大分中津・求菩提山\パワースポットをちょっと信じて終了
2009年 04月 21日



昨晩帰りました。最後まで5分刻みの強行軍。中津を早回りしたあと求菩提山へ。後者、ルートが半分車道になったうえ道も変わり、路線バスでは三時間でまわるのはとても無理、一日中がかり。青森思い出す忘れられた修業の山だが、火山らしく地形のダイナミズムも違い、生々しい。整備されていても脇道は荒廃し迷った揚句あまたある史跡を皆回ることはできなかった。鬼の鎧という石段は異様に狭く急峻。頂上に辰の口という熱気口があるのも異様。烏天狗の山らしい荒さと、何箇所か背筋から冷たい力感が遡る箇所があり荒天も乗り越えられた。ああ、これが修業山であり、何か力の源のある山であるゆえんなのね。英彦山はまたいつか行く。


鬼の手形がついているという、構の石門(かつては世俗との境界だったが今は素通しの車道になってる)登山口の近くにある坊址石垣。標識が無いのでどの石かわからないが・・・手形石って手形がちゃんとついてたためしがない。四本の指の食い込んだ痕ぽいのはある。

更に下って県道からの登山口上にある「お秋の墓」。お秋の死霊が霧を呼ぶとされたけどここは小学校の跡地だそうで、今の雰囲気は小学校が無くなった後にできたんだろう。更に中興開山もうかくまぼくぜんの社もあったらしいけどそれはなくなってた。というかこのへん登山道がすぐに舗装道路に併合されるので・・・

噺は頂上の上宮に戻って、辰の口より一旦山頂の岩塊群を尻目に道なりに下り極小ピークをひとつ越えると立石があって、護摩行跡の小園地・分岐に出ます。ここから五窟めぐりというのが始まりますが、いずれもこんな岸壁に自然もしくは人工的に穴など設けて修行地としたもので、岩窟社になっているものは埋納遺物を信じれば末法思想の平安時代まで遡れる。こんな岸壁が続き、雨くらい降っていたほうが情緒はあります。スナップデジカメは露光不足で難しいけど。。


五窟を巡り終わると右手に登山道入口より奥の資料館(バス終点)に降りる道があり、私は一周して戻ったんですが結構遠いし上るので、荷物が無くて迷わなければそっちに降りてバス乗ったほうがいいです。
ついでに朝廻った中津。寺町区画はなかなかいいかんじですが、いかんせん町が狭い。。
赤壁。レッドクリフ。血しぶきがいつまでたっても拭えないのでいっそ壁を全部赤く塗った伝統が今も続いているお寺。

ここの閻魔さんは全国の他聞に漏れず京都や鎌倉の閻魔さんの像様に似た鎌倉仕様の顔つきですが、脱衣婆がいい。どこに行っても閻魔さんは一緒だけど、脱衣婆(しょうずかの婆)はバリエーションに富んでいて、たいてい実物の婆を見て造ったとしか思えない生々しさがあるんですよね。伝承から恐らく誘拐された女性を模した、若い婆でしょね。

有名な河童の墓と河童の池。池は枯れてますし小さい。というかこのへんは中津開城当時は殆ど汽水域の川辺の湿地だったと思いますので、今の埋め立て状態からは水源もなくなり、仕方ないんでしょう。差別系の話と妖怪は切っても切り離せませんが、身分的に差別されていた場合にくわえ仕事的に差別もしくは異分子視されていた場合もあると思います・・・河童と同一視されることもある「かむろ」なんて花街近くで報告されたりしますが、だいたい芸者衆の予備軍として身の回りの世話などした(不幸かもしれない)女子をかむろと言ったので多分そいつらが人目をしのび水浴びに抜けてきたとことかをわざと妖異としてお目こぼししたのかもね・・・人にあらずと書く身分外身分の人々は例えば人の住まない川辺などに住み水周りのことをやっていて、今もそういう職業は差別意識を持たれることもあるけど、独自の身分組織がその中にあり、入れ子構造で、後期は商人が侍階級を金で買うようにまでなった江戸時代の身分制度では下手な庶民より金持ちで強かったし、帯刀もして名前も持っていたらしいっす。
それでも手塚治虫が「ブッダ」1巻で「リスペクトした」講談のような事件も時に起きて、揺り戻しはあったんだけど、そこの絶妙さが江戸時代を何とか300年もたせた秘訣だった。とにかくここに葬られている三名にはちゃんと名前があり、位牌もあり、河童というのは江戸人お得意の「屁理屈」な言い方だったんかもね。いったん音読みすると熟語って別の意味を感じさせることがあります。今回もどっかで、ああそういうことか、と思ったんだけど、忘れた。妖怪の名前が実はこういう裏の意味、ってかんじだったんだけど・・・ケンヒキ太郎21才職業河童の詫び証文が別のところの寺宝として見れますが、草書体で巧くは無く速筆ではあるけど、不自然さのない、普通の証文です。誰かは何が書いてあるのかわからんと言ってたけど。


日本三大水城「だった」中津城。海は近いけど、海からではなく川から水を引き入れている。


