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岡林リョウの日記☆旅行、歴史・絵画など。

2016/8/19【小塚原】圓通寺(三ノ輪)と彰義隊士の墓、小塚原の由来外伝【黒門】

2016年 08月 19日
円通寺
荒川区南千住1-59-11

下谷の三寺のひとつで百観音堂で有名だったが倒壊。むしろ彰義隊の墓で知られる。上野戦争後、当寺の住職らが手をつけることの禁じられた彰義隊士の遺骸を敢えて集め荼毘に付し、官軍と揉めた末に公式に許しを得ることが出来ここに葬ったもの(都旧跡)。ちなみに上野の方の墓は火葬場(一部埋葬?)跡で、元彰義隊士の一族の守ってきた墓である(区有形)。

火葬に力を貸した寛永寺御用商人三河屋幸三郎が向島別宅に密かに建てていた「死節之墓」もここに移築されている(右横の「彰義隊之墓」五輪塔とともに区史跡)。

明治中期には旧賊軍の唯一法要可能な寺院として信仰を集め、弾痕だらけの旧寛永寺黒門が移築され、それに護られるように多くの供養墓や石碑が建てられ、威容を放つ一角をなしている。供養された戦死者は266名という。一部大石碑の銘文を見ればわかる通り、榎本武揚と関係深い(居宅も近かった)。彰義隊士と共に葬られることを望んだ旧幕臣の墓もある。

回向院(南千住)と同じ形の「よしのぶ地蔵」もある(ここが遺体発見現場)。

※関連記事あり
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榎本武揚の筆跡の扁額、大砲のミニチュア
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数々の石造物や家光由来の松の木が寄せられた首塚
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威容を誇るマンション仏像

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墓域内

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黒門の弾痕(門は最近まで金属の飾りが付けられていたが生木に戻されている)
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上野戦争後、明治初期の上野(黒門)明治40年まで寛永寺の外門位置を示していた。上野公園設立後も数々の絵に描かれる。
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(こちらは原位置からいったん移されたあと)
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現在
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…焦土の寛永寺本堂


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遠く坂上田村麻呂開祖の伝承があり、源義家が奥州に向かう途中ここで吉兆を得、戦後に凱旋し討ち取った四十八の首を埋めたという四十八塚(首塚)が現存する。半面を柵越しに見ることができる(地蔵群裏の丸石群が首塚とのこと、中央上段やや右の傾いた赤石に「賊首供養」及び源義家の陰刻があるが後世のものだろう)。もとこのあたりは辺20キロ以上の広大な荒れ地であり、観音堂由来で観音原と呼ばれていたが、これより一帯を小塚原とも呼ぶようになった※。塚廻りにはもともと境内に散在していたであろう数々の丸石や石碑石仏が積まれ、永仁年間の青石板碑が四基、区文化財に指定されている。頂部に享保七年銘の石造七重塔があり由来が記されるが、立ち入り禁止(原文読み下しが公式サイトに掲載されている)。その裏に徳川家光縁の「鷹見の松」が生えている。少し樹勢が悪い。新編武蔵風土記稿によると江戸中期開山となっている。

柵内は声をかければ入れてもらえるとのこと(彰義隊士墓だけかも?)。

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小芝長之助墓
旧幕時代は御庭番を勤め忍者だったと伝える話まである。無血開城に憤激し放火奔走して榎本武揚に合流、箱館戦争まで参加し近しかった土方歳三の死を伝えられると五稜郭より走り人知れぬよう城内密かに葬ったといわれる(一説に江戸に持ち帰った)。赦免後消息は一時不明となるが、榎本武揚と関係深いここに居付き彰義隊墓(榎本武揚筆の石碑があまたある)の墓守となった。最晩年土方郷を訪れ歳三の位牌を前に突如泣き崩れた話が土方歳三記念館のサイトに書いてある。そのときの写真も載っている。
参考:

hogyoku「歳三さんの慰霊に訪れた小柴長之助」 https://ameblo.jp/hogyoku/entry-10022814060.html

hogyoku「円通寺へ」 https://ameblo.jp/hogyoku/entry-12202365284.html


戊辰戦争で旧幕軍を経済的に支えた三河屋幸三郎向島別宅に密かに祀られていたのが冒頭「死節之墓」、びっしりと戊辰戦争の戦死者名が書かれている(遺骨(全員ではなく一部、上野にもある)は五輪塔にある)。他のもの同様に新政府に許しを得て、ここに移された。
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裏面。没年、場所毎に彫られてある。「箱館戦没」として、右下に土方歳三の名前がある。これを土方歳三の墓として記載している資料があるがここに骨はない。各地にあるが骨は見つかっていない。
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※土方歳三供養墓(古い写真、土方郷の本家)
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五稜郭(どこかに土方歳三が眠るとされる)
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左面。逆光で見づらいが右上三番目に近藤勇とある。興味のある人は訪れて自分の気になる名前があるか見てみると良い。
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※近藤勇墓(胴は処刑埋葬7日後、刀傷より本人と確認し郷へ運び龍源寺に改葬されたというのが正史。埋葬されていた板橋刑場跡に永倉新八が連名供養塔を立てた)永倉新八も同地へ眠る。明治時代の文献によれば最初は横の無縁名義の自然石(現存)だったのではないかという。処刑後、容易に発掘できないよう官兵によって置かれた可能性があり、じっさい昭和初期に石下から首なし遺体が発掘され、銃創など近藤勇とみられるとして改めてここに葬り整えた。首は京都の四条河原で晒、のち愛知へ流転あるいは京都で不明)
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三幸翁顕彰碑、右に墓(裏面には幸三郎の名はなく女性1名のみ)
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さらに右に娘の婿入した草刈家の墓、十字の家紋が面白い
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天野八郎、彰義隊の実質頭取(副頭取)墓。剛勇の逸話は右石碑にもあるが数々つたわる。著作もある。上野敗走捕縛すえ獄死あと近所の小塚原に打ち捨てられたところを供養する。三代目尾上菊五郎施主(蓮華香立の台に刻名)。
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〜小塚原刑場跡地(明治初期)
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上野の彰義隊士の墓
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明治十年の時点でこれだけの塔が立てられていた(中央左)河鍋暁斎
(少し前)
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彰義隊の墓(上野・荼毘に付した場所、生き残りの一族により近年までこのように管理されていたが現在都公園化)Office Lens 20160921-230201
彰義隊の墓(上野・荼毘に付した場所、生き残りの一族により近年までこのように管理されていたが現在都公園化)Office Lens 20160921-230135
(現在:公有地化)
P9210135

上野戦争遺跡 彰義隊の墓 DSC_0521


※小塚原(小塚ッ原)の名の由来については以下の説もある。こちらの方が有力とされる。

東京都荒川区南千住5~6丁目一帯の古名。江戸時代,現在の回向院付近に浅草刑場があり,幕末まで20万人が刑死したと伝える。飛鳥(あすか)明神(現素盞雄(すさのお)神社)がある。
(中略)
東京都荒川区南東部、南千住(みなみせんじゅ)にあった地名。この地の鎮守の飛鳥(あすか)明神社境内に瑞光(ずいこう)を発した石を埋めた塚があり、これを小塚といい、それが地名の由来で、小岩原、古塚原とも記した。(引用終わり)

kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%A1%9A%E5%8E%9F-65219

江戸名所図会に飛鳥明神社(飛鳥社小塚原天王社)が掲載され、現在の素盞雄神社(飛鳥明神も祀られている)とされる。瑞光石の塚の逸話が書かれ、小塚原の起源とある。これは現存し富士塚に転用された。千住大橋手前のこの社の箇所より通称コツ通りが南東に別れ僅か600メートルで小塚原刑場に至る(道の拡幅等はあったものの)。コツを骨とするのは後年の俗説として、「牛頭(ごず)が原」だったのではないかという説もある。「牛頭天王社」からきていると。江戸名所図会ではイコール素盞雄神社とされる。ただ、牛頭天王社については円通寺の由来石塔にも「牛頭稲荷」を造って鎮護と為す、との記述がある(江戸名所図会に円通寺や首塚が載っていないのは不思議だ)。ネットでは日枝神社という説も見られたが、歯痛社本社のこととすれば実地を見る限りとても広大な野原の名の起源とは言い難い小社であり、時代も新しい。
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素盞雄神社富士塚(瑞光石)
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日枝神社(本殿):周囲が完全に再開発入ってしまった、元参道と思われる先に小社があり歯痛社という(昔記事に書きましたね)
スサノオ神社などのアルバムはこちら

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小塚原刑場近辺:延命寺(回向院と常磐線で分断)首切地蔵より元の位置方面をのぞむ(写真のJR貨物線・日比谷線鉄路下にあったが、各々工事時にも大量の骨が掘り出されている) ※別項参照

なぜか一部彩色写真しか撮れなかったので載せておきます。

by r_o_k | 2021-03-27 15:35 | 旅行 | Comments(0)

by ryookabayashi