葛飾北斎の両墓制的な祀られ方(写真差替、法性寺泥絵、北斎生誕地妄想、兄妹墓写真、北斎研究書、遍照院他古写真、北斎忌、波の伊八、ほか追記)~浅草、本所、柳島妙見、妙法寺と波の伊八、南房にて波を見・・・

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葛飾北斎の謎の両墓制的な葬られ方。。浅草あたりに妙見信仰が分布していたとされ、その名に妙見信仰(北辰、北極星)が反映されていたこともあり、ゆえ縁で日蓮宗徒となったと思われる北斎(池上本門寺まで通っていたともいう)。。妙見は武家の信仰が篤い。。実父川村佛清はやはり武家だったのだろうが、元祖仏清などという名前を何故つけられたか。。まずは北斎の本姓川村家関連の墓石を菩提寺に見ていきます。

アルバムはこちら

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誓教寺(仏清墓)
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元祖佛清墓 由来不明、飯島虚心「葛飾北斎伝」等より北斎の実父(川村市良衛門)の墓石との説が強い。※ただし虚心のものは事情あって急ごしらえで仕立てられた私家版のような書物で、同時代の情報源として貴重なものの早くから批判がある。
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享和年間の銘文ある比較的大なる自然石(硬い青海石)で、様式的にも一般的なものとは思えず、称より宗教家、もしくは特定の職業の家(寺町特有の石屋、もしくは仏師など)のものの可能性が高いと思われる。北斎がいっとき使ったとされる名前に佛が入っていたため、また年齢的にも妥当であると「北斎の研究」にも記載されている(昭和19年の書物で関東大震災被災後であり墓石の銘など半分失われたあとである)。

川村家の菩提寺である誓教寺には北斎が参拝に訪れていた(北斎自身は日蓮宗に帰依していたので別寺(柳島妙見堂、法性寺内)に足繁く通ったが、誓教寺を浄土宗ではなく日蓮宗とする偽説は虚心による)という話が直接的に伝わっている。北斎は後年養子に行った中島家を出て川村に戻ったという孫娘の証言があるが、「北斎の研究」は誓教寺の過去帳より「川村北斎」の名で子を弔ったものを読み取っており、間違いないとする。ただその他直系は皆外へ出るなどしたため早々家は絶えた。
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関東大震災後の本に掲載された画狂老人卍墓(孫娘とその息子ないし孫(系図上北斎の孫格)による葛飾北斎墓、破損現存)だが恐らく向かって左側面の剥落する被災前の写真。誓教寺の縮小前と思われる。写真自体は他にもあるが驚いたのが向かって左に写っている小さな墓石。正面の3刻から、虚心「葛飾北斎伝」に依る実父「川村市良衛門」建立(右側面に刻銘)の、今は失われた墓石。左右は北斎の兄、真ん中の「春巌童女」は妹である。全銘は見えないが場所と頭文字だけからそう断定できる。あくまで虚心による話だが、お寺の過去帳ではどうなっているのだろう。 この墓石は現存しない。するとしているものは誤りである(確認済)。https://t.co/sYtOCU1Z1B
東京市編纂「東京府史蹟調査報告第七冊名家墓所」昭和五年三月掲載。従って昭和七年の墓地移転改葬前ですね。今は別の建物がある手前の通り近くまでが墓地で、写真からは思ったよりも今と変わらない庶民的なせせこましい佇まい。ちなみに江戸後期の境内も寺密集の影響か既にそのくらい縮まって見える。お寺の方の話からもこの北斎のきょうだいの墓石は現在は残っていない(無縁塔にも集められてません)。写真から川村の名が確認できないのが惜しまれる。別に川村姓の墓があるが別人とのこと。 https://t.co/iDWUZtIrum

次に北斎の信仰から浄土宗の菩提寺とともに熱心に参詣したという日蓮宗寺院へ。(アンビバレントな北斎の信仰)
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右上のT字型の川辻にあるのが柳島村。こちらが↓になります。その少し右下が亀戸天神ですが、そこから左へずーといくと綺麗に区画された場所があります。ここが後述の本所割下水近辺。北斎生誕地辺になりますね。墨田をわたれば両国浅草です。
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<柳島妙見堂(法性寺内)、押上の先、亀戸の手前の運河の交差点。江戸の鬼門守りに設置され桂昌院の信仰篤かったともいいますが、伝承的にはもっと遡ります。元浅草とは隅田川を挟んでかなり離れている。江戸の外れにあたり野中の一軒家のような寺であったとき、折しも師を失い低迷していたのちの北斎が願掛けに通ったすえ、落雷に遭遇して田圃に転落以後運が拓けた。よって妙見様を信仰しのち北斎と名を改めた、という話が伝わっている。おそらく古くからの堂は焼けており、僅かに写真の残る目立った寄棟造の高堂は関東大震災で焼失、北斎当時から現存するものは一切ない模様(一枚古い浮世絵があるが不明)。>

妙見堂の絵葉書は以下で見ることができます。

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柳島かいわい。明治43年8月の東京大洪水の光景、左後ろの屋根高い堂が形状より柳島妙見堂と思われる。灯籠などから正面が法性寺の入口だろう(江戸名所図会では妙見堂より左手に大きな本堂があるが現在境内は小さくなっている)。わたしは持ってませんが妙見堂だけの絵葉書もあり復刻販売されているようです。境内は狭めだが堂は立派。賑わっているさまも絵葉書になっています。この右方が料亭群と柳島橋で、かなり深い川とそれを抑え込む河谷際の立派な石垣が写った絵葉書や絵がのこっており、明治の頃には北斎の時代とちがいおおいに発展していた様子が伺えます。
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「明治の東京写真」より、明治初年とされる柳島妙見堂。名物の影向松(えこうまつと呼ばれたとのこと)も健在。屋根の形が古い。
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「尾張徳川家の幕末維新」より、同時期の写真。左前を向いた妙見堂が川向かいから垣間見えます。
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「東京そのむかし」より。下の銅版画と酷似しています。明治前期当時の絵は写真をもとに描いたとおぼしきものが見られ始め、これもあるいはそうかもしれません。
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妙見堂はすこし内陸に入った所にありますが、この図ではどの建物かわかりづらいですね。先の写真おなじく柳島橋を横から見ています。
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同時期である明治十年代以降井上安治描く、明治前期の柳島妙見と界隈の料亭。突き出た建物が有名な「橋本」です。柳島橋を正面にとらえたもの。ともに震災・戦争前まで大いに賑わったという。夕景カラーのものが有名だがこれは普通彩色。赤を落とした後刷りか。
ちなみに師匠清親の名所絵はこちら※。少し似てますかね(夕景カラーですし)。
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参考(江戸時代の錦絵)
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<配置を俯瞰するとこのような感じ。安藤広重:名所江戸百景「柳しま」(※国会図書館デジタルライブラリより、問題があれば削除いたします)、柳島妙見堂と料亭。絵の通り法性寺の目の前にかかる柳島橋(押上(スカイツリー)方面から流れる北十間川より垂直に横十間川が分流する箇所)は昔からありました。現在の寺院のビル・墓地の部分およびその背後の土地の一部が本来は法性寺・柳島妙見堂(赤塀の見切れたところ)境内だったようです。今の浅草通りが妙見堂と料亭の間の道になります(通りの幅がだいぶん違うのでそのぶんも料亭の敷地であったかと)。当時は北十間川側(少し押上寄り)に橋はかかっていません。ずっとのどかな農村風景の中の賑わいだったようです。もっともスカイツリーや大規模マンションができるまで、震災戦災はあったとはいえ雰囲気は亀戸まで高い建物の無い真空地帯の趣がありました。>
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小泥絵「柳島」。他の絵によく見える板塀の色が赤くないのは単なる塗漏れか、幕末期にはこうだったのか。ひときわ高い松が目を引く。これが影向松であることは間違いない。確かに星が落ちて宿りそうな高さである。そのむこうに三角形の屋根があるが、乱暴に描かれた妙見堂ということになる。横十間川を遡った法性寺対岸から(江戸名所図会で見られるところの法性寺の本堂横か裏あたりから)北十間川(右上に垣間見える)方面を望んだものと思われるが、この頃の切絵図でも横十間川はまっすぐで、このようにうねった所は見えない。江戸時代の地図の精度の問題だと思うものの、泥絵特有の誇張や嘘(見ないで書いているとおぼしきものもある)と思えなくもない。もしくは川が逆とも考えたが岸辺の料亭群が無い、石積みでの護岸がなされていないので違う。「スケール感を出すために敢えて左右に曲げて描いているのではないか」と示唆を受けたがおそらくそういうことなのだろう。このような泥絵特有の極端な「引き伸ばし」があるのでスケールはかなり減らして見るべきだが、しかしいずれ北斎没後すぐ頃の柳島妙見(どれだかわからないけど)近辺の雰囲気を伝えるものとして資料的価値はかんじる。二本差しの武士が多いのも目を惹く。武家の信仰が篤かった証拠だろう(武家屋敷を描いて国もとに帰る武士に売ったという泥絵特有の顧客の影響もあるかもしれない)。左右反転はしていない。
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:江戸名所図会ですが摺りが悪くよく見えませんね。。いつか差し替えます。真ん中で一番かすれてるのが妙見堂。本堂はこの図では左手、松の裏でしょうか。別の図だと本堂位置はもっと離れているように見えます。この辺の構成がよくわかる図もあったのですが、見つかったら載せます。

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料亭橋本(明治41年「東京名所図会」)

関東大震災あと、完全に情趣は失われました。
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<右が柳島橋>
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<道は広く、橋の右側(料亭部分)は雑居ビルなどになっています。>
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<柳島と柳橋を混同しがちですが、東京百美人による名所絵(明治25年)ではそれを逆手に取った格好。明治に下っても柳島の賑わいがしのばれる。北斎の絵ではないです。>

北斎は貧乏であり、孫代で現在の墓石に別けられるまで、父の墓に(併せて?)土葬されていたとされる。市良衛門が別の子のために建てた墓石が現在の北斎墓石の脇にあった(前掲写真)が、虚心はその墓の他に「技芸家か宗教家としての」吉良衛門こと「佛清」の墓石というもの~この石碑~を見出し、そこに最初に葬られたのだと推測した。寺僧もここに骨があると裏付け、また北斎から恩義ある者が、先ずここを拝んだという話を間接的に聞いたともいう。

北斎父は鏡師で、6歳(異論あり)で御用鏡師中島伊勢に養子にやったのもそのつながりという説もあるそうだが、百姓だったという説(北斎が養父中島姓を自称していた一方出自を自嘲的に語り号にもした話、生誕伝承地辺の古地図上に川村家が見え無いことからその説もあったようだが(別記の通り現在出身とされる亀沢から少し外れたところに川村の姓は見える)、寺の過去帳上は川村は名前をしっかり頂いた下級武士のように見え甚だ疑わしい)同様、根拠に乏しいように思われる。武士は下級であれ、風紀を乱し風刺を行う浮世絵師など下賤の職を持つことは禁じられ、実際ほかの武家兼絵師にバレて咎を受けた例がある。そもそも名のある家の居並ぶ南割下水沿い住まいで逆川向うの畑地まで耕作に行くというのは、生活の足しにあったとしても本職としては無理がある。後年百姓に憧れたことがあったとしてもおかしく、なぜ百姓説がネットで有力になったのか甚だ疑問である。少なくとも川村側に話が無いのは形上、生活のため家を出て職人になったからということだろう。謎の仏清という名前もまた百姓とは無縁だ。こちらも独特の父親だったのだろう。

なお、同寺は関東大震災により北斎のおさめた全ての画を焼失した(後に檀家よりおさめられ戦中は疎開して助かったものが現在残る)。これは柳島妙見堂も同じ。その後区画整理で移転を余儀なくされる寺が多い中、それを拒んだことなどから寺域を減らされ、北斎墓も移動した。もとは現在胸像のおかれている本堂向かって左向こう側あたりにあった。

そのとき掘り起こした木棺に副葬品は何もなく(瓶説も寺で聞いたが寝棺が妥当な感じもする、その木材を焚き木にしたともいう)、立派な体躯の骨を当時の法律に従い火葬しなおして現在地に小さく収めたというが、

昭和七年五月二十三日に北斎百七十年建碑式が行われたとき、当時の住職が震災後の改葬について「仏清の碑」の下より翁の遺骨を掘り出した、と証言した記録がある。この墓石がはっきりしたことがわからないにもかかわらず境内草そう内に辛うじて残されたのはこういった経緯があってのことかと思われる。

いわば両墓制のような形になっていたことになる(別の場所にあったとしたら)。

ただ、そうなるとそもそも明治初期「北斎墓」建立時には何も改葬されなかったことになり、不自然な点が残る。特殊な宗教上の理由でもあったのだろうか。幕末ごろ「までは」合葬されていた、という都の説明書きとも矛盾する。虚心は佛清墓に父親の遺骸自体無かったのではないかとしている。

川村家についてはこんな説も(仏清説にたち「川村清七(小説でしか確認できていない)」こと市良衛門の謎を想像している)。
klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/7360
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葛飾北斎墓(画狂老人卍)
南ソウ院奇誉北斎居士 ※はじめから信士ではなかったとのこと(過去帖では居士と明記されているという)信士とした葛飾北斎伝他の記述(墓石の失われた刻銘もそうだったのかもしれない)は過去帖(写し継ぎ)を確実なものとすれば誤り(「北斎の研究」でも断じられている)。下級とはいえ武家なので居士とするのが妥当だと思われる。但し女子は信女と名されていた。南「総」院という説はやはり虚心発信のようだが、後述の波の伊八に関連して多少の地域的親和性はあったにせよ、過去帳は異なる。窓の意味のソウである、これは北斎のサイと関係がある文字と「北斎の研究」にあるが私は不勉強なのでわからない。「誉」はまさしく浄土宗式の尊称のようなものであるそうだ。
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戒名は通名の北斎に南窓(ソウ=煙窓)、奇を付けた。
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(追記)北斎が房総を史実では一回は訪れており、いっとき師事したことのある絵師も活動していたことから実際は何度もやってきて、特に「関東に来たら波は彫るな」と寺社彫刻で名高かった「初代波の伊八」の作品からさまざまな波の形象の描き方、コンパスなどを使ったデザイン的な構図のとり方(これは伊八に限らないが)を学び、そして最近よく言われる伊八の最後の代表作「波に宝珠」から神奈川沖浪裏の見上げるような波の描き方の着想を得たという話がある。一見似ているが伊八はすでに超越的なものを描いていてそこは本質ではなく、本来は平面的な裏面にあたるところの左端の形がたまたま似てはいるが、パクリは言い過ぎだと思われる。
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師と初代伊八ともに、鋭すぎるほど険しい龍を得意とし、後述する妙法寺正面の三つ巴の龍(無銘だが晩年作)で依然衰えぬところをみせていて、いっぽう波は波で北斎自身のちに北斎漫画に自ら多様な形容を教授していることであり、独自考察が光る。むしろ比較的逡巡した、最晩年にも描いている龍の表現にインスピレーションを受けた可能性も想像する。これは私だけではないようだ。房総まで行かずとも房総手の彫刻を見る機会は、まだ災害戦争で焼けない江戸東京にはあったのかもしれない。もっとも、本当に何度も房総を訪れ気に入っていたのなら、死を前にして戒名を「南総院」にしてくれ(房総めぐり時の同行者の八犬伝にかけたのかもしれないが)と言ったという噂は、結局反対され却下されたといいながらも、ここで書いたように結局「南窓院」(窓は上記のような意味で実際は総に似た漢字)となっている。戒名を自分でつけていたという私には初耳のことを南房で聞いた。ただ根拠は薄いのでここまでにしておく。根拠のないことなら、英一蝶の晩年号の北窓に対抗して残された弟子たちと住職さんがつけた、とも言えてしまう。

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葛飾北斎終焉の地、浅草寺子院の遍照院(最後の一年を境内の小長屋で過ごした。葛飾で一生を終えたいという願いはかなわなかった。故郷の本所の遍照院とはちがいます)。こちらには一切の伝承は残されておらず、当時の長屋の位置も、寺の広さもよくわからない(後記の江戸時代の広さはともあれ、明治時代震災前の地図をgoo古地図で確認できる。南側は余り変わっていないが北側(墓地)は現在はマンションになっている山谷堀支流岸まであったようである。投げ込み寺で知られた道哲庵(西方寺、移転(二代高尾太夫の項参照))の墓地と接していた)。住所は変わらないため、ちょうど現在の本堂が昔の本堂裏であることから、まさにここと推測されている。いわゆる「狸長屋」について東京名所図会に記載があるがはたして同じ棟かどうかわからない。赤い門は南側、卍のマークがあったそうである(下の写真)。卍翁に相応しい。山谷堀や聖天町に近く、誓教寺とは浅草寺を挟んで真逆にあり、お栄の先導する早桶の葬列も辿り着くのに小一時間はかかっただろう。
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明治中期の遍照院(「東京名所図会」復刻より)門は変わらないが境内はかなり削られていた。
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卍翁転居前後の頃の山谷堀近辺。「西宝寺」は「西方寺」の誤記。字が潰れてるのが遍照院。のちに名の残る狸長屋があった頃だろう。卍翁がそこに入っていたかは不明。
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卍翁往生直後頃の切絵図。紅葉塚が風雅で投込寺としても名を馳せた西方寺が何と砂利置き場などで墓地部分をなくしてしまう。隣の遍照院は周囲を宅地や他の寺に削られているが、現在の広さに近いかもしれない。
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馬道(同)、最晩年の北斎が歌で励まされたなかの懸詞に出てくる(虚心)。
、、、
北斎は本所南割下水近くに生まれたという(北割下水とは別)。南割下水は埋められたが現在は北斎通りと改称された。以前は公園前の菓子屋に生誕地札が掲げられていたが、今は公園に立派な標識がある。(ところで割下水生まれとはよく読むが、「南」ソースがわからない。見落としたかなあ)
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※井上安治 東京真画名所図解「本所割下水」(明治10年代):すみだ北斎美術館では南割下水風情を伝える絵として紹介されているが、北か南かはっきりしない。一般には南割下水のことを割下水と呼んだとある。明治前期には既にかなりの大通りになっていた様が伺える。
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「尾張徳川家の幕末維新」より、おなじく「割下水」とだけある写真。明治初期。これはかなり広い。商家が並ぶ。
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※明治41年の割下水(東京名所図会復刻版)こちらは狭く見えますが、南北場所によって道の広さが違った可能性あり。後ろに書いてますが割下水左右ではなく裏道ふくめ一帯を「割下水近辺の町」とまとめて呼んでいたようで、明治時代の洪水の写真絵葉書も誤解させるようなものがあります。
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「尾張徳川家の幕末維新」より明治初期の本所かいわいの雰囲気。本所に三箇所、尾張徳川家の屋敷があった。大通りを中心としているため商家ばかりだが、百年前の北斎生誕の頃を想像するのには良い絵だ。
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「明治の記憶」学習院大学より 明治四十三年八月東京大洪水の絵葉書写真(最後のものは下のTwitterにも掲載してます)本所亀沢町、すなわち割下水周辺。最後の二枚が割下水附近とされる同じ裏通り。割下水そのものではないが、水は割下水から溢れたものか。

(後注)これはあくまで空想として読んでください。
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うーん。明和9年大絵図(寛政4年出版のものは同じもの)。北斎12歳ごろと推定される(養子に出された後)。このくらい調べられてるとはおもうのだが。本所割下水は「ワリ下水」とある真ん中右の縦の通り。本所御蔵地が今の江戸東京博物館。もちろん地形も変わってるが右下に両国橋がある。で、ピンクのとこに「川村」があるのね。北斎の本当の姓と同じ。町として割下水と言えなくもないが微妙。ここが北斎生誕地? https://t.co/7iqLmgaZ1M

「小役人」とある長屋を疑ってたのだが、いちおう北斎の本姓川村の名があったのでメモ。明和元年に養子に出したあと、まだ親きょうだいも健在だろうし、妥当な時期の地図だと思う。この頃の一番くわしい地図。またWikipediaの記述が変わってるね。百姓(という言葉を使うのもいかがなものか)出身確定としているが根拠は何。また新説か。
https://t.co/pw6OtBKyZo

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参考までに現在、公園(北斎美術館が建った)前の菓子屋が北斎誕生地の札を提げていたが、青いところに中ジマという少し大きい名字が見られる。これは古い絵図にも出てくるので、養子先の鏡師中島伊勢とは無縁であろう※。「仏清」こと北斎の実父はのち享和元年死去。 https://t.co/HCSz9g6JEn
※次に記すがこの頃の絵図に中島伊勢宅と推定される場所には名前も何も記されていない。私はこの期間の地図に全く見つけられなかった。近辺には町人とだけある。幕末近くなると抱屋敷らしきものが目立つ。早い時期にはまだ榛馬場が見える。

中島伊勢(既に戦前に菩提寺ごと消え去ったため墓所も不明。この名は御用達鏡職人の代々名で苗字帯刀まで許されていた)、吉良上野介屋敷跡の一部を拝受し今は屋敷記念地前の稲荷になってるところに居住したという話は有名だ(下記)。川村は絵図に名が載る程度には下級武士だが、中島は載らない。あくまで庶民だからか。北斎は母方の血筋を誇り赤穂浪士云々はさきほどの写真参照。 https://t.co/3Bb5jTBXt8
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宝暦13年の北斎三歳のときの大絵図、本所拡大図(前記の川村姓周辺)。仔細省略はあるもののかなり家が変わっている。もちろん同じ家もあるが、とにかく江戸は変化多い割に地図の作られる時期も決められてるし思った様なのが出ないよ。 https://t.co/YWa3mNZiAN

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文化三年の大絵図にも川村氏はいますねえ。享和元年に仏清は亡くなっているので、そのあとのこと。まだ北斎は中島に家督を戻し川村に還っていないと思う。どういうことなんだろう。誰か継いだ?まあ、たぶん別人なんだろうけど(卓袱台)。なぞ。 https://t.co/MNZtL976FF

天保四、八年の大絵図にはまったく同じ位置に川村、中島がある。北斎最晩年の弘化三年、北斎死後の嘉永文久年間の本所切絵図には共に存在しない。そのころには上の蔵の位置や大きさも大きく異なっている。大絵図は古いものの写しの場合もある。 https://t.co/cd6HHtPNOg
天保よりあとの地図では確認できない。弘化年間に作り直された地図で確認できるものはなかった。この間に川村屋敷は無くなったと思われる。 https://t.co/z2cgBa940j

なら生まれる前はとなると江戸中期以前となり地図の精度がかくだんに落ちる。川原というそれなりの大屋敷がみとめられるが、北斎生誕時には小屋敷に分割処分されていなくなったようだ。 https://t.co/jmERwAJvR1

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安永4年、北斎15歳の時の「本所深川細見図」に答えがありました。ピンクのところ

川村左内

とあります。。別人。。ちゃんちゃん。

のち宝暦八年「本所深川細見図」でも左内を確認(割下水の中島は中山になっている)。寛政十年前「本所中絵図」には川村も中島もなく並びも変わっており、すみだ北斎美術館の前記カタログ注釈によれば裏表紙に屋敷変更の付箋も貼られ頻繁な屋替えのさまが伺える。上記の絵図もけして出版年と元絵の年は同じとは限らない。これは明治大正においても同じ傾向が残る(軍隊の力が強まると軍関係はすべて塗りつぶされ、忖度して地図自体作らなくなった)。

※南葛飾郡に川村姓の市川関所(小岩)の番がいたことがある。江戸前期に小仏から移されてきたといい、後期にどうなっていたかわからないが元はこの役人だった可能性がある。

※父の墓とされる名の佛清は中国など絵師に普通に使われる。仏画師説を裏付けるところだが、川村の看板を下ろして流派を名乗ったとして、なぜ北斎は名を挙げた父のところに鏡師から戻らなかったか、仮にも元祖を名乗り稀に見る墓石を建てられたくらいなら名のある絵の一つも残るはずで、これは仏像も一緒であり、私は商家に身を翻してどこかで石屋をやっていたからこんな銘石墓も作れたのだと思う。川村清七などは極めてありふれた名前で、創作に都合よかったから持ってこられた名前だろう。市良右衛門がお寺の過去帳以外で確認できたら素晴らしいのだが。。
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:飯島虚心もと所蔵の榛馬場跡居宅図の相貌(国会図書館蔵)によく似た北斎八十三歳自画像とされるもの。同時期に別名で描かれている(オランダのライデン国立民族学博物館所蔵、「北斎展」2007カタログより)
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※参考、国会図書館デジタルライブラリより。再現ジオラマがすみだ北斎美術館にあります。「浮世絵十五大家集 高見沢版第1冊哥麿・写楽・北斎」s15では写実ではなく露木為一が追憶で書いたとある。ほかに戯画的な簡略自画像、そう記されたわけではなく顔貌的に疑問があるが荒れ髪の鬼気迫るもの、最近よく取りざたされる比較的若い僧形のものがいくつかが自画像とされる。性格的にも自虐諧謔をふくむ自画像はあまり本来の姿を写したものとは言えないだろう。長杖を持つ老立像は事実通り大柄なさまが伺える。自画といわれるが応為のものの可能性があり信頼が置ける。その浮世絵風の長い顔は北斎伝等に載る(実見なき)顔貌のみの像と同じ。交流あったといわれる渓斎英泉による胸像をはじめ伝えられる顔もこのようなものと言われてきて、従来型とよべる。すみだ北斎美術館で確認できる。伊藤晴雨のように孫弟子になると写実は信頼できない。

///閑話休題

北斎は両国は本所南割下水(道路の真ん中に下水が流れている)沿いの生まれ、現在の北斎通り沿いと思われるが(現菓子屋辺、2016年秋、向かいに建ったすみだ北斎美術館の手前公園に標識が立った)かつては北斎通りの入口右角(江戸東京博物館裏正面)に碑が立っていた。先向かいは最新の横綱之碑のある野見宿禰神社。北斎の本姓は生前藤原とされていたものの、生まれが川村なのは菩提寺過去帳(書き写し)、卍翁墓刻銘や晩年行動の通り。程なく近所の吉良邸跡の一部を拝領した代々鏡師中島伊勢の養子となったため、中島と書く本もある。北斎はそもそも実母が凶刃に斃れた吉良家臣の孫娘だと喧伝していた。現在は小社になっている。その真向かいが吉良邸跡史跡公園。
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伊八については真骨頂を見に行きました。房州に北斎が足をのばした可能性が高いこと、師匠としていたことのある絵師が伊八の手がけた堂宇の天井画(険しい龍の墨絵)を残したりなどしており、またそういった関係から結果的に北斎と同じ師匠を持つ絵師もこのあたりで活躍ということもあること、そして、北斎より20年以上遡る初代波の伊八は、すでに各地に場合や時期により波を様々に作り、一つではないこと、幾何学的な構図から有機的な動きまで、北斎はおそらく前者は会得したが(器具を使い計算的に作る寺社彫刻からの影響は私が言うまでもあるまい)後者は線の太く硬くなる版画には向かなかった。そういうことを気にすることなく平面的な欄間に立体の有機的な波を裏まで描きこむ、その最たる「波に宝珠」を見ることができました。

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波を描くために馬で大波の中に駆け込み裏を観察したという、初代伊八がその末に「超現実的な波」に至ったことがわかりますね。伊八は彫刻、しかも職人なので北斎の挑んだ本物の絵師といういわばゲージツと違うイメージがありますが、これはゲージツです(北斎は肉筆こそ絵であり版画は仕事、のようなことを言ったという話を読みましたね、実際晩年は肉筆ばかり)。ちなみに裏側(平面ですがいちおう両面が波の表に刻まれています)左端が神奈川沖浪裏の構図と言われています。私は技法に刺激されるのに、あの裏側は使わないだろうとは思いますが。。伊八はここではここまでにしておきます。


※関東大震災前の本所割下水通り(1910年洪水の絵ハガキに弱彩色を施したもの)、既に水路は無かった???
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いつでも行ける距離にあるのでろくに写真すら撮ってないけど、北斎さんも参詣したということで日蓮入滅の地、池上本門寺の写真も載せておきます。左手経蔵は焼け残ったもの。本堂は新しいものの、五重塔などは江戸時代のまま。庶民的な妙法寺とはかなり違う雰囲気で、いずれの建物も質素な古様を模し、装飾彫刻も見られずけれんみの無いものです(国重文の五重塔は内陣は金ピカ、最近も改修されました)。
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先の妙法寺(明治前期の名勝一覧より)今もほぼこのまま。
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(2017年の北斎忌)


変化→遍

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つづきます。

by r_o_k | 2017-08-25 23:10 | 旅行 | Comments(0)

揺りかごから酒場まで☆少額微動隊

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。

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