2016/11/15【十三塚考】古墳群と十三仏とときどき即身成仏
2021年 03月 25日
古くは柳田國男の論考から戦後編まれた書籍(三省堂)、比較的新しくは神奈川大学により全国の十三塚と「考えられる」資料集成全二巻が平凡社より出版されているが、「小さな塚が十三個並んでいる」という「気持ち悪さ」が初心者として民俗学的興味をそそる。出土遺物がほとんど無いことから無駄に想像力を掻き立てる。見た目の奇異さと出土品の乏しさという点、吉見の百穴に代表される古墳~奈良期の横穴墓のようだ。
だがこれは室町期恐らく「瞬間的に」全国に流行した、十三佛信仰にもとづく一つの信仰の形跡で、何らかの宗派の僧侶が広めたものであると思われる。一種の呪法を籠めた土盛りを十三佛に見立てているということである(十三塚より瓦器が出た例があるそうだが、現在江戸東京博物館で開催されている昨年度考古学成果展にて、墨書した瓦器を合わせて埋めたという呪法のものを見ることが出来る、ああいうものであったのか)。堀一郎の十三塚考では様々な可能性が示唆されているが、十三塚の多くは異なる伝承を持つにも関わらず形式が一律に整っていることから、一律の方法を伝えた者がいて、なおかつその築造理由が忘れ去られるほど瞬間的な流行だったのではないか、と感じる。
念仏塚、行人塚、経塚と呼ばれるものが近くに別途設置されている例があり、どちらが先かはともかく、仏教系遺跡であることは確実と思われる。
他の中世以降の塚同様、壊滅させられたり移動させられたりして、現況上配置や配列がおかしくなっているものもあると思われる。十三塚と呼ばれるものの中にはもともと直線に並ばないものや十三を超える数のものもあるが、それらの一部は以上の概観に沿わない。名前に惑わされず別物と考えるべきかもしれない。千葉大医学部敷地内の七天王塚は北斗七星の配列に塚が並んでいるとされ(航空写真ではそこまでしっかりとした配列には見えない)、北辰信仰との結びつきから平将門の影武者伝承を付加されたが、近年中央部に前方後円墳跡と遺物が見つかり、古墳時代のものを造り直し再利用したのか、古墳信仰からの展開なのか、重層的な様相が予想される。
そもそも地方に多く分布する小規模な古墳群、群集墳を元としたものであったという説は実例を知らない。古墳時代のものは一種「規格化」されているため、特徴的な構造や遺物を残すもので、たいていは墓の痕跡らしきものがいずれの墳丘にも一切無いというのは考えにくい。但し整備されたものを見ると、外見上はかなり似る。小型の円墳が尾根上に配列されるというシチュエーションは確かに似た印象を与える。もっとも、古墳はこのように小さな支群であっても個々にあるていどの大きさがあるものだ。構造的にもしっかりしており、対してごく小さなものがほとんどの十三塚はただ土を集めて積んただけである。
多摩川台古墳群
十三塚は丘陵の馬の背上など、人気のない尾根の村境(山林等の共同管理地、しばしば忌み地)に並ぶことが多い。区界を示すものという説はそこからの後付けの性格だろう。もともと十王思想からきている、死と結びついた十三佛信仰自体の性格からも、そういう場所に置かれたのだろう。村の縁に墓地が置かれることにも似通ったものを感じる。
村境=道路という所もある。道沿いに十三塚が設けられる。行き倒れの半ば風葬地のようになっていた場所もあったろう、色々な原因からいつのまにか畏れられ民間信仰の対象とされ銭をそなえられたりという状況は、出土遺物の少なさとあいまって、さらに色々な想像を掻き立てられ、埋蔵金話や妖怪退治伝説など、はたまた地元とは何の関係もない平将門などといった怨霊伝説と結び付けられたり、、、さてさて文明開化ののち日本考古学の幕が開けて、華々しい成果が期待できないことから学術的研究の対象とされづらく、存在自体忌まれがちなことからも自然に壊滅させられていったのだった。
平安時代から中世の話として、自死した姫の後をおつきの女性たちが次々と追うという伝承のパターンがあるが、江戸名所図会など読んでいてもそういったパターンゆかりの名所が出てくる。今も残るものとして、東京都世田谷区、中世の鷺草伝説(実際は江戸時代のローカルな小説で知れ渡った)に基づく常盤塚がある。世田谷吉良殿の子を身籠った常盤姫を妬んで、結果死に追いやった十二人の側室の処刑された塚なるものを伴っていた。配置は比較的広範の中にバラバラであったという(但し近所の幹線(村境)沿いに別途きちんと配列されていた、いわゆる十三塚と、常磐伝承の塚が混ざっている可能性がある)。
こういったものに祟り話はつきものだ。転じて信仰の対象となってもいた。常盤塚は辛うじて現存するが他は壊滅している。常磐はほど近くの駒留八幡神社(若宮八幡=身籠っていた胎児を祀るようになった)境内に弁財天として祀られた。その脇に、まさに民間信仰の対象となっていた用水路の小橋「常盤橋」の石の欄干が残されている。橋のはたに江戸名所図会にも記された「もうひとつの常盤塚」があったが、不動明王像をいただいたこちらもまた子を祀ったものとされていた。
同じ境内に集められた祠の中に女塚社というものがあり、それ自体は新しく一切の伝承の痕跡はないが、その名からどちらかの塚のものであった可能性がある。
常盤塚近辺の塚から瓦器を合わせたものに女性の櫛のようなものが入ったものが出たと聞いた。女性の髪をそのような形で使うという点、伝説を裏付けるというよりは、伝説を生み出した元となるもので、典型的な呪法がなされた証拠のように感じる。
https://flic.kr/s/aHskBGYEd1
常盤塚はかなり変則的な配置図を残しているが、もっと明確に十三塚の様相を伝えるものとして、東京都下では神奈川県との境目に平尾十三塚というものが唯一現存している「とされている」。しかし、ここは江戸時代に既に伝承を失い、土地争いのさい区界として利用されたとの記録が唯一のものである。もっとも区界と決める以前にここは完全に尾根筋で、もともと区界となるべきシチュエーションにあり、江戸時代わざわざ測量を行って小さな塚の並びで決めるような場所ではないような気もする(ちなみに長信という鎌倉僧(室町末期頃?)が地下に潜り入滅した入定塚が僅かに折れて離れた同じ尾根筋に現存し、こちらは入場窟と思われる二メートル角の石組が出ている。こういう入場窟は中世から近代まで全国に多くあり、その末尾の僅かな修験者のご遺骸が現在信仰の対象のミイラとして認知されている)。多摩ニュータウンを端緒とする大規模宅地開発によって田畑から山林から丸坊主にされ改造されていく中、ここは一度すべて草木を取り払い空中撮影にて、まさに親塚を伴う立派な十三塚の姿が残されている。
だが区界どころか「県境」が十三塚の「正中線」に置かれた(これは厳密にはどうなのかわからないが資料上そうなっている)点が問題で、所有者の問題もあったのか、現在見ることのできる東京都側は、フェンスに覆われた完全にまったいらな斜面地の芝生である。資料によってはしっかり東京都側壊滅とある。上方にもう一つフェンスがあり、そのすぐ向こうが尾根となっており、残存しているとされる神奈川県側となるが、野放図な竹林となってしまっている。十三塚のような小規模な塚(子塚は高さ30センチとかそういう小規模なものが多い)だと、ここまで枯葉に覆われ、地表面も竹笹に覆われズタズタにされてしまうと、残っていたとしても親塚の痕跡と、現在道路で寸断されている崖面の僅かな変化くらいのものだろう。いずれ、ここは東京近郊の十三塚としては実に残念な結果になってしまっている。
https://www.flickr.com/photos/38136682@N02/albums/72157665981812204
平尾近辺についてはこちらが詳しい。>
http://www.inagi.info/hirao.html
先程東高野の長命寺を例示したが近所の石神井城趾対岸に「姫塚」という豊島氏敗走の悲劇の伝説を付加された塚が残る。殿塚は対になっているが近代の供養墓、しかしこの近辺にいくつもの塚がもともと存在し、姫塚は名前の似た僧侶の塚とされており、併せて十三あったとも伝えられることから十三塚の残欠とみる向きもあった。上に木を植えるのはしばしばあることで、塚の小ささもそれっぽい。三宝寺池に面する崖上、尾根筋と考えることもできる。(下が殿塚)
https://www.flickr.com/photos/38136682@N02/albums/72157666114314943
十三という数にこだわらず、もう少し中世の祭祀遺構としてしっかりとした墳丘群を実見したいなら、再び多摩の話になるが川崎は長尾の五所塚をあげておく。きわめて見晴らしの良い丘陵の尾根筋に、くっきりとした大きな墳丘が五つ並んでいる。整備が繰り返され、雰囲気のよい公園だが、かつては平将門と戦って死んだ御所方の塚とされ踏み入ると祟りがあると言われた。ここはあまりに居住に良い場所だからだろう、上古からの遺跡が見つかっており、奥には長尾神社が並び、長らく生活と信仰の場であったと思われる。ただ、遺跡が出る前は単なる忌み地としてやはり十三塚的な扱いをされていたらしい(塚からは何も出土していない)。
https://flic.kr/s/aHskvUeVCj
とうとつに終わる。