【今昔東西迷信紀行】江戸三大流行神を収集しよう【安井金比羅宮、茗荷稲荷、将門塚、首塚、日本橋翁稲荷、お竹墓、赤紙仁王】

はやり神の記事がいくつかありますが、こちらは

長年のうちに長くなってしまいました。
まず目次を置いておきます。
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●江戸三大流行神を収集しよう (追記)将門塚、首塚、日本橋翁稲荷、お竹墓、赤紙仁王など●目次●
谷中東覚寺赤紙仁王
境港・札付け(例)正福寺、地蔵の里
目黒大円寺金箔祈願
茗荷大権現
品川海蔵寺頭痛塚
大手町平将門首塚・京都神田神宮
参考:眉間尺
参考:曝首図
藤沢白旗神社
高尾稲荷
於竹如来
南蔵院しばられ地蔵
小日向林泉寺しばり地蔵
品川願行寺しばられ地蔵
新宿太宗寺付け紐閻魔
三田幽霊坂おしろい地蔵
向島弘福寺関の爺婆像
浅草寺旧仁王
浅草・太郎稲荷
1.お竹如来
参考:蛇塚
2.新宿老婆王(正受院奪衣婆像:子育老婆尊)
参考:綿のおばば
3.翁稲荷
参考:三国拳図
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:境港の「札付け」、西日本に比較的多く見られる新仏供養習慣の一つ。やり方に幅があるが、だいたい十三回忌まで各地石仏等に巡礼のように札を付けていき、赤紙を最後に貼ることで供養は終る(四十九日等早回りすることもある)。この方法が転じて、江戸谷中の赤紙仁王のように、身体の悪いところと同じ箇所へ願掛けの札(ここでは赤紙)を貼るようになったのだろうか。赤は江戸時代には最も有力な魔除け(疱瘡避け)の色とされ、仁王像のように赤いものに子供を触れさせ願掛けをしたり、鍾馗様や達磨などさまざまな絵柄を朱で描いたり刷って売った。
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どの寺にもあるお賓頭盧さまへの病平癒の願掛けと似たものでもある。病魔退散に仁王へ紙つぶてをつけるのは更に発展形かもしれない。ほか近年には釈迦坐像に金箔を貼るなど願掛けの形態が多岐にわたっている。
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願掛けそのものが、流行神と同じ民間信仰(ローカルルール)からくるもので、先の写真のように地蔵を札だらけにされることを嫌がるところもあるようだ。
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大分:現在のこのようなものは寺の企画によるものが多い。
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京都:安井金比羅宮(新しいものでまさに流行神だろう。札に自由に縁切り縁結びごとを書き、向こうへくぐり折返してくぐりノリで貼り付ける)

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茗荷大権現(稲荷)現、吉祥寺境内
〜茗荷のよく生える湿気があって谷筋が多い土地柄か、茗荷絶ちすることで願をかけることが大流行し、「茗荷山大神」と江戸後期さかんになったらしい。
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:品川海蔵寺の頭痛塚(首塚)。現在はさまざまな品川宿・投込寺・鈴ヶ森刑場関連の供養塔がまとめられているが、近在の牢死者(牢には仕置場がある)を供養した塔が元になっており、それが頭痛にきくとなって信仰の対象となった。斬首=首から上の願掛け、は典型的な江戸の民間信仰のパターンで、死者を拝むのは打ち上がった水死者(人でない場合もある)に対して行われたのが有名。街道筋で行き倒れを祀るところもある。
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:おのずと知れた平将門。諸説あるが現在の茨城で眉間(こめかみとも)に矢を受け落馬し死ぬものの首を撥ねられると前の石に飛んで齧りつき、京都に送られて現在は内陸の膏薬辻子あたり、四条河原の晒し場に置かれたものの、夜な夜なもう一旗挙げんと怪しい光を発しついに関東へ向けて飛んで、力尽きて落ちたのが柴崎村、現在は東京大手町のいわゆる「将門の首塚」であるという。
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神田明神の祭神として江戸っ子に厚く信仰されたから流行り神とは違うかもしれないが、「首」への信仰例としてはわかりやすい。当然のことながら明治維新をもって逆賊とされ一旦神田明神(神田神社と改称)から外された。ほか全国で侍や一揆首謀者諸兄?の首塚もそれぞれ信仰されており、頭痛に効くとされることが多い。詳しくは将門に関する別項へ。
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京都、膏薬辻子の神田神宮(現在は少し違う形をしている)読本よりコラージュ
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幕末の戯画。将門の娘のいわゆる滝夜叉姫が芝居で妖術を操る役としておおいに流行ったことも将門が東武士の鑑として親しまれていた証拠だろう。
参考


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(参考)滝夜叉姫が妖術をもって骸骨を呼び出す、いわゆる「相馬の古内裏」国芳
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鶴屋南北/国芳「東山桜荘子」(佐倉宗吾の読本)より、飛ぶ将門の首
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ちなみに首が恨みをもって仇に届くという話では中国の眉間尺がある(北斎)。春秋戦国時代、眉間尺という丈夫が、楚王に騙された刀工の父の仇を取ろうとして逆に追い詰められる。父の友人と会い、名刀をもって自ら首をはね、刀を与えるから仇に持参するよう頼む。しかし首を失った体は怒りで立ったまま。友人が安心しろというと崩れた。楚王へ首を届けた友人は丈夫であるからと釜茹でにすることを進言する。しかし三日三晩煮たところで崩れることなく楚王の方を睨み続ける。友人が直接目を見れば溶け落ちるでしょうと言うと楚王は釜を覗き込む。背を押すと落ち、復讐は果たされたのである。

冒頭の曝首図も北斎の挿絵だが、江戸時代式の晒し方となっている。中世の曝首の図を伊藤晴雨が模写しているので参考に。
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:首実検後捨てられた源義経の首が川に流れ着いたことから生まれた白旗神社、首と奥州の身体を継ぐ意味の祭礼を行った記念碑もある。首が神社に祀られた例。これは将門をまつる神田明神とは別の東京の古社、筑土神社が戦前首桶などを証拠として祀っていたのと同じ構図だ。(神奈川県藤沢)

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:高尾稲荷。高尾太夫が隅田川の船上で吊るし斬りになり捨てられたという噂のあと、この近くに漂着した頭蓋骨を拾って高尾太夫として祀った。今もこの中に頭蓋骨が納められている。高尾太夫の吊るし斬りは事実ではないとされている。ここも首から上の病(精神的なものも含む)に効くとして信仰を集めた。
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高尾についても別項にまとめてある。
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:芝増上寺内心光院のお竹如来堂(現在は別の形で祀られている模様)後述するように清貧を地で行くお竹という下女のことを桂昌院が聞きつけ、模範として奉ったのが爆発的信仰に結びついたと思われる。この下女は流し台の穴に網をかけ、そこに溜まった屑を食べていたといい、下女は大日如来の生まれ変わりとの出羽の行者の話から大日如来そのもので昇天したという話になり、信仰物として流し台を切った板や網の破片を求めて人々が群がった。桂昌院はまな板(恐らく流し台の板切れ)のため箱をしつらえ増上寺におさめた、それが心光院に伝わるものである。ということは下に書いているが、同じ心光院に蛇を祀った祠がある。
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これは少し離れた崖地にある「蛇塚」と呼応している。心光院の上に龍が舞う霊夢を見た女性が熱心に信仰し実業家として大成功したという話が、最近のスピリチュアルブームの中で取り上げられ(その中には明治神宮の清正井も含まれる)、さながら現代の流行神となった。金運をもたらすというのもいかにも流行神の現世利益である。今はほとんど人気がなく、そういうところも流行神だ。
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:有名な南蔵院のしばられ地蔵。子育て地蔵の立像で押上にあった頃は狗張子が奉納された。願かけて荒縄で縛って叶ったらほどく。ここは大岡越前守が裁きの手段として考案したように言われているが、地蔵を脅すようなやり方は珍しくなく、浅草の業平橋たもとにあったが水元に移転した。日本橋や京橋といった橋の欄干(江戸に珍しい擬宝珠がある)を願掛け紙を付けた縄で縛って願掛けするが、橋に限らず現代であれば腕にミサンガを結んで切れると叶うといった信仰は多く見られる。
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大正初期の写真にこのようなものが見られるが、現在の像は明治中期から江戸時代の絵に出てくる姿と似ており、この写真は元祖なのか無関係なのかはわからない。以下参考

小日向林泉寺のしばり地蔵は江戸砂子等に出てくる。五円玉を細い縄に結んで縛る。前者とは違う願のかけ方。地蔵の大きさも小さい。
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なお2020年時点では祠と新造地蔵が役割を肩代わりしている(右白布のかけられたものが修復中の本像)
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:願行寺のしばられ地蔵。江戸にしばられ地蔵が流行したようで、ここは品川である。ここも願掛けのため縛って脅す、叶えば切る(現在は逆の場合もある模様)というパターンだが、首を持ち帰り叶ったら2つ返すという、民間信仰のパターンも加わった。
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:新宿太宗寺の付け紐閻魔。現在のものは度重なる災害で大修復したもので、顔部分はそのままというが、顔つきが変わったという話も聞いた。境内で遊ばせていた子供がいなくなり、乳母がふと見ると口元から付け紐がぶら下がっていた、人食い閻魔の噂がたち、力のある閻魔として有名になった。写し絵がよく売れたそうだが見たことがない。太宗寺では縁切り願掛けなど宿場女郎をはじめとする民間信仰が盛んだった模様。下記の新宿老婆王も近所で、内藤新宿は十王信仰が盛んだったのだろうか。この脇のリアルな奪衣婆は戦前近作とのこと。
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:三田幽霊坂の玉鳳寺おしろい地蔵。化粧地蔵は花街近くに珍しくない美顔祈願の地蔵だが、これは住職が八丁堀の地蔵橋から泥だらけの地蔵を持ってきたもので、洗っておしろいをつけてあげると痣が消えたことから美顔祈願の地蔵となったという。地蔵橋は都内2ヶ所、いずれも怪しい場所として知られたが、八丁堀の場合は「地蔵もないのに地蔵橋」といい、その地蔵を持ってきてしまったのかどうか。。但し現在の像は大正時代のものである。かつて筑土神社にあった痣地蔵も同じご利益で、流行神として江戸神仏願掛重宝記に数えられている。
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地蔵橋のあったあたり。

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:向島弘福寺の関の爺婆像。起源からして異説あるが典型的な江戸の流行神で、婆像を咳と読み替え平癒に拝んだ。

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:浅草寺の旧仁王(阿形)。当世流行神を列挙した願懸重宝記(江戸神仏)にも掲載されている。朱の色は疱瘡避けになるとして鍾馗図など描かれたが、こちらは疱瘡にならないよう子供に股をくぐらせ、口で丸めた紙玉(力紙)を投げつけて祈願することが非常に流行り(別項)酷く汚れたために、江戸時代から既に中に入らせないよう柵を設けたりされていた。
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本編
幕末近くに江戸で爆発的に人気を集めた神様たちがいる。情勢不安や天候不順など様々な問題を背景に、庶民に現世利益をもたらすもの。それを流行神といいます。古くから、もちろん現代も同じような神仏は増え続けていますが、江戸時代は比較にならない数の細かい「神」が一時的に現世利益をもたらしたとされます。

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:有名な浅草田甫の太郎稲荷(現存、明治衰退期に大島神社にも分祀された)。勧請元の国許でも流行神のような稲荷であり、江戸時代も明治以降も極端な盛衰を繰り返した。

浅草海禅寺の後の方に、立花侯下屋敷に稲荷の宮あり、この屋敷拝領以来勧請されていた。宮の床下に狐穴あり、その外にも狐穴あって4,5匹も住んでいて、白昼でも屋敷中を走り回るため、享和三年亥、いかなる理由があってか、諸人参詣群集し近辺酒食の店おびただしく出来、にぎやかであったが、半年も過ぎてしまえば参詣人まれで元の田舎のよう。俄かに盛る者は久しからず、ということわり。(「塵塚談」小川顕道、文化11年、「燕石十種」)

ここのように武家屋敷の屋敷神(稲荷)が開放され流行神として人を集めた例も多かった。主家の国元の神社を勧請しているだけだったりするが、開放して庶民が爆発的に増えたとき、参拝証で収益を得ることもあった。ここは立花家の子が麻しん平癒したという噂から広まったという。浅草には狐狸の小社があまたあり流行神のような特殊なものも多い。
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人々は神様を突然「発見」し、長蛇の列で拝み倒しては門前の屋台が潤う。流行ものは収まるのも早いが、別のところでまた「発見」されては人々が殺到する。武家屋敷の中の祠にまで押しかけたそうです。神様は変な石から由緒正しい仏像、果ては流れ着いた土座衛門(水死人神様)まで、様々。

(以下引用)流行神とは、嘉永元年の暮れから突然流行しはじめた、内藤新宿の正受院の奪衣婆参詣、嘉永2年4月から開帳された両国回向院の於竹大日如来、そして日本橋の翁稲荷信仰を指す。(引用オワリ)

ここでは江戸末に勢力をほこった三大流行神をまとめてみます。
国芳
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まず典型的な流行神として「人間が大日如来になった」お竹如来があげられます。
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降ってわいたように光臨する神様。(実際は苦を苦ともせず自分は残飯を食い食事を乞食などに分け与えた宿屋の料理奉公のお婆さん(だったと思われる)、すでに慈悲深く信心深いことが奉公先の佐久間家をはじめ知れ渡ったうえで、たまたま投宿した羽黒山の修験者が夢のお告げで「認定」されたよう。年も年なので「昇天」したところに像を作り、それがのちに出羽に引き渡されたのです(厳しかった時代は、江戸府内にわけのわからぬ神像を作って置くのは憚られたのだ)。庶民出身の桂昌院がいたくお気に入りで有名になった側面もあり同じ像が造られ俎や残飯網の破片入れをしつらえ増上寺に残した、それが心光院に伝わり今は秘蔵されているようです。上の落書きの説明は典型にすぎず、最初の浮世絵では「お竹さん出身はどこだい?」「ふふふ…」紫雲に載って昇天、という童話がつけられてますね)

時代は江戸初期ですが、お岩さんもそうですけど、信仰はたいてい死後に「作られていく」ものです。流行神としては「再発見された」に近いのかもしれません。
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お竹さんが使っていた「お竹井戸」の跡。手前のビルの小津和紙さんは宿屋佐久間家ゆかりで当時から存在した由緒あるお店、戦争でも焼けずお竹如来のお陰と言って展示コーナーがあるそうです。

お竹さんのお墓(後世)。
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赤羽にある善徳寺です。
室町時代から江戸前期まだ移転を繰り返し、明暦3年馬喰町から浅草新寺町(松が谷1-13)に移転して、最後に関東大震災で結果的に赤羽のはずれに移転)

お竹さんは奉公先の佐久間家のものとして葬られたようですが、断絶してしまい、親戚というか本家筋の名家、馬込家に統合され、こちらはその馬込家の菩提寺で、この如意輪観音もお竹さんの名をきざんだ江戸後期の石柱を伴ってはいますが、新しく馬込の家紋が入り、月日以外の線刻が摩耗してなく、同規模の如意輪観音石仏がもう一つ脇にあったりなど、併合された側の個人墓とするには伝説の域を出ていない気がします。ただ、馬込は馬込家としてお墓を建てているようです。命日には法要があるので聞いてもいいかも。
(標識引用)
善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があります。
御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が5街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にあたる名主家とともに、名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見が許されていました。
馬込家は、遠江国敷地郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由と称していました。馬込という家名は元和元年(1615)5月、大坂落城の後、浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。
最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和2年(1927)4月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。
(おわり)
5/19命日法要
(井戸跡の近い大安楽寺にも木像があり法要(1w程度前後するが羽黒山からも来る))

一説に回向院で開帳されたというものは恐らく写しである増上寺(心光院)のものか羽黒山正善院※黄金堂のものか・・・恐らく前者だと思われます。(最初江戸にこういうものを置いてはいけないということで羽黒山へ移された経緯がある)。

※正善院に残るお竹さんの遺物。下が残飯を拾う網。
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地図

昔書きましたね=>大江戸怪異重箱つつき2
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/edokaii20050604-2.html
うしろのほうに「お竹井戸跡」について書いてあります。
こちら中央区観光協会のページにも。
こちらは諸情報大変くわしい。中央区郷土史同好会さんです。
http://homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/101kai.html

お竹は実在しました。大日如来になって天にのぼりっぱなしだったわけではなく、降りてきてw地上のお勤めを地味に果たします。まな板とか像とか茶釜とか、関連遺物もあり、桂昌院の耳に入っていたく感銘を受けられたということで葵の紋の収蔵箱もしつらえられており、芝増上寺下の心光院には近年お堂(大日堂)も建てられています。
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下に置かれた黒い箱が俎板の入っている箱。
地図
ちなみに大日堂を寄進するにあたり蛇の不思議な縁があり、今はすこし工事をしているようですが、芝公園の鬱蒼とした木々の中に蛇塚というものも作られています。そう、号泣島田氏が有名にした「パワースポット」です。上記郷土史同好会さんのサイトも参照ください。勝手にリンクしますがこちらも。
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なお、心光院さんとは東京タワーの真反対にありますが、心光院さんの上空に竜が舞っている夢を見たということから心光院さんにも蛇のお廟があります。

現在は卵のお供えは禁止。


二人目。こちらも古いものがリヴァイバルしたもののようですが。

新宿は正受院の奪衣婆。(太宗寺の有名な奪衣婆は昭和初期?のものでこれとは違います)
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地図
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wikiリンク
(引用)綿のおばば
正受院の奪衣婆像は、咳止めや子どもの虫封じに霊験ありとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があった。幕末には、奪衣婆像に関して「正受院に押し入った泥棒を霊力で捕らえた」「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」といった噂が広まり、嘉永元年(1848年)の年末から翌年にかけては参詣客が正受院へ押し寄せる騒ぎとなった。歌川国芳などにより、綿をかぶった姿の奪衣婆を描いた錦絵が多数発行され、現存している。あまりに盛況であったため、寺社奉行により制限を受け、正月と7月16日以外の参詣が禁じられた。 (引用オワリ)
(引用)奪衣婆像 - 新宿区指定有形民俗文化財
小野篁製作との伝承を持つ奪衣婆像。「綿のおばば」と呼ばれ、頭から頭巾のように白い綿をかぶった姿で祭られている。現在では「子育て老婆尊」とも称される。(引用オワリ)
なかなか風情のある像だった気がします。
地獄と縁深い小野篁作といういわれはともかく、「新宿老婆王」という名で呼ばれ、悪い願いを祈った者の目玉を引っこ抜いたとかまことしやかな話が戯れ絵とともに流布していたといいます。
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藤岡屋日記の嘉永2年の条に、閏4月13日老婆王大流行に付、不正の義これあり、寺社奉行より御手入に成る、住職初め所化一同召し捕らえられ、参詣は差し止めとなる、とあります。
「新宿は手がはいれども両国の
かたいお竹は指もはいらず」
という落首もあるそうです。お竹如来には手が入らないのに正受院住職を捕縛したことへの皮肉です(両国とは御竹蔵をかけた)。もともと正受院の前は水辺にあり、正受院が土蔵を改造して閻魔王と並べたもので、正月と7月16日以外の参詣は禁じられていたところが、平日みだりに人々の参詣を許し、あまつさえ小野篁手をうたい三途川老婆王と不軽王号の幟を立て、なんでもかんでも叶うと噂で次々と奉納される豪華な服をつけ座布団を重ねて奪衣婆らしからぬ姿となり、そのじつご利益は噂でしかなかったと書く本もあります。綿を大量におさめ暑い時期にもうもうと線香の煙がたち火事と見まごうほど、夥しい豪華なお膳が並べられ酷い世俗的なものだったと。流行神熱狂の凄さが伺えます。
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国芳
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芳虎

こちらが大変くわしいです。リンク
http://kkubota.cool.ne.jp/datueba.htm
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綿のお婆は23区内は世田谷区や池袋で見ました。割と多いようですね。
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芳藤


三人目。翁稲荷。
「宝暦年間日本橋青物町の道を直していたら古い銅翁の稲を負った像が出た。町民、鎮守にせんと番屋に置くと悪者を取り調べる場所は不浄というものいて元四日市町の火除地に小祠を設け翁稲荷とした。近所にも知る者少なく初午の日のみ開扉し普段は子供の遊び場となっていた。ある日境内の清掃を人に頼んだところ祠のそばに小便をしたので仲間が清め詫びよと注意するもがんとして聞かない。むしろ神を罵った。鳶のろ組の人足午右衛門といった。そのうち通二丁目に火事があり男も火消しに従ったが建物の牛梁が焼け男の上に落ちた。やっと助け出すも虫の息で、しばらくして大声で「おのれ午右衛門よくもわが場を汚すのみならず、却て我をののしることの憎さよ、世の見せしめにおのれを罰するなり、あらここちよや」と叫ぶとぐるぐる回って倒れる。それを繰り返すうちに死んでしまい、ろ組の仲間は御託として社地を清め大水盥★を納めた。神の祟りの凄まじさに見聞きする者霊験あらたかなことと参詣に押し寄せた。献灯供物絵馬数多く置く場所もない。そこで社地を拡げ石鳥居石玉垣を巡らせた立派な構えとなった。雨中参詣のため玉砂利も敷かれた。毎月午の日は立錐の余地もなかった。しかし年月がたって今は少しさびれている。」(「わすれのこり上」四壁庵茂蔦、続燕石十種)
★現在ボロボロの水盤があるがこれだろうか?ただ、水盥とあるので下(市谷八幡例)でいう白いタライの部分のことを言っている。
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他力本願なのでまたもやリンクで逃げてしまう。茅場町の日枝神社境内に移されて合祀されているのが江戸三大流行神唯一の動物。しょうじきこの神様については余り詳しいことはわからない。もともと日本橋四日市町の稲荷だったということで四日市翁稲荷と呼ばれていた(震災後日枝神社内に合祀された北野神社(江戸二十五天の一つだったらしい)の隣の翁稲荷・桂馬稲荷が、こちら近所の祇園稲荷とあわせて震災戦災再開発で流転し、最終的に改めてこの境内に再建された明徳稲荷と合祀されたのが現在の形である、複雑。ちなみに全て焼けているので合祀はされていても当時の遺物は銅像含め一切ありません、とのこと)。
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〜江戸後期の神仏双六より
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〜明治34年「東京名所図会」日本橋区より南茅場町永田馬場日枝神社御旅所。向かって右脇に文政年間の富士塚(浅間神社、現存せず)鳥居先の提灯の下がる右が天満宮(北野神社)、左が翁稲荷とある。本文には桂馬稲荷社との合祀とだけ記述(当時はすでに四日市という町名はなく日本橋魚河岸対岸の元四日市町のみある)。江戸名所図会にもほぼこのような配置図が見られる。

稲荷百番付」(幕末近く)では西前頭となっていて、小祠ながら二十年来参詣者、賽銭も絶えず霊験あらたかとされていた(番付は社の大小より霊験あらたかなことが広く知られぶっちゃけ儲けてるかどうかで決められていたフシがある、たとえば高岩寺の小僧稲荷も規模は小さいが祟るので非常に有名だったようで上位につけている)。

こちらにちょっと詳しい記事リンク
(引用)
宝暦(1751‐64)のころ,道路補修工事があり,地面を掘ると,銅製の稲荷の神像が出てきた。町内の者が番屋に安置しておいたところ,番屋は不浄だからというので火除地に小祠が設けられて,翁稲荷としてそこにまつられた。
(引用オワリ)
まあほぼ前記の内容ですね。

先の東京名所図会の描写はさておき、最終的に日枝神社の境内に安置されたのもそれほど昔ではないという話もあるが(もともと50年代に界隈の証券会社を中心に川岸に整備されたが、土地の関係でうつったあとは町会が守るようになっていると聞いた。ナビタイムなどこんな昔の情報を登録してるのでほんと注意、日枝神社で調べましょう)、祇園稲荷と合体して明徳稲荷神社として祀られており、往年の勢いは感じられない。翁稲荷というのは老人の姿をした稲荷の類型のひとつ。駿府には安倍晴明をまつった翁稲荷社がある。
暗くてすいません。。
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撮り直し。
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地図
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てなわけで最後に
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ふたたび国芳。3人で宴会です。

三国拳の流行に倣ったのがこちら。
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※リンクから表示するとレイアウトが崩れるためやむを得ずDLしたものを表示しています。
元画像はこちら

(引用)じいさんとばあさんと娘の三人で三国拳を打っている。
解説ここには、嘉永2年(1849)正月、市村座「新規一拳酉魁声(しんきいっけんとりのはつこえ)」で演じられ、大流行した「三国拳」を興じる、当時の流行神、翁稲荷と奪衣婆とお竹大日如来が描かれている。流行神とは、嘉永元年の暮れから突然流行しはじめた、内藤新宿の正受院の奪衣婆参詣、嘉永2年4月から開帳された両国回向院の於竹大日如来、そして日本橋の翁稲荷信仰を指す。じいさんは釈迦(天竺)、ばあさんは天照大神(日本)、娘は孔子(唐土)の形を取っている。詞書ではこの三人が、狐拳や御利生拳について面白おかしく話している。またこの図と詞書(三国拳の替え歌)が異なるほかは、絵も落款も改印も板元印もすべてが同一の図が確認されている(本データーベース10022)(N.B-21.05.2010)。
所蔵ウイーン応用美術館、新宿歴史博物館、ライデン国立民族学博物館 Nr.1353-976(引用オワリ)
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芳虎「流行御利生けん」
〜おまへ翁でおぢいさん はやしがお好でどこどんどん、狐をなでなでおがみます、其又おつれはおばアさん
丸くかぶつた綿ぼうし、御ひざう女のおたけさん当時はやりのお三人、なんでも願が叶ひ升、有がたいたい泰平の、御代も栄へるおめでたや、まわつて三げんおがみましよ、

流行神絵というのは戯れ絵なんですね。風刺としては「金儲けの算段をする流行神たち」といったモチーフのものがあげられます。他にも三体の神様等を配置した同一構図の浮世絵は多くみられます。奪衣婆と翁だけのものもあり、流行神人気にあやかった土産物でもあったのでしょう。いずれも「狭くて寂しい神〜お竹にいたっては周りが勝手に言っただけで本人は普通の婆さんとして一生を終えたという、実物お岩さんのように清貧でよく働く善人だから終いには桂昌院の耳に入りお墨付きをもらったということでしょう、残飯を食べるための下水網、使用した鍋、まな板が残るのも如来様だからというより庶民に奨励すべき勤勉の鏡ということだったのではないか。心光院がお竹堂をいったん除けたというのも、流行神的側面を忌避したのかもしれません。これは蛇塚の片割れともいえる蛇の祠にも言うべきことかもしれませんが、ともに戦後に個人によって信仰が再興したようなのです(蛇塚と関係あり))」だったものが急に持ち上げられる点が共通しています。

こちらはとても有名ですね。狐と馬が大人気。



いずれ、まあ、


宗教は商売ですから。

怪物図録全集


しかしこのての記事は人気無いなあ(;^^

by r_o_k | 2021-04-10 15:36 | 不思議 | Comments(0)

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