pic.twitter.com/jrSyEwFHL5
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月31日
聖坂から二本榎まで尾根筋を。二本榎交差点手前から光福寺までなかなか大きな寺町。戦争で焼けなかったという二本榎周辺の商店街、明治時代には大名屋敷から偉い人のお屋敷街になった高輪、御用聞きで成り立ってたというけど、菓子屋が多い。幽霊地蔵が飴屋に通ったのは明治以降だろうが雰囲気わかる。 pic.twitter.com/GrhnDENDrm
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
※三田台から海を見下ろし二十三夜待ちで賑わった台地から降りる通称「月の岬エレベーター」(ツインビル裏(元ホテル敷地))と元和キリシタン遺跡標柱等(現在練馬区に移転している智福寺境内にあたり、忌み地のような荒れ地だった丘の一角を境内として建ち供養したことから高輪の札ノ辻刑場そばのここが大量の切支丹を家光の代で殉教させた斜面と推定されている。標柱には智福寺の文字があるが昭和30年代のもので既に移転していたと思う。裏は昔は見晴らしの良かったであろう東急マンションで、長らくの大再開発の裏で廃屋になっているが、何らかの工事を始めている模様。そもそも札ノ辻は現在第一京浜から海側に大通りが別れる場所となっているが、もともと海側に車道陸橋などなく踏切だった。その高さと海側のビルに阻まれここ10年でもだいぶんに風情が失われている。)
アルバム
知らなかったですが泉岳寺から高輪台へ上ったところが赤穂浪士の預けられた細川下屋敷跡で、自刃史跡として少しだけ残されてるのね。大石内蔵助自刃跡は幾つか伝承されてるみたいだがここが一応正式な史跡となってる。閂掛かってるけど大部分は中学校の敷地、二本榎通りからは巨大都営住宅の奥になる。 pic.twitter.com/s1lO6HoE8d
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
※ようはいわゆる赤穂浪士は四か所(六本木の元毛利下屋敷を除けば全て三田(泉岳寺)周辺)の大名に預けられ、一定期間各藩に処遇を任されたうえでそれぞれの庭で切腹したため散在ということで、こちらはその中心となる大石内蔵助らの史跡になります。浅野内匠頭の切腹は刃傷事件即日しかも武家らしからぬ庭先でのことで、江戸城も近い現在の新橋駅近くに旧田村上屋敷跡、すなわち切腹地の標柱があります(都史跡)。勝手にリンクしてすいませんがこちらにすべて場所が書かれています。>参考
入試の季節なのね。ここは寺町の一部の跡地に造られ発掘された。承教寺はまだまだ大きな敷地をのこし、このあたりのお寺がみんな新築してる中で古刹の趣を出している。二本榎通りからはこんなですが。二本榎の碑もここの門前に移されています。二本榎は昔に枯れ、今は諸説ありますがいずれ後世のもの。 pic.twitter.com/xH7Ev4O95v
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
承教寺の前門脇には近年移動してきた二本榎の石碑とともに、目黒五百羅漢寺などの白沢像を思わせる風体の「狛犬らしきもの」が置かれている。ネット情報では中国から持ってきた人が悪いことが続いたため昭和にここにおさめたという。このような話も古寺ならでは。 pic.twitter.com/WQCqsD96lc
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
朱塗りの仁王門まで参道脇は狭い公園や宅地になっているが一部古木も残る。多分これも焼け残り。不釣り合いな小さい仁王さま。広々とした境内に梵鐘。元禄時代の銘。 pic.twitter.com/i9u18xc0KT
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
芝生で犬の遊ぶ簡潔な本堂前境内。江戸中期以降の石仏など少し。本堂前左右にいくつかある記念碑の一つが英一蝶の墓標。今のものは安政大地震により墓石が割れたため明治初期に作り替えられたものだが、近隣の丸石など使ったような異様な塊。「北窓」という晩年の筆名は、おもっきし北斎の戒名と同じ! pic.twitter.com/gJgrtPC6Tp
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
訂正。北斎は「南窓院」だった(窓の漢字と意味は違うけど)。北窓翁と卍翁、時代も画風も違えど心意気は同じ。 https://t.co/jTEIPgJZXJ
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
対面の黄梅院は二つの大きな家が互いに不動尊と銭洗弁天を勧進していたものを、吉事ありとて合わせて祀ったという。平成になって二本榎の末裔を植えたというがネットでも出てこないほどわからない。というかここの境内の区内にそれらしい木が無い。左や奥には別のお寺があるがそちらなのかな。銭洗える pic.twitter.com/Q3vDut5gcP
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
二本榎の交差点。ここに植えられた榎のほうが二本榎っぽい。表現主義建築で知られる昭和初期の消防署はなんと全面覆って修復中。この交差点先が警察署で広々とした高野山(新しく見えるが江戸時代からここにあった)と駐車場を共にしてるような。怖い人たちがいたw先が光福寺。元寺は手前にあった様。 pic.twitter.com/x4j7maay8y
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
高野山脇が名坂で名高い桂坂。500mの緩坂だけど元は交差点手前の方にある屈曲した狭い坂で、僧が鬘を被って品川の遊里に通った途中転んで死んだからその名がついたともいう。今は左右を大家や古塀で囲まれた大きな坂。東海道は高輪の海沿いの道に出た。 pic.twitter.com/oePN4w9LZA
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
こちらの邸宅手前が脇道で洞坂、名前の由来のひとつに法螺貝が「出た」からという話は麻布の坂にもあった。爆発して龍に成って昇ったという話で、坂の多い大名屋敷地帯特有のものかなあ。東海道(第一京浜)に降りたところで一気に広々とする。海沿い道の名残の石垣一部が持ってこられてる。おしまい。 pic.twitter.com/884BrcDD86
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
光福寺のゆうれい地蔵の飴買い幽霊話は、菓子屋の多く出来た二本榎商店街との関係性で、たぶん明治になって生まれた民話じゃないだろうか。三田の源光寺から招来した後の話として。痩せ細ったゆうれい地蔵が品川沖で引き上げられた説は桂坂が広い海に面していたとこからきた顕現譚でしょう。品川も近い pic.twitter.com/aIP2dAtymO
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月8日
二本榎消防署(2015/7撮影)