そこにあるはずのないセンチメント
2009年 06月 30日
でもわからなかった。最近のツタヤのコーナー乱立による無秩序配列のせいもあるが、くらくらとしてきて、ラウンジのコーナーで無難なCDを借りた。そもそも契約更新のために無理やり借りたようなものである。
結局何によって引き起こされた感傷だったのだろう。
何か思い出したように思うのだけれどもきっと何も思い出していなくて、物凄く懐かしいのだけれども大抵は何ら思い出など無いのであり、いったいにこの感傷という気分は何を根拠としてふつふつと沸き起こり頭を覆い尽くすのか、思い起こせば幼時の頃より既にそういう子だったのだから仕方あるまい。何かの記憶を持っていたのだと思うし、その追憶にむせぶ姿を奇異がられることなど日常茶飯事だった。およそ玩具など買ってもらえなかったし、とにかく紙と鉛筆が欲しい、紙と鉛筆さえあれば他に何もいらない、そういう子だった。
ちょうど高度経済成長の過渡期だったから目の前で草原や木々や池沼や川が消え、コンクリのマンションや画一化された建売住宅や相続で返納され更地化された狭い三角公園や小洒落た煉瓦のペイブメント(暗渠になった川である)、有名だったお化け屋敷は今も土地の因縁だけは残っているようだが見た目は跡形も無い。工場の薄汚れた独身寮に挟まれたお化け坂は舗装され、寮を威圧していた向かい側のお屋敷は最近駐車場になった。区指定の保護樹木は簡単に伐採されていた。
だが感傷はそういった具体的に起こったことに対するよりも、反射した内面に対して間接的に起こるものらしい。何か瞬間的には残念には思うものの、変化は必然と受け流す見識が既に育っている。何故ってその変化が自分もまた生かす、飯の種になっている・・・廻りまわってそういうことだから、どこかで醒めて、まるで半分仕事につなげて見ているようだ。感傷はその変化していく流れの全てに対してはあるけれど。
大人は重い思い出が増えすぎていつか自殺するんじゃないか、と青臭いころは思っていた。違う。大人は思い出を選別できるようになる。軽重は相対的なものだ。生き永らえていくうちに若造の時代よりもどんどん「重い」思い出が増えていく(それは実際の出来事の客観的評価とは必ずしもシンクロしないが。具体的に酷い目に逢っていても本人が重いとみなしていない場合もある。あくまで相対的なもので、自分の中で軽いものは消し去っていくのだ)。
人間を動物と隔絶させている能力の一つに健忘力があるとはよく言われる。大人になってみると子供の馴れ合いと大人の付き合いの差がよくわかる。この差が見えていない人間に近寄ってきて友達面して連帯保証人に、そういったことが若い頃にはあったりもする、しかし大人には通用しない。血縁でもない限り無くなっていくものだ。
男女の別れ方で、女性は前の男をすっぱり忘れる、男は前の女性を引きずると言われる。これは動物の時代の名残・・・小脳や脳幹の機能的なものとも言われるが、恐らくジェンダーを語るうえでの想定年齢層というのはわりと若く設定されていて、その段階では女性のほうが精神的に早熟であるものだから、「健忘力」についても大人のそれを早々と身に着けているわけで、時間差が単純に表れたに過ぎないと思うのだが、これはまあ、多分に思い込みも含まれている。
・・・
でも人間は機械じゃあない。
・・・
たぶんきっとふとした瞬間何かのきっかけで、消去されたはずの「感傷」が「ゴミ箱」から復活し、自動再生されるのだ。さながら過去より現れたゴーストのように横切る。ツタヤの棚と棚の間を、「スクリーム」のマスクを被って、マントを翻しながら。
今日あらわれた感傷の影は何だったのだろう?
ghost in the machine・・・
・・・ただ私の脳という機械にはどうも、「違うもの」も入っているようだ。
経験などしていないこと。
中古のパソコンのように
前の情報が消去されきっていない。
ゴミ箱に何か残っている。。。
幼少の頃、ある絵を見て異常な感傷をおぼえ、動けなくなったことがある。
涙が止まらず、それはあきらかに「再会」の感動であり、
興味でも好きでもない感情、
「守らないとならない」
今日の感傷はこれに近かった。
何か弱いものを守るということに対する異常な衝動を覚えることが非常に稀にある。性格的にそういう人間ではないのだが、スイッチがあるようだ。
前世というものを私は全く信じない。
しかし、記憶がどこかを漂い、別人に入り込む仕組みはあるのかもしれない。
もう一つ、奇妙な感覚を持つことがある。
「未来への感傷」である。
これについては詳述しないでおこう。
土台おかしな話なのだから。