もう十年も会っていない友に逢った。銀座の時計台の下、彼は片手を挙げ、
やあ と言った。何か気の利いた言葉を返そうとして戸惑う。その隙に友は、 久しぶり、元気か と言った。私は風邪をひいている。どう答えたら良いものか迷う。その隙に友は、 俺は遠くに行っちまおうと思うのだ、 と言った。その前にここのアンパンを食っておきたかったのだ、と笑った。 ぽっちゃり膨れた頬、眼鏡も厚くなったものだ。私は少し言葉を発したけれど、 灰色の背に撥ね返り、アスファルトにはぢけた。 アンパンを頬張る友の喉元がぷくり、と膨れる様を見て、 変わらないな、と思う。 何も信じられず何も好かなかった青春の日々に、共に鍋を囲んだ友だった。 幾晩も酒を傾け、朝まで取り留めの無い議論を繰り返した。 でも今何を語ったら良いのだろう。 食って満足したものか、友だった男は再び背を向ける。 じゃ、元気で 手も挙げず声も出さないでいた。友はもう振り返らない。雑踏は闇と光に包ま れ、無表情に戻って行く。 私はラーメンでも食っていこうかと考えている。懐かしさはその後で込み上げ てくるのだろう。 もう二度と会う事も無いだろう。 (1999・11) ![]() ・・・湖上の騎士と言われて誰が気づくんだか、三日くらい昼休みをかけて書いたものだ。10年以上昔に書いたマウスらくがきが大量に出てきた。あのころ才能があると思ったと今頃言われても、色も柄もスッカリ気配が枯渇しているのだなあ今の私は。ブログはあくまで文章主体のものなので徐々に出していきます。ジョジョ・・・ まだ奴等はつけてくる。
傷が痛む。苦しい。熱も出てきたようだ。 左肩の下を撃たれた。臓はそれたが、出血が酷い。雪の上にぽたぽたと滴って、足跡を確かにしていく。これでは追手をまくことなどできやしない。 真夜中にこんな雪の中を、何の因果で逃げなきゃならないんだ。俺はこの国に、ちょっとした仕事をしにやってきただけなんだ。頭文字3文字の組織ってだけで、雇われ人てことじゃそこらのサラリーマンと変わらないんだ。仕事が法律に触れるってだけじゃないか。 どうやら誰かミスってくれたらしいな。俺じゃないぜ、俺はそんなヘマはやらかしゃしない。くそ、順調だったのに。 結局俺は最新鋭軍事ヘリの図面と心中しかけてるってわけだ。 クリスマスだってのに。 それにしては静かだ。 「いたぞ!」 見つかった!走れ、クリス!痛っ…糞ったれめ! 「撃つか?」 「待て、ここじゃまずい。市民に銃声を聞かれちまう。公園へ追い込もう。」 そうか、ここは住宅街だ。小さな家が軒を寄せ合っている。どの家も雨戸を閉じて聖夜を安らかに過ごしてる。市民の眠りに水を差しちゃ、”犬”としては都合悪いって訳か。 しめたぞ。 あの家、まだ起きてるらしい。明かりが漏れ、かすかに音楽が聞こえる。 「おい、奴は何をする気だ!」 俺は扉に駆け寄る。 「開けてください!」 ドン、ドンドン! 「止めろ、騒ぎが広がってはまずい!」 「たすけてくれ!!」 扉が開いた。そこから顔を出したのは、黄色いとんがり帽子をかぶった15、6のガキだった。 「かくまってくれ!悪い奴に追われ・・・」 「いかん!その男は」 いかついイヌの言葉は途中で妨げられた。俺は開いた扉のすきまから素早く体を滑り込ませ、思いきり閉じて、奴らと決別した。 「やあこんチハ、サンタさんー」 「ヒャッホー」 「メリークリスマス!」 奥からうるさそうな若者が5、6人出てきた。徹夜のパーティにお邪魔しちまったらしい。雪を被った俺のブロンドに、赤や黄色の紙テープが降りかかる。俺は後ろ手に鍵を閉めると、酔った未成年の浮かれ声の中に、表のやつらの怒号が消え去るのを待った。そして、ひとまず胸をなで下ろした。いかん、落ち着くと共に目の前がかすんできやがった・・・ 「ブ、ブランデーを呉れ」 若者たちは俺を奥のゴミ溜めに快く招き入れてくれた。俺が重傷だって事には誰一人気付かない。テーブルに散乱する空き瓶や粉を見て合点が行った。酔った目には滴る血もブラッディマリーの雫としか映らないんだろう。その方が都合がいいが・・・さて、これからどうしたものか。 「サンタさん、いーノミっぷりだぜ」 「まだまだたくさんあるよ。おやじのだけど、今夜は全部おれのものさ!」 「夢見るタバコもあるよう。マリワナともゆうけどナ」 「ワハハハ、そりゃいいや」 楽しそうだぜ。幸運だったな。クスリは痛みを和らげる。ガキのくせに、客人のもてなし方には長けてやがる。俺にもこんな時代があったな。ガキの頃か。親が泊まりで外出してるスキに、ダチ集めて大宴会やらかして、あげくのはてにボヤ出して警察沙汰にもなったっけな。遠い過去だ・・・ ん、何だか暗いぞ。 どうしたんだ? 「それではキャンドルを持ってくださあい」 ポッ、ポッ、ポッと灯がともっていった。俺の前にも。灯火は白いキャンドルのものだ。 灯の中に、先ほどの面々の顔がぼんやり浮かび上がっている。 「いきまーす、せーの、きいいいよおしいい、こおおのよおるうう・・・」 そういえば、こんな時もあった。 小さい頃、聖夜のミサのために、母親と近所の教会へ行ったことがあったっけな。みんな・・・といっても小さな田舎教会だったから、せいぜい十人くらいが、手に手に一本ずつキャンドルを持って、讃美歌を口ずさんだんだ。老若男女、善人、悪人、全てが同じキャンドルの灯りの中にいた。 清い灯の中で、一刻の安らぎを得ていたんだ。そのころ近所を荒らしまわっていた強盗が、あのミサに参加していたと、後で知った。母は驚いて、震えながら、おおいやだ、とかなんとか言ってたよな。でも俺は、死刑になったその強盗が、なぜミサに出て、讃美歌を口ずさんだのか、という事の方が不思議でたまらなかった。 いい奴だったのかもな。本当は。 「この灯は良心のともし火です。人は誰しも良心を持っている。しかし、ほんのちょっとしたことで灯は揺らぎ、小さくなってしまう。でも、消える事はない。御子イエズスの生誕を祝うこの夜に祈りを捧げる者はみな、善良なる子羊なのですから・・・」 ヤクが回ってきたな。あの司祭のアドリブが聞こえてくる。ガキの頃を思い出すっていうのは、もう死に際が近いってことだろうかな・・・ 「警察だ!動くな!」 「なあンだよ、ヒトんチ、カッテに入っていいと思ってンのかア」 「黙れ!クリス・マクレガー、お前を国家機密保持法違反で逮捕する!」 キャンドルの灯が、俺の本当の心を映している。なぜ俺はこんな道を歩んじまったんだろう。こんな醜い世界を。サラリーマンになればよかったんだ。・・・親父みたいに。 キャンドルの灯の中に、涙を流している俺がいる。 「マクレガー、立て!」 俺はもう死んでしまう。体じゅうの血が抜けかかっているのがわかる。 「・・・まずいぞ、おい、救急車を呼べ!マクレガー、俺がわかるか?」 ”ブラフワーカー”の声がする。奴め、お手柄だったな。しかし俺はもう死ぬ。こんな事とはおさらばだ。最新鋭ヘリだと?人殺しの道具にすぎないじゃないか・・・そうだ。 死ぬ前に一つだけ、俺の良心を見せてやろう。 「まだか!・・・お、マクレガー、動け・・・おい、やめろ!!」 俺はキャンドルの灯が設計図を包み込むのを見届けると、目を閉じた。 俺は天に召されるのかな。 (1988/10/26記) 「それで彼氏ったらね、すごくあったかいっていうもんだから、こっちも嬉しくなるじゃない」
「この帽子いいじゃん。センスいいよこの店」 「いまどきマフラーなんて手編みなわきゃないじゃないの。首に何か当たるって、手で返したらタグみつかっちゃってさ」 「あんたに合うよ。ほら」 「ほんとだ、あしたねだっちゃおっかな。そんでね、彼氏ってば、ここがいいとこなんだけど、」 「ちょっと持っててくれる」 「うんいいよ!でね、彼氏ってね、見てみない振り?別に何でもないよ、って造った顔がバレバレ?・・・だのに、 なんにも言わずにキスしたの。いきなりよ。・・・もうまた惚れなおしちゃったって感じ」 「その帽子ほんといいよ。彼氏にあげたマフラーって、あそこのだよね。色もあうから、いっそお揃いにしちゃったら?」 「あ・・・そうか、この店きたらばれちゃうんだ。でもいっか、バレバレだしね。いいかもしんない。」 「うん、この手袋いい。柔らかい。これ貰ってこっかな」 「彼氏に買ってもらえばいいじゃん。そうだ、ダブルデートしよっか!」 「明日は駄目。英会話だから。荷物ありがと」 「あ、はい。・・・うーん、彼のどこがいいって、やっぱり月並みだけど、優しいとこかな。さっきみたいなとこ」 「レジ行って来よう」 「優しさ、っていいよね」 「いい響きだよ。じゃ、そろそろ時間だし、行ったら?」 「わかった。ありがとね。じゃあね」 「・・・」 これでも私たちは親友なのだ。 2000/11/16(thu) ![]() こ、こ、こ、こ・・・
薄暗い店内は低い打音に気配を悪くしている。眉をひそめる人々のひそひそ声が届いているのか届いていないのか、細い指でテーブルを叩くことを止めない。黒い衣装から突き出たような横顔の寒々しいほど美しいフォルムには、いささかの乱れもみられない。乱れは紅い爪の割れんが如く突き立てられる指先一点に集中している。 黒々と口も付けられていないコーヒーの表面は沫のひとつも浮かび上がらず唯僅かに揺れるテーブルの動きに密やかな波紋を描くのみである。最早湯気も立たない。 マスターの手がレコード棚に伸び古びたSPの一枚を取り出した。白髪の老人のご要望により巨大なスピーカーからワグネルの音楽が流れ出す。 愛の死 其の曲を私は知っている。トリスタンとイゾルデの一節で、無限に上り詰め一気に陥ちてゆく愛の壮絶な形を示している。老人は古いベルリンの音に宙を見詰めて沈んでゆき、マスターは少しほっとした顔で器を拭いている。女の表情はランプの薄明かりでよくわからないが指の動きは少しも乱れることがない。腐れ落ちる愛を描く音楽はいささか象徴的にすぎて女にその意味を悟らせることができなかったのだろう。だが陰うつな雨だれの音は豊穣な音の広がりに吸い込まれ消えていたから、音に反して和やかな空気が漂いはじめたのは結構なことだ。 私はメモ帳を置いて、冷めたコーヒーの中に砂糖を入れる。かき混ぜてみたものの砂糖は溶けずに底に溜まる。ウェイトレスに手を挙げて取り替えてもらう。清楚な顔立ちをした、でもどことなく田舎の気のする二の腕をちらつかせながら、 あいかわらず、 このウェイトレスももう長い。確か上京して10年にもなる。それでもこんな仕事を続けているということは、マスターのテがついているのだろうか。 ・・・意地悪ですね 余計な笑いを残してレシートを取り、3の文字を4に直す。余計なことだ。 木彫を基本とした内装に歴史の染みが黒々と染み付いている。ランプのひとつひとつも硝子の造りが大量生産ではない手作りの揺らぎを陰影として照らし出し、そのうっすらと蛇腹のように広がる影の不思議にいつも感心する。昭和初期、震災のあとからつづく名曲喫茶だがマスターが経営を引き継いだのは20年前という。 SPは僅かな時間で終わり、小さな拍手があちこちでぱらぱらと聞こえる。ここだけは時間が遅く感じる。休日に私は時計を持ち歩かない。この店が好きなのは地下であることと時計の類が一切無いことにある。時間はふるぼけたびろうどの椅子に腰を下ろしたそれぞれの人の中に流れる動きに合わせて伸び縮みする。ここは時間の外に有る異空間だ。 こつ、こつ、こつ、こつ・・・ ふたたび響き渡る音は僅かであるはずなのに、神がとおったような店内に著しく響き渡るように感じる。私は再びメモ帳を取る。 そうして休日はすぎてゆく。 私の趣味は人間観察だ。 あれは会社の同僚である。正確に言えば上司だ。 出世頭の彼女は、そのまっすぐな視界の外にいる私とは再会したときから気が合った。無論「気が合った」だけである。それが創作を趣味とする私には好都合だったのだ。 彼女の待ち人は来ない。 私の本日の目的は「2時間待たされそれでも帰らない執念深い女の横顔」を描くことだ。メモ帳は埋まった。 そそくさと出口に向かう後ろ姿に、マスターの声がかかった。 「ちょっと・・・迷惑ですね」 白髪の老人が立ちあがろうとしている。 関係を悪くする訳にも行かないか・・・。 ふと頭をよぎったのは、いや女ではなく店のほうである。 帽子を取り、サングラスを外すと振り向いた。怒り心頭の女に、私は弱々しい笑顔を向けて見せた。篭絡はギリギリの嘘に限る。 2000/11/12(sun) 焚火で温んだ酒を喰らう。 博浪会の冊子をめくっていると昭和16年2月早々追悼の二冊のなかに夢声の万感のいち文があった。雑草は何でも味噌で喰えるといって其会も開いていた貢太郎氏、酒に生き酒でびんぼうをし酒に死んだ故人への随想の形をとった最大の賛辞である。
万感、というのはただ想いでをつづり一言「それもついに空しである」で締めてある。莫と、語ることがないとして独自の風格があるとだけ置いた菊地寛とは格段の言外の想である。我が祖父や父によれば貢太郎の名は前に私の書いたような大衆小説家なんかではない、立派な文筆家で通っていたようである(同郷の者の贔屓目というわけではない)。だから菊地の態度には多分に意識的なものがあるように私には感じられた。自らが認めてやった人物であるにもかかわらず対抗するかのような私誌(じっさいは周辺弟子同人のものであるが)を立ち上げた男、野人と号された文壇の異彩児への圧倒の意さえ感じられた。反骨の士の燭の消えるがごとき哀しき枯淡の境を思うと無粋な編者の、権威菊地になど頭文を能わせる粋のなさに胆落つるところもある。接いでに言うならば氏独特の面白いあて字は癖のようなもので、源は中国小説にあるものだそうだ。漢籍への造詣も当代文士に比類無きものであった。 門前で声をかけ布団の中から反ってきた返事で容態を確かめる、高知新聞社三村氏の追憶、去世の三日前「何ちやあぢやなかつたきにのう」とぽつりと遺していったというが、確かに昏睡のとき流れた一すじの涙の拭われたあと、円満無比の相好の死に顔は牡丹の篭火を架かげた上臈に手をとり連れ逝かるる氏らしい解脱の相であったと思いたい。なき崩れるつま子らにはすまなそうな様子をして。旧友は口を揃えて何の心のこりもなかった筈だと言ったそうだ。三村氏は心のこりどころか、あの世へお釣り銭まで持っていった男だと口を添えた。浦戸の湾には厳かに「じゃん」が響いたことだろう。 泰平の時代のことを想う人もいた。この雑誌も末期は戦意高揚広告が目立つ。吐血後静養として死の前年後にした東京の屋だが、「東京は旅ぢや」「もう東京はさつぱり思い切った。むづかしい物は書かいでも、すきな随筆などを書いて、小遣いを取ればよい。子供達も、もう一人前になつて、手がかからんきにのう」の言に常よりの熱い郷里愛、推して知るべしだろう。晩年は名随筆家として知られた氏が「坂本龍馬を書くために、郷里で材料を集めている。田舎に居ると生活費もかからぬから、ゆつくり長編が書ける」という死去前の池上会での台詞、旋風時代は過ぎ去らず未だ伝記小説へ意欲を燃やしていたのだなとも思う。高知県立図書館長の想い出にも龍馬の話が出てくる。郷里の志士伝への思いはえんえんとしてあった。死の数日前まで娘に大量の資料筆写を持ってこさせていたという。 ひとによりまた印象も違うのだなと夥しい追悼文をつら読みながら、その例の少なくないことにも思いを巡らせた。最後の会の場で、もう好きな瀧嵐も司牡丹も呑めない貢太郎翁に気付いた弟子がいた。「こちらもうつかり馬鹿話にふけつているうちに、気がつくと、先生は広い座敷の向ふの隅の、座布団を積み重ねたところで、横になつて、しんと、こちらを見てをられた。その距離に、私はと胸を突かれるやうであつた。ーあの部屋隅の座布団の山を思ふと、たまらなくなる。」 それは余りに淋しいではないか。我が育てた稲穂の黄金の揺れるさまを見守るだけで、誰にも顧みられることのない、モウただの一本の野蒜なのである。死んでからでは、遅い。 ・・・その野蒜が枯れはて土に帰らうところで抜いて喰う酔狂らもいる。ここ数年の再評価はしかし昭和大衆伝奇小説家としての氏に寄せるものでしかない。もし読まれていないのならばこの雑誌の追悼号を読まれるがよい。日吉早苗氏の「幻想の桃葉先生」は名筆である。ここに矍鑠たる明治の幻想文学、ヘルン先生らの流れの末と、それを確と伝えられた貢太郎氏の偉大さを垣間見られよう。そして山崎海平氏の採った語録(どれも至言である)に浅薄な大衆作家などではけしてなかったことも窺い知ることができるだろう。 61の誕生日、雛祭りの日にレインボーグリルで行われた追悼会では、発起人尾崎士郎氏のもと菊地寛、井伏鱒二、吉川英治らより追憶の説が語られた。太宰も胡堂も犀星も梢風もいた。中央公論から選集が発行の旨が書き添えられている。「林有造の伝」が完成していながら生前出版至らなかった無念を譲治氏がつづっている。 静養のため帰郷して後目黒の家に住んだ義理子は氏を奇人酒仙と呼びならわす世間には知られえなかった一面を書き添えている。「父はもはや、疲れきっていたのである。ものを書くことにも一向気乗りがしなかったやうである。「土佐へ帰って、何もせんでいて魚釣りをして暮らしたい」と、死のニ、三年ぐらい前から家族に語っていたという。が、その土佐の生れ在所に帰っても、とうとう父は念願の魚釣りもやらずに逝ってしまった。父にとっては、おそらく、坂本龍馬傳の完成をみなかったことよりも、もっとそれは残念なことであったろう。」遠山氏は三年前の結婚の許しがあまりに簡単だったことを妻である長女に話すと、「父も昔の父とちがって・・・」気が弱くなってきた、と泣いたとも書いている。 最後の博浪への寄稿は15年8月五巻九号のニページである。帰郷直前といったところか。事物をならべただけのものではあるが流石随筆の逸話には事欠かず、臭いロシア人詩人の話のあとに日新聞という出版社ででくわしたハーフの作家志望者のことが書いてある。原稿が旨く面白いから中央公論の瀧田氏のところへ連れていったところ連載が決まり、非常に喜んで晩餐会を催すも滅多に早く来たこともなし、食事は済ましてきたというふうだから瀧田氏ともども応援を止めた。しかしそういうものだと流すところに依然として風流粋がある。 ところでハーフの若者は逆に氏をこううつしている。「布袋様のやうだつたが、これが田中貢太郎だつた。その時貢太郎が俺の小説を見て、旨いゝとつゞけ様に赤い舌をべろゝと二度出した。」ああ、貢太郎はこうでなくては。 ~博浪沙・田中貢太郎追悼号を読んで(某コミュニティより転載)~ 2005年10月29日 「ばっとう斎さま」
「ばっとう斎さまだ」 「ばっとう斎さま、これ持ってっておくんなせえ」 「今日もええご機嫌で、ばっとう斎さま」 長々と続く己の影を追うように、一人の大男が歩く。砂埃の巻く村の中通りは、一日の仕事を終えた百姓たちで活気付いている。その誰もが白い着流しの男を見るなり道を分け、海老のように背を曲げた。手元に野菜や芋などがあれば、恭しく掲げた。 熱気を孕んだ赤黒い髭面と、大きく突き出した腹をゆれゆれと揺らしながら、男は往来の真ん中をのし歩いていく。右手に下げた酒瓶が音を立てて揺れ、左手には色褪せた柄色の刀をわし掴み、小脇に竹皮に包んだ味噌と大根二本を抱えていた。 やがて村の端まで来ると、子供たちの騒ぐ声が聞こえる。右手に見える間口の広い宿屋風の家からだ。鼻歌交じりに近づくと障子窓はあらかた破れており、屋根からは腐った藁束が間口へとぶら下がっていて、奥の暗闇から子供のふざけ声や、物が破れ壊れる音が鳴り響いている。 「帰ったぞ、えい。なんだこのさまは」 男は腰をかがめて戸の無い入口をくぐる。男の頭をかすめたのは陽焼けた板切れ…そこには妙にせせこましい墨書でこう書かれていた。 「ばつたう流どうじやう ばつたうさい すけ宗」 「うわあ」 子供が沸く声がした。土間にござを敷いただけの狭い道場から、何度か叩くような音がして、すぐに静まり返る。 四人の子供が律義に並び、棒切れで宙を斬る真似をするさまを横目に、抜刀斎は上がり縁へとどっかり腰を下ろす。どこからともなく、やつれてはいるが柳のように流麗な女が現われる。女は茶を片手に寄り来た。 「おう、すまぬ」 えいと呼ばれた女は、伏し目がちにうなづく。その後ろに立ち尽くす小男に目が止まる。 「へへへ、ばっとう先生、どうも」 「またお前か」 歪んで崩れた髷を掻きつつ近寄ってきたのは、頬に大きな黒子があり前歯の一本足りない、らっきょうのような頭をした男だった。 「いやね、さっきそこで義助と昔の話をしてたんですがね。ヤッパリ先生のお話になりやして。いやあ凄い腕だったって。義助の野郎先生の立ち回りを見れなかったのが残念無念って、また盗人でも現われねえかとか言ってやんで、ならてめえがなれって言ってやったんですよ。そうしたら野郎めっそうも無えって血相変えて」 「くだらねえこと言っておだてやがって、どうせこれが目当てなんだろう。ほれ」 抜刀斎と呼ばれた男は、片手の酒瓶を投げるように取り渡す。 「へへへ、さすがセンセイ」 平助を追い払うように立ち上がると、子供に向かって手を叩く。子供はわあいと意気を上げると、木切れを放って表へ駆け出していった。 「まったくあいつら挨拶も無しに」 そうは言っても余り機嫌の悪い風も無く、裏口に掛かる鉄風鈴の澄んだ音に涼みながら、茶をすする。すると奥から音も無く再びえいが現われた。脇まで来ると、美麗だがどこか寂しげな表情に西日が当たる。すると西日にむせるように咳込む。男は酔いが覚めたような表情をする。 「また悪いのか」 「はい」 男はえいの額に野太い手を伸ばす。えいは腰をかがめて顔を寄せる。 「…熱があるようだな」 「黒田先生に、お薬をいただいて参ります」 「ああ、もう夜も近い。気をつけてな」 えいはこくんと肯く。 「奥に夕ご飯のお支度をしておきましたので、おあがりになってください」 「おう」 「申し訳ありません」 えいはかくんと腰を折ると、はらりと背を向け看板をかすめて、出て行った。 草鞋を脱ぎ奥に上がる。古行灯の中、狭い畳部屋にぽつんと置かれた台の上、麦飯に大根の塩漬け、汁という夕餉。一旦箸を持つが、ぽろり取り落とす。何度も持ち直して、やっと持った瞬間にあっという間に平らげる。 まずは一息つく。 今度は本番とばかりに、脇の酒瓶を持ち上げて茶碗に注ぐ。手元が狂うのかばしゃばしゃと零れる。なみなみ注がれた白い酔い水は、今宵も永劫夢幻の境地へ誘う。 …小一時もすると抜刀斎は、転げた。古畳が煙を吐き、それでも起きるそぶりも無い。がらんどうの屋内に高鼾が響き、やがて行灯の灯芯が焦げ落ちた。 「たのもう、たのもうー」 男はいつのまにか布団にいた。次いで、はあいという高い声に飛び起きる。 「…お客様です。」 襖陰からえいの顔が覗いた。抜刀斎のばら髪を見て、口元に幽かに微笑みが浮かぶ。 「昨日もかなりお召し上がりになったようですね。少しはお体のことも考えないと」 「ううむ」 男は素直に肯いた。 「えい。昨日も遅かったようだな」 「すいません」 えいの喉から木枯らしに似た音が吹き出る。男は口元を見つめた。 「…いや、いい。調合が難しいんだったな。今度黒田に言って、江戸のもっといい医者を紹介してもらうとしようか。」 えいは首を傾げると、表を気にするように振り返った。 「…お客様がいらしています。何やら笠を被ったまま気味の悪い」 「今出る」 朝の強い日差しにむせぶ間口にいたのは、肩幅の広い中肉中背の男だった。抜刀斎よりも十は若く見える。がしりとし特に右肩が隆々とし、左手は柄元を固く握りしめたまま動かない。草鞋も解かず笠を被った旅支度のまま突っ立っている。 「抜刀斎というのは貴殿か」 男は静かに口を開いた。 「…いかにも」 ねめ上げるような三白眼が笠の縁よりちらりと見える。抜刀斎は思わず目を逸らし、気を紛らすように頭を掻く。ぽろと虱が落ちた。 「拙者諸国修行の身。一手お手合わせ願いたい」 男はそう言って中を見渡す。隅に立てかけられた木刀に目を止める。 「後にしていただけまいか。まだ朝飯も食っておらん」 抜刀斎は欠伸をしながら背を向けた。僅かに声が震えているのを男は聞き逃さない。 「ならば待たせて頂く」 男は笠を取る。思わず振り向いた抜刀斎の目が凍り付くのを、えいは見ていた。 「ふ、藤木…一刀…」 抜刀斎は言葉を噛み殺し、えいは小さな悲鳴をあげた。 「お早うごぜえます」 門口で大きな頭がかくんと揺れた。えいは目で合図をするが、平助は気づかない。藤木一刀は黙って上がり縁に腰を下ろす。 「先生、今日一日うちのガキ預かってもらってもええですかね。つるの奴、悪い風にでも当たったのか昨日からふせってやがるんで。」 「あ、ああ。わかったな、えい」 固まっていた表情が綻ぶ。えいは戸惑いながらも半端な返事をする。 「わ、わかりました」 それを聞いた藤木一刀は眼を歪ませ、肩越しに高い声を投げつけた。 「なに、ここは餓鬼つ子の預かり処か。 ならば手合わせするまでもない。失礼」 そう言うとぷいと立ち上がり、笠を置いたまま門口に近づく。慌ててよける平助を肩で押しのけ、右腕を伸ばし強く引く。木の割ける音がして、捉まれたのは道場の看板であった。しかし、抜刀斎は少し振り向いただけで、微動だにせず立ち尽くしている。 「あっ、この野郎。先生、大切な看板を」 平助のらっきょう頭がたちまち赤く染まり上がった。抜刀斎と藤木を交互に見ながら、せわしなく手を振る。 「この野郎…生きて帰れると思うなよ。驚くな、昔江戸で一番とうたわれた大泥棒“墨掛けの松”がこの村に逃げてきたとき、一刀の下に斬り捨てたのが、誰あろうこのばっとうさい先生だ。そんじょそこらの微塵子浪人と一緒にしちゃいけねえ。先生、構わねえからやっちめえな。先生の腕ならこんなこまい男、三枚におろして朝飯のおかずに」 そこまで聞いて藤木がわらい出した。 「拙者は構わんぞ、ばっとう先生とやら。真剣でいくか」 左手のものが鳴る。自信に満ちた藤木の態度と対照的に、抜刀斎は狼狽の色を隠せない。 「先生、どうしたんですかい」 抜刀斎はぶるぶると震えだした。髭が揺れ、酒焼けした顔がさらに赤まる。 「先生」 「…朝はげんが悪い。それにここでは動き辛かろう」 藤木はまだ笑いが止まらない様子だが、抜刀斎は続ける。 「明日正午、川べりの庚申様の前でどうだ」 抜刀斎は低く唸るような声を絞り出す。しかしその目つきは縋るような色を隠せない。 「いやに待たせるな。まあいい、急ぐ旅ではない。抜刀先生、せいぜい“この世”の最後の朝暮を楽しんでおくのだな。これはまだ預けておこう」 藤木はそう言うと看板を土間に投げ捨てた。からん、という軽い音がして、藤木は消えた。平助は、なぜかにこにことしていた。 「さあ、義助のやつ喜ぶぞ。なにせ久しぶりに先生の腕を見れるっつうんだから。みんなに知らせてきまさあ。川辺の決闘、こりゃ、つるの病どころじゃないや。失礼」 平助も消えた。 「黒田さま早く、あっ…」 しばらくしていつのまにか消えていたえいが、背の高い初老の男を連れて現われた。抜刀斎はそのままの格好で床の隅を見つめている。痩せた男はねずみ色の粗末な絣を身にしてはいるが、どことなく“雰囲気”が有る。 「助宗、無事か」 「…黒田。」 抜刀斎は上がりきった肩をすとんと落とした。よろよろと土間に近づき、上がり縁に立つ。黒田は鋭い切れ長の目で転がった看板を一瞥すると、抜刀斎を見上げた。 「…決闘することになってしまった」 「何。おまえ、何てことを」 「平助の野郎にうまく乗せられちまった。」 「相手は、あの藤木一刀、百人斬一刀だというではないか。最近は辻斬りのかたわら道場破りをやっていると聞いていたが、まさかこんな田舎村に現われるとは」 黒田はため息をつき、腰を下ろす。並んで抜刀斎も座り込む。えいは間口から二人の様を遠巻きに見る。 「えい、外せ」 えいは俯き裏口へ抜ける。 「どうするつもりだ。もう刀なぞ握れぬくせして」 黒田は声を潜めて語り掛ける。ほととぎすの声が遠く響く。抜刀斎は右腕を上げて、しばし震える掌に見入る。そして目をつむりうなだれる。 「酒とは恐ろしいものじゃ…」 言い訳がましく呟いた。黒田は少し強い口調で言葉を継ぐ。 「だがおまえ、もし酒に溺れてなかったとしても、奴に勝てたとは限らん」 田の方向から穏やかな唄声が聞こえ始める。牛ののどかな声が重ね重ね里山に木霊する。 しのつく汗にまみれ抜刀斎はやがて重い口を開いた。 「黒田…おまえ、“毒”を調合できまいか」 「何をするつもりだ」 「…奴はどこかその辺りに泊まるつもりだろう。見つけ出して、夜にでも忍び込んで…一服盛ってやる」 「卑怯な!」 「無様に死ぬよりはましだ」 抜刀斎は声を荒げた。 山鳩のはためく音が、陰影の次第に濃くなってゆく屋内に透き通る。障子影が土間の藁敷きに怜悧な格子模様を描く。 「…全てを失って浪人となり、江戸での仕官も失敗、商売にも向かず借金を作り、しまいに盗人にまでなって、やっと逃げ延びて見つけた終の住まいだ。ここでは誰もがわしを尊敬してくれる。…みんなわしを剣豪だというておる。」 「松造を斬ったことでか。江戸で負った深手がもとで瀕死の状態だった奴を、真後ろから袈裟懸けにやったっていう、それだけの話が」 「新月の晩だった。暗くて、何が起こったのか誰にも見えなかったろう。ところが平助なんか大立ち回りを見たとか吹聴しておった。…それが、わしには都合が良かったのだが」 そこまで言ってがばと顔を上げる。急に黒田の肩を掴む。毛だらけの腕で枯れ枝のような黒田を揺らしながら続けた。 黒田は目を合わせない。 「わしを助けてくれ。そう、鳥兜の根はどうじゃ。あれなら見た目がわからないから、中々ばれぬというではないか。なあ、黒田。わしら仲間ではないか。お互い助け合って逃げてきた仲間ではないか」 隣からばさばさと何かを叩く音がする。かちかちという音もして、ひいよ、と鳴くのはひよどりか。 「…もう十年にもなるな」 黒田は終に目を合わせた。遠く、優しい笑みを浮かべる。 「わかった。…鳥兜ではないが、心当たりはある。夕刻までに調合して、持ってこよう。 それまでに奴の居所を捜しておくがよい」 黒田は、震えながら涙を浮かべる抜刀斎に肯いて見せた。そしてゆっくり肩から手のひらを引き剥がすと、立ち上がり、年に似合わぬしなやかな動きで身を整えて、一礼しつつ間口をくぐった。 田植え唄は一巡し、また最初の節に戻っていた。 眩しい陽の照り返しにむせぶ往来に、いつになく険しい顔をした黒田がゆく。老婆の挨拶も耳に入らない。そこへ音も無くつっと駆け寄る者が居た。 えいであった。 影のように寄り添ったえいは、小声でひとしきり何か語り掛ける。ぎらりと光る目で、黒田の口元を見、答えを待つ様子である。 「薬だ」 「薬ですって?あのひと何を」 「ここでは話しづらい。うちへ寄れ」 黒田の小庵は二十軒ほどの村の中心部に位置し、中央を通り抜ける道筋から家屋の間を少し分け入ったところにある。抜刀斎の家からは大して離れてはいない。二人は暗く固い表情のまま足取りだけは軽やかに、庵内へすっと消えていった。 もう日も傾いてそろそろ草虫の声が上がり始める頃、黒田は膨らんだ袂を押さえながら抜刀斎の家門をくぐる。 土間には朝と同じ格好でじっと座り込む抜刀斎がいた。いつになく陰気な抜刀斎の後ろから、えいの目玉だけが見える。暗がりに光る目は、山猫のそれを想像させた。 「ばっとう」 「…黒田。…持ってきてくれたか」 弱々しい声が焦げ茶色の暗がりに立ち昇る。えいが襖影から見ていることに、果たして気が付いているのかどうかもわからない。黒田は周囲を見回すと、えいに一瞬目を留めるが、そのまま袂に手を入れ、小さな紙包みを出した。 「これはな…」 黒田は再びえいを見る。えいは微動だにせず只黒田の手元を見据える。 「何種類かの山草の根と、南蛮渡来の或る薬を擦り合わせたものだ。長崎にいた時分に南蛮人の医師より教わったのだが、すぐに効くというものではない。しかし、4つ時もすれば、急に腹に差し込みがきて」 黒田はまたちらりとえいを見る。えいは動かない。 「五臓六腑の全てが引きちぎれんばかりにひきつり、挙げ句に心の臓がよじれ切り、絶命する。解毒法は、無い。一切発疹の類もなく、見た目は何で死に至ったのか皆目見当もつかないというものだ」 「…おぬしは使った事があるのか」 抜刀斎は真剣な眼差しで黒田の顔を見た。黒田は避けるように顔を振る。 「だが、これを教えてくれた南蛮人が、…人に飲ませたところを見た」 黒田の声が唐突に大きくなる。 「これを入れた酒を煽ったのは、知り合いの商ん人だった。私もその場に一緒にいて、しばらく共に酒を飲み、話をしていた。その場では結局何も無く、男は機嫌良く家に帰っていったのだ。…翌日、きれいな顔をした冷たい体が、家から運び出されたのを見た…私は恐かった」 黒田は両手で顔を覆う。指の隙からえいを覗き見ると、変わらぬ冷たい視線に当たった。 「わかった。かたじけない…」 抜刀斎の掌に小さな薬包が載せられた。 「指の先でも、牛を殺すほどの力があるという。気を付けて使え」 抜刀斎はしっかと肯く。その後ろでえいも肯いていた。黒田は嘆息した。子供の寄り集まりそぞろ歩くざわめきが聞こえてくる。黒田はせかせかと足早に去っていった。 *** 藤木一刀は、座っていた。村外れの川岸に座っていた。川は雄大で、その流れは遠く江戸まで届き、ひいては青き大海へと続く。岸辺に繊細な草葉の群れが踊り、藤木の心を優しく撫でてゆく。脇に四角い墓石のようなものがあり、稚拙な筆致で刻み込まれた観音像が浮かび上がる。藤木は水面に映る夕映えを只眺めていた。と、ふと背にむず痒い感じを覚える。耳を澄ます。僅かに草の踏まれる音が聞こえると、柄元に左掌を添える。距離がもう刀の届くほどに縮まったところで、声を掛けた。 「おぬしでも“下見”をするのか」 潜んで近づいた筈の抜刀斎は、背に目のあるような藤木の言葉に、驚いて飛び出す。腰に結わえ付けられているのは刀ではなく、黒い酒瓶だ。 「うぬ、一刀…」 抜刀斎は腰元に気を遣りつつ、地を這うような調子で問い掛ける。肩が張って肘が出る。 「…一刀よ、一体誰に頼まれて来たのだ。有山のじじいか、くずの葉か」 藤木は顔を傾け、くすみ笑いをする。 「はは、おぬしのような木っ端のことなぞ、誰も覚えてはおらんわ。俺も顔を見るまでは忘れていたのだ。偶然だ」 藤木の背は寂しく橙色に染まり、庚申塔を挟んで、抜刀斎も並び立った。かあ、と烏が鳴き、ちゃぷ、と魚がはねる。 抜刀斎の肩がゆるやかに下がる。瓶を手にとり、観音の頭上に無造作に置いた。 「ともあれ昔馴染みだ、一刀」 藤木の目が光る。 「酒は飲まぬ。…おのれは何か悪い手を考えておるのではあるまいな」 「わしも武士のはしくれじゃ。そのようなこすい真似はせん」 抜刀斎は瓶を取り直すと栓を抜き、口を開けて上を向いた。瓶を掴んだ腕を伸ばし、高いところで逆さにすると、口へ向けてばしゃばしゃと酒が流れ落ちる。脈々と喉が鳴り、肩が濡れる。 「おぬし、どこへ泊まる」 舌なめずりをしながら、抜刀斎は横目を遣る。藤木は今度は身の有る笑いを放つ。 「はは、酒飲みとしては変わらず一流だな。」 腰を払いながら立ち上がる。すぐ側まで来ていた子雀の群れが、さあっと飛び立って水面を渡り、対岸へと散っていく。まだ立ち尽くし川面に見ゆる抜刀斎を一瞥もせず、藤木は草叢へ分け入ってゆく。最後に言葉だけが残った。 「“むらじ”とかいう宿に泊まる。飯がうまいと聞いている」 夕風が髭を揺らす。丁度目の前を行く渡し舟がある。船頭が気づいて何やら声をかけるが、すぐに妙な顔をして漕ぎ去る。靡く髪の下の瞳はかっと見開かれ、空の一点を見詰めていた。肩は震え、夕日より赤い面にずるずると汗が粘り落ちる。引き攣った口元には歯茎が剥き出しになり、ひゅう、ひゅうという漏れ息と、ぎり、ぎりという歯ぎしりが、闇に包まれるまで続いていた。 そうしてすっかり夜も更けた頃、 黒田の庵。 忍んで駆ける音がして、薄木の引き戸がかららと開いた。 「おお、どうだ。助宗の様子は」 暗い油灯の下ではあるが、えいの頬にやや赤味が差しているのが見て取れる。 「つい今しがた戻ったところ」 「随分遅かったな」 「飲んだみたいね。陽気に鼻歌なんか唄って、すぐ床に入っちまったところを見ると」 「“飲ませた”のか」 「らしいね」 黒田はほっと息を吐く。えいは狭い板の間に上がり込む。 「“南蛮渡来の毒ぐすり”か…。」 しんとしたともし火の陰影の中、眉間に寄った深い皺で、黒田は一段と老け込んで見える。畳の上をかさかさと這う一匹のこおろぎがいる。黒田は、それきり黙して動かない。 「これが一番良い形」 えいは首を折り、黒田の顔を覗き込む。 黒田は組んだ腕を解き、顔を上げた。 (つづく) そうして翌日、正午も大分廻った頃。
「遅い。おそいではないか」 どんよりと曇りざわめく草木、川は打って変わってにび色に沈み、どろっとした空気が肌に染む。川面を見詰める観音の裏では、このような田舎村では滅多に見られない、侍同士の命を掛けた果たし合いを待つ、村中の老若男女がひしめきあっていた。 「もう半時もたつ。怖じ気づいたか、藤木いっとお!」 おお、という声と、拍手が沸き立つ。小広い砂地の真ん中に立った抜刀斎は、上機嫌だった。 「“むらじ”の親父はいるか」 群集の中、老人が手を上げる。 「昨晩はすまなかったな。わしが帰った後、藤木は何をやっていた」 「へえ、そのまま寝転がって鼾を立てていなすったんで、起こさぬように茶碗を片付けさせていただきました。」 抜刀斎は大きくわざとらしく肯いて見せた。指を差して喜ぶ平助と義助の顔が、視界の隅に入る。 「朝になっても出ていらっしゃらないんで、おかしいと思って覗いて見たらば」 「うむ」 「もぬけのからでした。畳の上に金子の包みが、…少うし多めに」 ううむ、と唸って見せる。 …少うし“効き”が遅かったようだが。 だが、結句来ないところを見ると、どこかでおっ死んでいるに違いないのだ。 男はえいを見やる。えいは黒田の横にいて、固い表情を崩さない。抜刀斎は、えいの気を鎮めるようににやけて見せた。そのときである。背後にざわめきが広がる。抜刀斎が振り向きざま、川面から声が轟いた。 「ば、抜刀斎、すけむね!」 おおう、という低い声と、ぎゃあ、という赤子の泣き声が同時に湧き起こる。興奮した子らがちゃんばらをしている横を、ずり、ずりと摺り歩く藤木がいた。髷は大いに乱れ額に垂れた髪は少し濡れている。左手に緩く掴んだ刀を地に擦りながら、抜刀斎の横を過ぎると、位置に立ち、ふら、ふらと二回ほど揺れて振り向いた。 抜刀斎は目を細め、唸った。そして黒田を睨む。 だが黒田はそこにいない。えいだけが立ち尽くし、変わらぬ固い視線を向けている。 「ま、参ったぞ、抜刀。ひ、卑怯な手を使いおって」 ぷう、という音がした。 すぐに巻き起こる笑い声に、わけもわからず抜刀斎は狼狽した。口元に手をやり、顎髭をせわしなくしごく。 ぷう、ぷう。音は続き、そのたびに爆笑の嵐であった。 「…腹下しを…飲ませたな」 消え入るような気の抜けた声は、連綿と続く「ぷう」にかき消されていた。やがてあえなくへたりこむ藤木に、辺りは破裂せんばかりのざわめきに包まれた。 やっと事態を飲み込んだ抜刀斎は、又えいを見た。 えいは、ゆっくり肯いた。 これは、えいの手引きか。 わしに人を危めさせたくはない、という気遣いか。 えいは、また肯いた。 えい、お前という奴は。 えいに向ける視線が和らぐ。横に再び黒田の頭が、そろそろと現れた。 「やい、立ちやがれ。」 平助が叫ぶと同時に、藤木の震える背に向けて誰も彼もが罵声を浴びせはじめた。 「だらしのねえ野郎だ」 「おれはこのために山一つ越えた向こうの村から来たんだ。ふざけるな」 「おらなんか二つむこうだ」 「くそ、こんな野郎を相手にしたとあれば、ばっとう先生の名折れになっちまう。」 「おらどもでやるだ」 「やれ、やっちめえ」 木の枝が投げ込まれた。子供らも小石を投げる。亀のように丸まる藤木に、がつ、がつと次第に大きな石が当たり、そのたびに石榴を潰したような喚き声が噴き出し、ぷっ、ぷっという別の音も吹き出てくる。 余りに哀れであった。 抜刀斎は素直に喜べない。危うく戦わずに済んだということよりも、自分よりも余程立派な腕を持つ武士が、しかも昨晩は気持ち良く昔話などして飲み交わした男が、こうして薄汚い輩に愚弄され嬲られていることに、納得がいかない。 迷うがすぐに意を決して、囲まれ見えぬ藤木に走り寄る。そして分け入りその前に立ち、村人たちを遮るようにして大声を放つ。 「静まれ、静まれい。…ええい、わしの言う事を聞けぬのか。」 刀を抜いた。わっ、という声と共に、村人達が一斉下がる。藤木は巣から落ちた鳥の仔のように小刻みに揺れ続けている。香ばしい匂いが鼻を突く。 「仮にも一度はわしの相手になろうとした男じゃ。その意気や良し!おのれらのような臆病で愚かな者どもに、この男を責める権利は無いわ。下がれ、下がれい」 ざわめきは即座に波のように引いた。愚かと言われた村人たちの大半は、不思議にも素直に肯いていた。 中には拝む者までいた。 「…しかし、だらしのない男だ。腹を下すなどというのは、弛んでいる証左だ」 抜刀斎は視線を投げ落とし、顔を上げ、演説を始めた。 「わしは生まれてこのかた体など壊した事は無い。」 おお、という声、拝む顔。 「わしの体が図抜けて頑健だからか。そういうことも確かにあろう。しかし、それだけでは駄目なのじゃ。毎日の精神修養、そして絶え間の無い鍛練が必要じゃ。」 ううん、という納得し唸る声。 「大体わしの腕を少しでも知る者なら、勝負を挑むなどという大それたこと考えもせんだろう。このちんけな男は、江戸では有名な剣客かもしれんが、」 だれかの喉が鳴った。 「わしの名は、全国津々浦々に轟いておる」 「いいぞ!」 義助の掛け声が心地良い。 「“井の中のかわず”めが、まったく呆れて物も言えぬ。見よ、この無様なありさま、」 調子の乗ってきた抜刀斎は、右足で一刀の頭をこづく。うう、と唸り、群集の中から笑いが漏れる。抜刀斎は有頂天であった。 「武士の風上にも置けぬわ。大体、辻斬り稼業などやっている浪人に、ろくな奴はおらん。 …どれ、最後にもう一度、その間抜け面を拝んでおこうか」 抜刀斎は振り向き、まだ蹲り唸る藤木の前にかがんだ。顔を寄せる。 …そのとき。 白刃一閃。 抜刀斎の右脇腹より、左肩までが、鮮やかに、ぱっくりと割れた。 一瞬の居合いだった。 抜刀斎は、ぷく、と唸るなり、血泡を吹くと、 でん、と仰向けに、倒れた。 肩に深く刺さった刀は、荒天に昇る龍の様に空を向き突き立っていた。腹から胸元にかけて無数に噴き出す血潮は、砂地を黒く染める。しかしすぐに干上がっていく。 藤木は突き出した右腕をそのままに、よろと立ち上がる。 藤木の眼球はどす黒く淀み、濁っていた。 水を打ったように静まり返る村人には目も呉れず、刺した刀もそのままに、ふら、ふらと場を離れる。村人たちは、藤木が川沿いの街道筋遠くに消えゆくまで、固唾を飲んで見守っていた。 「…なんだ」 義助が呆けたような声を出す。 「ちぇ、つまらねえな!」 平助の声が弾けると、村人は一斉にぞろぞろ引き下がり始めた。誰も何も言わない。そして誰も川岸の死人を振り返る事はなかった。 えいは、黒田と一緒に残っていた。まだ血を流し続ける抜刀斎助宗の骸を、遠巻きに見据えていた。 「…調子に乗るからだ。折角上手くいっていたのに」 いかにも残念な顔をして黒田は髷を掻いた。 「いいえ」 えいは、黒田にもたれかかるようにして囁いた。 「これが一番良い形」 くすり、と笑った。 1999/7 ![]() (不評により未完) 苦労したからって成功するとは限らないよな。
彼はそれだけ言うと、吸い殻を投げ捨て、少し頭を下げると、去っていった。 ・・・ 自分は立ちすくんでいる。 幻と現実の狭間に立ちすくんでいる。 ただ運の良かっただけの人々の、尻を拭う日々。幻か現実か定かじゃない、だがこれが自分の運命だったのかと思えば、一瞬でも諦めがつく。 ・・・ 彼は事業を興した。あのころは羨望の的だった。 元手はどうしたのかと問えば、海外だとか言っていた。同期入社で仲が良く、いつも居酒屋で愚痴を言い合い、時にはライヴァルとして仕事を取り合った。だがその時をもって、全く違う道を歩むことになった。 ・・・左の手のひらを見る。 最後の握手をしたときの、熱く湿った感触が蘇った。 ふと、夜の埠頭の明滅する灯りを見上げる。ぼうっとつき、消え、つき、消える。 ・・・消える。 違う道を歩んだ二人に、同じ結末が待ち受けていようとは。 こちらはまさかという突然のできごとだった。客と組合と会社と、それからのしばらく、何をやっていたのか思い出せない。思い出したくない。身体を壊しそれでも何も手元に残らない状態、それをやっと脱け出したころには、学校を出て就職したときの、浮かれた気分を思い出すことすら、できなくなっていた。職安に通い、何とか便所掃除の仕事を探し出し、今は大手企業の・・・かつて自分も使っていたような・・・便器を磨く。朝5時には起き、昼まで働く。少し休んだだけでゴミ箱やシュレッダーをみてまわる回収の仕事が待っている。 でもリスクを多大に背負い込んでの破産は、彼個人にとって更に過酷なものだったろう。彼と逢うことを私は少し躊躇した。まさか借金なぞ申し込んでくるような男ではない。それにこちらの手元に何も無いことなどお見通しの筈だ。ただ、連帯保証ウンヌンの話を出されたら、もう、二度と逢うことはないし、思い出は全て消し去る気で、逢うことにした。 掃除夫の自分は早い時間に起きなければならないため、夜中は避けたかったのだが、何か理由があるらしい。夜中の埠頭が選ばれた。感傷的な場所だ。 そして、 二人の間に交わされた言葉は、ひとことだけだった。 「やあ・・・ひさしぶり・・・」 あんなに伊達男を気取っていたイタリアンスーツの男は、よれた黒いコートに、折り目の無いズボンを引きずった中年男になっていた。そして横に立ち、目も合わせず何も言わずに・・・タバコをくわえた。 ふと、自然に手が伸びて、自分はジッポーの火を差し伸べた。 彼も自然に口を伸ばし、火を受け取った。目深な帽子の下で、蛍のような灯火が灯り、流れるように立ち昇る煙は港の風に巻かれて夜空へ散っていく。ふたりはそうしてしばらくのあいだ、港に浮かぶ赤い灯りの点滅を、ぼんやりと眺めていた。 やがてくくっ、と声がして、 「・・・苦労したからって成功するとは限らないよな」 ・・・ 彼がそのあと船で南米へ渡ったことが、たった一度きりの手紙でわかった。文面は形式的なもので、一切の仔細はわからない。もとよりわからぬほうがいいのかもしれない。本当に今南米にいるかどうかもわからない。 でも友情は続いている。 埠頭の赤い蛍は、友情の証しだった。 この左手の握手の痕とともに、自分の中で、生き続ける。 ・・・彼がもし、死んでいたとしても。 俺は便器を磨き続ける。 2000/11/28(tue) 人子は舞う様に晩秋を歩く。里男は思慮深くその足跡を踏む。良く手入れをされたびろうどの苔に、無造作な黒い足跡が続く。紅葉が頭上に降りかかり人子の唇に当たる。ほっと離れ背を越えると里男の掌中に舞い入る。唇を寄せたい衝に駆られながらも静かに払い落とした。小倉の山は盛りを過ぎ、これが最後の紅葉の園だ。散り際の美しさが心を和らげるのを里男はゆったりと感じていた。人子が振り向いて、何かを語り掛ける。わかっていたことだ。夢のように答える里男の唇が、ふと冬の気配に触れる。くしゃみをして我に返る。笑い乍ら遠くなる人子の後ろ姿をぼうと眺めながら、里男は只白々として居た。
人子の揺れる背。 紅霞の中にさくり、さくりという足音だけが響き、やがてさらさらと落ちる枯れ葉の中に消えていった。足跡と別の方向を向いて、里男は新しい苔の上に足をおろした。 コラー やっと僧侶の怒鳴り声がはぜた。 (1999/11) ぐつ
左肩に激しい痛みが走り咄嗟に右手の刀が突き上がる。ぼりという音に手応えを知る。くぐもったうめきに長い吐息、荒い毛の重み。 生温さ。 男は夢から目覚めた。吹き出る血にまみれしばし、もんどり打つ。何やら吐き、伏せたまま呻く。右膝を不自然な角度で立て、右掌を地に突き、次に突いたつもりの左手はそこに無く、また倒れ込む。傷口に何かが突き刺さる。男は震えた。 薄明かりがあった。 照らし出されたのは、白い骨の山、くたびれた皮の塊、死んだ痩せ犬、石積み、溶けかけた地蔵。そして蝿。 横に掘られた大きな墓穴であった。 背の動きが穏やかになる。男は弄るように右腕を伸ばし、突き立てた刀を引き抜く。それを苦労して腰元に縛り付ける。両膝を突き、腰を突き上げ、右掌で岩肌を掴む。効かぬ足、重い頭蓋を地に擦るように、体躯を前へと摺り動かす。動く度舞い上がる羽虫。朧げに浮かぶ明かりを頼りに、尺取虫のように。やがて右腕にも感覚が無くなってきた頃、木漏れ日にむせぶ斜地に転げ出した。 鳥の声がした。 山鶯、か。初めて人心地がついた。平和な山の昼下がり。遠い昔の記憶が蘇る。枯葉の湿り気、甘い匂い。 だがその中に、恐ろしい匂いが混ざっていた。 道まで攀じ登るのだ。気力を、一本の腕に集中させる。腐れ土を掴み、根を掴み、下生えを掴み、棘草を掴み、流れる血が掌に染みて、泥と混ざり合い、歯を剥いた口端に、粘る泡がこびりつく。 どのくらいの時が経っただろうか。男は動きを止めた。閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。目に映ったのは平らな道、すぐ脇であった。思い切り転げ落ち仰向けになり、激しく息をした。雑木の粗雑な梢間から、朱鷺色の雲が見えた。髭が揺れた。 雲が流れ去ると、男は横を向いた。草履の裏だった。その向こうに、顎から下の無い顔。眼窩がこちらを睨み付けている。ゆっくり上半身を起こすと、折れた旗が転がっている。赤黒く塗れた旗印が裂けている。心なく腰元を探るが、刀はどこかで失われていた。周りを見渡すと、丁度草履の男の横に、ひときわ輝く太刀が落ちているのに気がついた。男はじっと小柄な男に見入った。やがて目をそらさずに、手を伸ばして刀を取った。握りが抜け銘が顕れた。脂まみれの重い太刀であったが、毀れなく鍛えは確かであった。それを地に突き立て腕に力をこめて立ち上がる。生まれて直ぐ死ぬ仔馬のように、震え、脚をはすかいにして立ち上がった。目は草履の男に向けられたままであった。乾いた血にまみれていた。人形のごとき白い顔は右が無い。しかし僅かなその面影に、男は確かな記憶があった。 戦況は日に日に悪くなっていた。山海に囲まれ、天然の要塞といわれたこの都も、今や焼け荒れ果てたただの枯れ野である。連日の猛攻に兵は激減、残る者も疲れきり、冷静さを失っていた。かつて勇猛智将で名を馳せた北家和康、その子々孫たる将、高康は戦を好まず、日がな一日自室に篭り書画に没する日々を続けていた。陣頭に立つことなどなく、策はいにしえからの臣に任された。「男」は古くから北家に仕える農民武士であった。北家に何かあれば、鋤鍬を鎧刀に替え、その身を奉するという家訓。宅の最も高い所には神将和康の御像が置かれている。毎朝拝領小刀一本を掲げ、祝詞を挙げる。古い武芸の稽古、それが日課であった。高康に何百年の高貴を感じ、軍神の加護を信じていた。男は高康に対面したこともない。 真昼というに町中には人子一人居ない。男は道に仁王立ちとなり、長い影の行く末を見つめていた。埃が巻き起こり、小さな竜巻となって流れ去る。背後に人の気配を感じた。声をかけると、甲高い声が返ってきた。頭だけを振り向ける。幼さの残る瓜ざね顔があった。蒼白であった。少年の腰の、不釣り合いに大きく真新しい赤鞘に目がいった。太刀がかたかたと、小刻みに鳴っている。 父の仇を、討てというのです。 背をむけたまま、言葉を聞いた。少年の父親は高康に進言の許される武士であったが、とうに浜の砂と化していた。まずこのような年では、戦に駆り出されることは無い筈である。男は知っていた。最早兵が足りない。少年は単なる数合わせだった。 高康様は一体何をお考えなのでしょう。私は人を殴ったこともない。人を斬ることなど、どうしてできましょう。 … 高康様は日がな一日酒をくらい、今や刀も持てない有り様と聞きます。最早戦の指揮をとるような態ではない。みすみす死にに行けというのでしょうか。私は明晩母上と妹を連れて逃げようと… 逃げるだと、おのれ、それでも武士か。 赤黒く歪んだ顔で男は、振り向き平手を食らわせた。 おのれは只高康さまのご指示に従えばよいのだ。負ける訳が無いのだ。重要な策に、おのれのような餓鬼子をお取り立てなさったうえ、大刀までさげ賜るとは、何と慈悲深きこと。おのれは手柄を立て、高康様の情けに報いねばならぬ。 わしはおのが命などどうでもよいと思っておる。御父上も同じだった。北家様の世が末永く続くためには、今生など喜んで棄てようぞ。もののふとはそういうものなのだ。おのれとて御父上の死を無駄にしたくはなかろう。恥を知れ、御父上の血を受け継いでいるならば、二度とそのような迷妄を口にするではないぞ。 よいか、これから稽古じゃ。朝まで稽古じゃ。 男は強ばる少年の顔を軽くこづいた。しら菊が揺れるようであった。そして上を向き、から雷のような笑い声をあげた。轟きは空っぽの軒先をわたり黒々とした荒野を駆けた。果たして翌朝少年は頬に赤味が差し、身の震えは武者震いに変わっていた。誰一人とて往来せぬ月下路上でひたすらに真剣でのやりとりをするうちに、少年の切っ先は確かになっていった。やはり父上の血が流れている、と思った。男の目はだが夜半じゅう、太刀の鈍やかな光りをひたすらに追っていた。剣が当たる重い手応えを感じるごとに、見たことも無い高康の顔が浮かぶ気がした。 ・・・少年であったものの姿を横目に身を立てる。男の虚ろな目には何の感情も読み取れない。少年の濁った黒目よりも空しく、視線は路上をさ迷った。血が足に集まったようで、すこしずつ感覚が蘇ってきた。握りの抜けた太刀元の冷たさを感じながらずる、ずると歩きはじめる。目的地はまだ上方だ。屍の数は次第に増えていった。峠も近くなると、足の踏み場も無い程になる。見た顔も多い。否、男の知る全ての人間を含めて尚、上回る無数の顔が転がっていた。顔、顔、顔。男は激しい臭気に堪えながら、踏み越え踏み越えしていく。屍には慣れていた。これがどういうことなのかも分かっていた。男は其の眼で答を見る事を求めていた・・・しかし、繰り返し繰り返し、川石飛びをして遊ぶ少年の姿が頭を過ぎるのだった。死骸の隙を狙って歩く自分を重ねて、笑みが零れた。たかやす、という言葉すら浮かばない。奇妙なことだが、男にはもう何の考えもなかった。 暗い幻想の中に男の思いは溶け消えていた。何もなくただよろめく影に過ぎなかった。 道は遠く、其の先とて知れず、もののふという言葉を繰り返す男の、追っ手はもうすぐ下にいる。 未完 1999/2 < 前のページ次のページ >
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