荒川区南千住1-59-11





アルバムはこちら





柵内は声をかければ入れてもらえるとのこと(彰義隊士墓だけかも?)。

hogyoku「歳三さんの慰霊に訪れた小柴長之助」 https://ameblo.jp/hogyoku/entry-10022814060.html
hogyoku「円通寺へ」 https://ameblo.jp/hogyoku/entry-12202365284.html













※小塚原(小塚ッ原)の名の由来については以下の説もある。こちらの方が有力とされる。
東京都荒川区南千住5~6丁目一帯の古名。江戸時代,現在の回向院付近に浅草刑場があり,幕末まで20万人が刑死したと伝える。飛鳥(あすか)明神(現素盞雄(すさのお)神社)がある。
(中略)
東京都荒川区南東部、南千住(みなみせんじゅ)にあった地名。この地の鎮守の飛鳥(あすか)明神社境内に瑞光(ずいこう)を発した石を埋めた塚があり、これを小塚といい、それが地名の由来で、小岩原、古塚原とも記した。(引用終わり)
kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%A1%9A%E5%8E%9F-65219
江戸名所図会に飛鳥明神社(飛鳥社小塚原天王社)が掲載され、現在の素盞雄神社(飛鳥明神も祀られている)とされる。瑞光石の塚の逸話が書かれ、小塚原の起源とある。これは現存し富士塚に転用された。千住大橋手前のこの社の箇所より通称コツ通りが南東に別れ僅か600メートルで小塚原刑場に至る(道の拡幅等はあったものの)。コツを骨とするのは後年の俗説として、「牛頭(ごず)が原」だったのではないかという説もある。「牛頭天王社」からきていると。江戸名所図会ではイコール素盞雄神社とされる。ただ、牛頭天王社については円通寺の由来石塔にも「牛頭稲荷」を造って鎮護と為す、との記述がある(江戸名所図会に円通寺や首塚が載っていないのは不思議だ)。ネットでは日枝神社という説も見られたが、歯痛社本社のこととすれば実地を見る限りとても広大な野原の名の起源とは言い難い小社であり、時代も新しい。



スサノオ神社などのアルバムはこちら

小塚原刑場近辺:延命寺(回向院と常磐線で分断)首切地蔵より元の位置方面をのぞむ(写真のJR貨物線・日比谷線鉄路下にあったが、各々工事時にも大量の骨が掘り出されている) ※別項参照