写真追加:港区三田を行くシリーズ(2)「幽霊地蔵」※台場銅版画、八ツ山橋、鉄路敷設写真、幽霊通った飴屋のあった二本榎・地蔵元位置の芝浜と東海道沿いに海に通された鉄路の浮世絵他を追記

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とろけ地蔵は数あれど、テラテラ濡れた姿は何やら金属のようで、現代美術にこんなものがあったような。。落語で知られる芝浜近くの寺(源光寺)が廃仏毀釈にあい、高輪の同じ宗派のお寺(現在は光福寺と呼称)に併合された時に持って来られたものと言われている。それなのに何故か江戸時代の民話として、高輪の寺町にあった飴屋に飴を買いに来る、いわゆる「飴買い幽霊」が出没した伝承が残るという。芝浜(東京都港区芝)といえばそれほど広くない砂浜だけど、明治時代に線路が敷設され今は高層マンションが建っている見る影もないビル群の中。ですが、以下写真、合併されたお寺「源光寺」のあった場所と特定できました※。
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廃仏毀釈をまぬがれ、再開発からも逃れたお寺が幾つも残り、それを囲むように住民も残った結果、エアーポケットのようなエリアができました。今は三田駅の至近、芝四丁目の一部ですが、最近になって旧町名「本芝町」を頭に冠した町会を復活させ、掲示板も建てられています。区割りも小道の曲折も江戸時代のまま残り、半分は無くなっていますが、半分は古地図のままとなっていたので易安と判明したのです。ちなみに、巨大なNECのビルからすぐそこです。その気になれば、江戸は至るところに残っているのを確認できます。残そうという方々によって。
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〜芝浦の汐干(明治中期)
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〜品川の潮干狩り(明治前期、東京湾のごく普通の風景だった。船の背後は後述する台場、放送大学附属図書館蔵、「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」より)
※下は「明治の日本」横浜写真(横浜開港資料館)より同じ写真の彩色写真(スキャンアプリの性質上赤が強く出ています)
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(眼鏡絵のため左右反転、下が反転させた正しい角度)
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〜ぐっとさかのぼって18世紀、遠浅の海の夜。秋田蘭画の伝小田野直武、眼鏡絵(立体視用の洋風画)。江戸名所図「品川沖夜釣」このような漁を行ったのは白魚で知られる佃島ではないかとも(「小田野直武と秋田蘭画」展カタログより個人蔵)

※旧源光寺の境内は明治時代の地図「本芝下夕町」という箇所に該当します(図上の長徳寺北西にあたり道路が真ん中を突っ切っている)。一説に「下町」だったものを読み替えたとも言います。東京女子学園高校(東京高等女学校)の裏とも言われますが、その隣の三田NNホールと道路と向かいのこのマンションを含むエリアだと思われます。(この切絵図内にも寺名が確認できます。それほど大きくないことがわかります。寺域も一定していなかった(明治時代にはかなり狭められている)と思われるので、地図上の大きさそのままではなく、移転前にはNNホールまで届かずマンションと道路くらいの大きさだったと想像しています)
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この昭和30年代の地図では運河の先の「江戸最後の浜」芝浜が溜水の横長の船溜まりとして、まだ健在です。あとで出てきますが、このあたりは江戸時代は大衆魚の漁村、開化後は外国人にも人気の海水浴場、一部鉄路がひかれ埋め立てが始まるとその土地に料亭など立ち並びました。鉄路や堤防に釣り人が並ぶのんびりした写真等もありました。それから本格的に埋め立てとともに大きな船をつける埠頭や開閉式の大橋など雰囲気は変わっていきましたが、いずれ風光明媚な繁華な行楽地として戦後まで花街が残りました。芝浜は鉄路を潜る変な形になっていますが、高輪からこうなっていたのです(高輪の岩山からの高架や大木戸跡は有名浮世絵師がよく描いてます)。すでに東海道山側には店屋が立ち並んで旗がたてられています。

遡ります。
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(眼鏡絵のため左右反転、下が正しい角度)
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:平賀源内門人、解体新書挿画等で名を成した秋田蘭画の勇、伝小田野直武(同前)江戸名所図反射式眼鏡絵「高輪海景」もしくは芝浦海景、富士山の位置から後者といわれるが海の広域として高輪から芝浦は大して離れていない。西洋銅版画の決まり事を忠実に守り空には意図的に鳥を配している。(「小田野直武と秋田蘭画」展カタログより個人蔵)18世紀です。※スキャンアプリの特性から色が強く出ています

(参考)初代広重、東都名所(左下に高輪大木戸と高札場が配置)
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のちの泥絵と同じ絡繰趣味の作とはいえ、京の応挙と異なる方向から写真画法とでもざっくりまとめられる方法で浮世絵の外連味なく描いた高輪の最古だとおもわれます。平賀源内の時代に工房で働いた直武が、その源内の住居を貸していた春信の一番弟子、司馬江漢とすれ違うように江戸を描いていたのが面白いですね。直接関係はわかりませんが司馬江漢の流儀は鏡絵として始まった泥絵の興隆につながりました。泥絵は路端で売るような大衆肉筆画として、さほど遠くない芝神明の本屋街を舞台に局所的に劣化量産されていきました。(応挙系の京都は鏡絵の色が強いみたいです)
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:幕末の高輪大木戸あたり東海道の泥絵、まだお台場もなく鉄路もありません。この少し前までは海沿いにずらっと簡易な店屋がならび(江戸名所図会)、後に出てくる銅版画同様の様相を呈してましたので、不穏な情勢か工事都合か一時的な閑散の風景であるかもしれません。陸側はしっかり店だらけは絵と同じ、丘際まで大名屋敷や大寺もありましたが、何かと土砂石材の産地として利用され、台場築造のときは大きく削られ、すでに八つも無かったそうですが、八ツ山と呼ばれたものを始めとする高輪台の景勝地はどんどん無くなってました。瀬に船群が見えますが初日の出見物か漁師か、あるいはごく初期の段階のお台場建築でしょうか※。小島を作り周囲に杭を打っていったそうで、それに見えなくもない。左右の船着場は黒船に似せてますが実際は和船が多く泊まっているところで黒船サイズのものは停められません。木戸下の舟は瀬に漕ぎ出すものでしょうかね。

※泥絵特有のいい加減さだと思っていたのですが、大木戸から海岸へ降りる人と大木戸を手前に避けて行く人が大きく別れます。これがお台場築造中の図とすると早朝勤務の人たちが海岸へ降りる、工事のため昼間通行禁止となる大木戸近辺の東海道は陸側に臨時道路ができていたそうなので、通常通行者は臨時道路を行くため大木戸を避けていると見ることもできます。まあ、茶店が残ってるのとかよくわかりませんが。あと陸側大木戸と完全に重なった二人の人物の頭を描いてない箇所があり、慌てて直したようにも見え(非常な速筆)単なる描き間違いと考えたほうがいいでしょうか。刀を持った人が一人もいず全員男なのは泥絵の手抜きかもしれません。初期とすると2,1番台場の基礎でしょうか。
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参考:赤が先に完成、青は嘉永七年にかかった。グレーは一旦未完成(陸上の丸は御殿山下台場)。当然ですが現在の高輪台からは何も見渡せません。

5番台場の残骸が港区みなと図書館横に置かれています。高輪に一番近かった台場の石垣石と伝えられる伊豆石。
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参考:若干芝浦側から台場群方面(左端にレインボーブリッジ、垣間見える海 ちなみにこの写真も当時海上だった場所からのものだ)

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東都名所泥絵(国会図書館)
先の泥絵よりあとのお台場が見える風景です。東海道は工事で広められていたと想像されますが大木戸礎石の陸側が無いので単に泥絵的なスケールなんでしょう。御殿山、高台園地から見たもので、まだ土砂が残っていたんですね。3つ台場が見えますが、距離は違ったはずです。左から2,5,1番台場でしょうか(どれも撤去もしくは埋立て、ちなみに4番は七割築造後中止(七年後完成しのち造船所になりました)、別途陸地に御殿山下砲台(台場と呼ぶこともある)が作られました、灯台のモニュメントがあります)。もしくは1-3番が先に完成し、5,6と地上もしくは4の途中までが後の築造になりますので、3-1番かもしれません(3番は今も歩いて渡れる四角いやつです)。11基の予定は内海側4基中止および未完成1基、外海側(嘉永7年時点)未完成1基(陸上変更)で5基になりました。桜の名所だった御殿山の削り具合は二代広重江戸名所百景品川御殿やまにみえます(崖が茶色いバージョンだとよりはっきりわかりますが、土の色的にはどちらが正しいのでしょうか)。
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この工事、人足だけで七万五千人、数千隻の船が導入され海を埋め尽くしたそうです。既にお台場は江戸湾を箱庭のように見せていたんですね。
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いずれも御殿山から内海を眺めての台場と思われ、最初の白黒の方は前後に配置された台場4つの位置関係がわかる珍しい構図です。品川宿の屋根が見える。(「泥絵で見る大名屋敷」)
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明治45年戸川残花「江戸史蹟」より「御殿山の桜」すでにこの本の頃はこのような雰囲気はなく、そも御殿山の桜自体幕末文久年間にほぼ伐採されたという。もともと徳川将軍別荘であり、寛永頃は将軍の代理として老中が参勤交代の大名を迎える丘で、吉野山にたとえられる花見の名所になったものが、台場建設のため土を取られ様変わりした。幕府が二度の攘夷派襲撃により一旦横浜に引いたイギリスのため英国公使館を建てたところ、高杉晋作らのちの維新の立役者たちの焼き討ちにあい、結局、新興住宅地になってしまった、と。
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同書より高輪大木戸。これもかなり昔の回想風景とみてよいだろう。ここより北が江戸府内(東京市内)となる。もともとはさらに北の、札の辻だったが築造以降ここに高札場が設けられ江戸の境とされるようになった。
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(上は復刻版、下は「文明開化期の横浜・東京」より)
ザ・ファー・イースト明治5年10月1日英国公使館近辺から望む品川湾、とある。三田の仮用地(大名屋敷跡)にまだあったのだろう。文明開化期の横浜・東京では伊皿子の大円寺付近としている。中央右が光雲寺、中央遠く海上にひかれた鉄路が写っている。高輪からの埋め立てがずいぶん長かったことが実感できる。その先が品川駅となる。
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英国公使館で二度攘夷派の襲撃を受けイラストレイテッドロンドンニュースに全面銅版画で特集までされてしまった東禅寺山門から海、第一台場(と第四台場の残骸)。多数の和船と二本マストの機帆船一隻。モーザー写真(東海道は山門前にのみ垣間見えるが鉄路の電柱が丁度折れ目のところに写っているので明治5年鉄道開通と離れた時期の撮影ではなかろう)横浜の写真英字新聞ザ・ファー・イースト明治6年1月16日号掲載、「150年前の幕末・明治初期写真」より(見開きのため中央折れ)
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ファー・イースト復刻版より(画質は悪いがページまたぎのないものとして)
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落合芳幾(歌川芳幾)の前期の絵。高輪大木戸から夜の台場を描いた大変珍しい幕末浮世絵です。これを見ると大船とお台場のスケールがわかります。5,1番でしょうか。1番は大きかったんですね。洋船が黒々としています。たしかに既に江戸湾は箱庭化していました。防衛的な意味でも。モーザーより前の時期であることは鉄道の有無でわかります。ほか台場を描いた幕末浮世絵師というともう↓だけでしょうか。
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幕末以降の江戸東京を多数描いた二代広重、江戸名所四十八景より高輪秋月。こちらは大木戸門石が2つ描かれています。スケールも正しいです。小屋が違ってきてますね。万延もしくは文久年間のもので既にお台場も完成し洋船が多数見えます(この時期にはほとんどの洋船のマストは全部同じ高さになっていて中央だけ極端に高いものはあまり見られません、メインマストが飛び出るのは和船です。泥絵の船は黒船ではないというのはそういうところでも判断できます)。文物配置や遠近感含め浮世絵的に処理されていますがやはり狭いようですね。サッパリしたいかにも末流浮世絵です。左を向いているので、6番台場かもしれません(左端、現存の無人島です)。

参考、三代広重の東京開化百景より高輪大木戸(明治も中期に近いころ)汽車はこのように走ることになります。礎石間に門がある。これは江戸時代も礎石ではなく壁としてこのような黒い木戸を付けていて、礎石礎石書いてきたので今更直しませんが(苦笑)、いつしか払われて高札場など設置されるのみになりました。幕末攘夷運動盛んな折外国人を守る(膨大な賠償を負うことにもなる)ためふたたび設置されるようになったといい、ひいては高輪でも開化後にこう設置されたようです。幕末は品川方面に木戸があった模様。
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二代広重江戸名所百景より高輪うしまち。伝統的な構図なのであまり台場はよく見えません。牛町はすぐ近くで画題にされがちだった。
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逆側の芝浦から品川をのぞむ。二代広重江戸名所百景より芝浦の風景。
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愛宕山から台場、ここまでくるとそうとう内側です。「泥絵で見る大名屋敷」
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明治十五年「東京名勝一覧」小銅版画より愛宕山上からのお台場。
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明治十二/二十年「東京御絵図」小銅版画、この時期の挿絵的な銅版画は共通のネタ元を様々に写したような構図(中には同じもの)が多い。このような構図だけ同じでより繊細に舟まで描くようなものもある。

参考、明治二十年代品川から東京湾。写真だとわりと遠く見えますが角度の問題でしょう(こちら側は簡易なお台場しか作られなかった)
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二代広重、江戸名所百景、品川すさき。品川から台場が見切れてます。(高輪から品川は目と鼻の先ではありますが)この河口近くの4番台場(のち完成したのは前記の通り、現在は天王洲アイルとして拡大整備され、石垣は一部再利用)が陸地の砲台に変更になりました。けっか1番が海上では一番外側になりましたのでこれは1番でしょうか。
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井上安治が似たような構図を描いている小林清親の品川沖、得意の洋船の背景に台場が見えます。時代は少し下りますか。

話が飛びました。あらためて。
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文久三年、幕末まであと数年。(国会図書館)
そして開化後すぐ鉄道計画が始まりました。
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珍しい埋め立て風景。後者二枚は「ファー・イースト」明治5年10月16日掲載のもの(復刻版※および「文明開化期の横浜・東京」掲載)。品川新橋間とあります。同時に撮影されたのでしょう。

※尾張徳川家所蔵のものを中心とする雄松堂旧全集豪華復刻版より(現在でも丸善配下で同額でオンデマンド販売されています、同額で)。ファー・イーストは焼き増し写真をそのまま新聞に貼り付けており一部写真が異なるバージョン違いがあることが知られています)。

五ヶ月前に仮開通していることから明治初年あとと思われます。撮影もファー・イーストのどちらかの英国人写真家でしょう。前者をトリミングし三田平凡寺が絵葉書にしました。そこに高輪とあります。鉄路用土堤が右に大きく写っています。汽車の火の粉を恐れた東海道沿い住民の声でこの堀が作られましたが、波が荒く高輪海岸は難航したそうです。簡易な土橋もあります。正面の山は三田台だそうです。下の絵と比べてみてください。ここを埼玉の鉄道博物館に展示されている第一号が走ることになったのです。国重文です。

ちなみに下の機関車は実際の一号機関車とは機関部が異なり玩具のような形をしています。実見していないとおぼしき浮世絵もけっこうあり、一様にこの形なのでモデルがあったか(ペリーの持参した汽車が似ていますが、煙突の形や有人車両(ではなく乗務員と石炭の積み場所なのですがそう解釈されました)の屋根など異なっておりバリエーションもあります)、売れた絵を真似て風景に当て嵌めたと思います。開通前の想像とする見解がありますが、鉄路は実際のものと思われ、開通後ではないかと推測します。ちなみに内部構造を除いて外見は三号陸蒸気によく似ております。開通後でないと三号を選ばないのでは。
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ペリー模型(参考)Wikipediaより
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一号機関車(参考)Wikipediaより
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〜一号機関車はのちに改装している。
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〜こちらが三号。現物は青梅鉄道公園に保存されています(改装している)。下はwikipediaより
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このあたりの絵はほんとたくさんあります。少し後の清親の絵はかなり人気があった(ある)ようですが2号(べんけい号)でしょうか煙突が丸まります。末流浮世絵にくらべ徹底的に観察し写真を撮ってまで描いた洋画的表現志向の清親は写実的汽車表現の初のものということもできるでしょうか。紅色が特徴的な光線画。
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参考、始発の新橋駅(汐留駅)井上安治
2019年大河ドラマで出てくる後期の姿を見るとかなり小さく思えますね。
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明治十年の品川駅、ここの最古級の停車写真でしょう。向こうは海です。八ツ山を崩して埋めたエリアです。
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品川駅と明記。御殿山(八ツ山の西北部にあたる)の土で埋め立てられたから「八ツ山ステーション」と。同時期。二十年後の石版画は下の方にあります。
以上鶏卵紙写真「明治の東京写真」石黒敬章、角川学芸出版から引用
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明治五年開業当時の品川駅、前の写真より鮮明で、高輪の海上線路まで見渡すことができます。「よみがえる明治の東京」玉井哲雄、石黒敬章、角川書店から引用
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これは少し時代が下ります。

下、品川から江戸へ至る八ツ山の切通しの様子。ファー・イースト(復刻版)明治初期
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:八ツ山橋。八ツ山は高輪台の端、東海道を品川から江戸へ向かう左手に見える、かつては8つあったともいわれる丘で、大名屋敷が並ぶところでした。この一角を前記のように御殿山といい、早くから埋め立て等に使うための土取場として原型を留めないほどに削られました。汽車はさらに崖を切り崩して通されましたが、その海側の端に架けられたのが八ツ山橋です。芳年のものをはじめこの木橋から下、汽車見物する人々を描いた開化絵も数多くあります。のち単なる鉄橋となっていきますが、最初は開化景勝地でした。(二代広重)
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大埠頭がすでに作られその威容を見せつける写真ばかり(だいたい明治から昭和初期は名所旧跡より新築や新技術を見せつける写真集や絵葉書が多いので使えません、あと関東大震災で船で逃げる写真や、芝浦あたりの船溜まりで水上生活を送る人々の写真も多くあります)のなか、その途中と思われる絵葉書もありました。高輪の方と思われますが、砂浜がないところはこのような石積みになっていたのですね(江戸時代から東海道のこのあたりの波打ち際は石積みで有名でした、上の浮世絵でも道路下が石積みに見えます。別項で書いたように現在は間の運河も無く直接線路際となっており、一部は現地に埋納、一部は桂坂下に移されています。山手線の新駅が作られる予定です)。参考です。船は土砂運搬船?まっすぐの海岸線ではないので、鉄路が地上に上がる高輪の先の品川の小山かと。
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品川から
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幕末のほぼ同じ場所(東海道)書籍引用

参考にさせていただきました>光福寺の幽霊地蔵
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おまけ。斜め向かい松光寺のタタリ仏。触れると祟られるといいます。


芝浜について(江戸最後の浜辺)

※二本榎通り(ゆうれい地蔵が通った飴屋のあったと思われる商店街と寺町)

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聖坂(高輪台ないし三田台)の登りきった左手の亀塚公園周辺が月の岬として知られた海を見下ろす景勝地です。近年作られた台地下へのエレベーター(元和キリシタン遺跡上)が、俗称として月の岬エレベーターと呼ばれているようです。このあたりはflickr等に何度もあげてるので省略。近くの寺にわずかに残る石仏を見ると元禄時代のものがあり、ちょうど忠臣蔵(赤穂事件)の時代ですね。泉岳寺の上にあたります。
※三田台から海を見下ろし二十三夜待ちで賑わった台地から降りる通称「月の岬エレベーター」(ツインビル裏(元ホテル敷地))と元和キリシタン遺跡標柱等(現在練馬区に移転している智福寺境内にあたり、忌み地のような荒れ地だった丘の一角を境内として建ち供養したことから高輪の札ノ辻刑場そばのここが大量の切支丹を家光の代で殉教させた斜面と推定されている。標柱には智福寺の文字があるが昭和30年代のもので既に移転していたと思う。裏は昔は見晴らしの良かったであろう東急マンションで、長らくの大再開発の裏で廃屋になっているが、何らかの工事を始めている模様。そもそも札ノ辻は現在第一京浜から海側に大通りが別れる場所となっているが、もともと海側に車道陸橋などなく踏切だった。その高さと海側のビルに阻まれここ10年でもだいぶんに風情が失われている。)
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アルバム
20170215元和切支丹受難地、月の岬エレベーター、廃墟マンション(工事中)、中学校跡(高輪台の切支丹遺跡の斜面をのぞむ駐車場)

※ようはいわゆる赤穂浪士は四か所(六本木の元毛利下屋敷を除けば全て三田(泉岳寺)周辺)の大名に預けられ、一定期間各藩に処遇を任されたうえでそれぞれの庭で切腹したため散在ということで、こちらはその中心となる大石内蔵助らの史跡になります。浅野内匠頭の切腹は刃傷事件即日しかも武家らしからぬ庭先でのことで、江戸城も近い現在の新橋駅近くに旧田村上屋敷跡、すなわち切腹地の標柱があります(都史跡)。勝手にリンクしてすいませんがこちらにすべて場所が書かれています。>参考

二本榎消防署(2015/7撮影)
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※特記ないものについては私蔵、もしくは各種公的機関の資料を引用させていただいております。

アルバム:
20170122ゆうれい地蔵(高輪/元あった場所(本芝町源光寺)、とろけ地蔵)20170125江戸最後の浜、芝浜跡20170208高輪:聖坂~二本榎(寺町・商店街(菓子屋?)~ゆうれい地蔵)~桂坂(海岸跡)

by r_o_k | 2017-02-09 15:23 | 旅行 | Comments(0)

岡林リョウの日記☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi