怪談田中河内介・調査報告その2

(前段)

田中河内介については目下4つの記事をあげています(投稿順)。
http://okab.exblog.jp/8902701/
http://okab.exblog.jp/8933620/
http://okab.exblog.jp/9702433/
http://okab.exblog.jp/15541964/
これらご参照ください。。

(本文)
「その3」のつづき・・・

出席者>

泉鏡花(主催?)、喜多村緑郎、鈴木鼓村、市川猿之介、松崎天民(市川猿之助に聞く、田中貢太郎)
池田金太郎;池田彌三郎の父親(池田彌三郎、夢声;上記除く)
岩村透、黒田清輝、岡田三郎助・八千代夫妻、辻永、長谷川時雨女史、柳川春葉、市川左団次、松本幸四郎、河合武雄、吉井勇、長田秀雄・幹彦兄弟、谷崎潤一郎、岡本綺堂、阪本紅蓮洞(文士)、松山省三、石川幸三郎(新派俳優、死んだ人の直前の話者)ほか各方面に招待状を出したうえで六十数人(鼓村;上記除く)
鹿塩秋菊(都新聞1919/7/22、3)

趣向>

百物語とされているがどうやら、当時よく行われていた怪談会だったようである。(池田彌三郎、鼓村ほか)

「お化画と怪談 盆に因んでお化画展覧会と云うのが十二日夜京橋東仲通柳町の絵画堂で開かれた、入口に白い長提灯、二階三階にズラリとお化画が並んで凄い気分を漂わせる、三階にはお話しの座がある電燈を消して中央精霊棚の盆燈篭が小淋しくほのめくところで紅蓮洞、鏡花を始め画家文士俳優連が深更まで凄い話比べをやったが、此中で鼓村君の話は(中略)大分新らしい味があった」(万朝報1914/7/13三面記事)

~避暑地へ消える算段なく、火遁、水遁の術を知らず、女旱に雨乞の真似さえ成らぬ、われら式が、化けたればとて威せばとて、何のききめの有るものぞ、と気早に慌てる事だけは江戸児の早合点、盆の相談と聞くと斉しく、其の言訳の方人か、と日和も見ずして遁げむとすれば、画博堂の若主人、扇子づかいの手を留めて、呆るること十分斗。仔細を聞けば然も然うず、先へ驚いたのに縁のある妖怪画展覧会、まうけづくでは出来ませんと、薄羽織の襟を扱いて尻尾を見せぬも化けたりけり。実に然れど時節柄、女の膚の白い処へ、縁日植木の色を飾って、裸骸にして売りもすべきに、黒髪に透く星あかりを魂棚の奥に映す、世に可懐き催とよ。然も画家は顔を揃えて、腕に声ある面々也。妖怪知己を得たりと云ふべく、なき玉菊がチレチンと、露をば鳴らす燈篭の総、あはれに美しきを真先に、凄いのは愈々凄く、不気味なるは益々不気味に、床しきは尚ほ床しからむ。一寸懐をおいてけ堀と、言った処で幻のみ、其の議は御懸念全く無用。永当満都の媛方、殿たち、然りながら、扇子の匕首、団扇の楯、覚悟をなして推寄せたまへ、二階三階の大広間、幽霊の浜風に、画の魂の蛍飛んで、ゾツとするほど涼しかるべし。ちゃうど処も京橋の、緑の影や柳町と、唄のやうに乗気の告条。(泉鏡花「妖怪画展覧会告条」1914/7)

・・・欧化人間のダダやモダニズムの露骨な影響を受けた画風、特に粗暴な自刻版画の氾濫にあって江戸流の分業版画、再度の浮世絵ルネサンス「大正新版画運動」をのちに支援先導する立場となったこの「絵画堂」~現代日本画廊の元祖~を予告したような、軽妙な口上でいながらも古風な美意識をとく鏡花らしい宣伝文。連なる怪談会が流行の他愛の無いものとはいえこの頃既に「忘れられかけた江戸情緒」を再現しようというものであったことも伺える。江戸の伝統にそっていえば怪談会は真剣にやってしまってはとりつかれる。この科学萬能の時代にそんな馬鹿なことが!と一笑に付す気分もうかがえるが、実際には鏡花らも「本当の盆祀り」にしないように配慮してわざと「本式でない」祭り装飾をし、それでも禁を破って本物の供えをした人間がいて・・・祟られた、というこの話に至るわけであるが。

「鏡花全集28巻」岩波書店参照。画博堂には大正二年五月に宣伝文(報条)をも書いている。

新聞広告で会員を集めた(都新聞1919/7/22)

日時>大正三年七月十二日(東京の新しい盆の草市)夜七時から夜半(万朝報、鼓村)

(異説)
大正初年(父に聞く、池田彌三郎)
大正三年七月十三日(田中稔)
大正・震災前(市川猿之助に聞く、田中貢太郎)(喜多村緑郎に聞く、夢声)
(昭和初頭(夢声):推定。)
盆の十三日(喜多村緑郎)(喜多村緑郎に聞く、夢声)
(夏の夜、お盆前後(夢声):推定。)
夜六時から終電(都新聞1919/7/22、3)

死んだ話者>万朝報社営業部社員石河光治(万朝報1914/7/28三面記事)

「社員石河光治氏逝く 石河氏は前名清太郎、涼華と号す、鹿児島の人、初め和学を修め後絵画に就て後進を誘掖すること多し、明治二十九年十一月以来朝報社に入り広告部員たり、本月十三日急に病を発し二十六日夜半?焉として逝く享年五十六、今二十八日午前九時南品川東広町天龍寺に於て葬儀を行う」(万朝報1914/7/28三面記事)

~石河氏の名は絵画の旧蔵者名としてあがることがある。

(異説)
万朝報社営業部石河(鼓村)
万朝報の記者(河内介の暗殺犯の孫と自称)(貢太郎他)
背広の肥った男(市川猿之助に聞く、田中貢太郎)
頭の薄い年とった人、経済部にいたらしい(喜多村緑郎に聞く、夢声)
見慣れない男(父に聞く、池田彌三郎)
見知らない洋服を着た品のいい、暗い蔭のある老人(鼓村)

(異説)
飛び入りの、二十七、八の青い顔をした背のひょろ長い結核患者みたいな青年(長田幹彦)
(野暮ったい見知らぬ青年、後藤彦之進(仮名)の孫(夢声):伝聞か脚色。)

(関連)
この「直後」大流行したスペイン風邪で画博堂主人夫婦が死亡。画廊は昭和初期まで弟により維持(池田彌三郎)。但し氏によれば怪談会は大正初年となっている。スペイン・インフルエンザの世界的流行は大正7~8年であり、語り伝えということもあって混乱したのだろう。

記者の死亡により縁起が悪いと事件後3年ばかり怪談の会をやらなかった、との喜多村緑郎の話はこのハプニングのせいもあるのではないか?(スペイン風邪の話を絡めると、二度と行われなかった可能性もあるが・・・)

画博堂主人松井清七は大正新版画運動(大正4年~)に関連してその世界ではかなり有名。

※読売新聞の記事ならびに松井清七氏死去に関する調査結果をsamatsutei様がまとめている。リンクはこちら
http://d.hatena.ne.jp/samatsutei/20110112/1294839511#tb

(参考)月岡芳年の弟子松井栄吉(明治時代の版元、関連に画博堂の名も見える)との関連とか、・・・不勉強でわかりません。教えてください。具体的には岩切信一郎先生の文を読みたい。

松井栄吉は著作もあるが、見事な再版浮世絵による目録小雑誌(欲しい・・・)「美術宝庫」M28~29を画博堂として出版している。これの11巻までは確認できるが、12巻以降は不明。出なかったのか?奥付によればそ住所は以下である。

東京市京橋区南金六町四番地古代浮世絵商 発行者 画博堂

金六町は江戸時代からいくつか存在したが、「南」とすると恐らく柳町・具足町の橋むこう南側すぐの一角であったと思われる。近いとはいえ川を渡っているので、同じ店かどうか甚だ不明。

死亡日>

大正三年七月二十六日夜半(万朝報1914/7/28三面記事)

(異説)
翌日、即日、三日後(各話者、下記参照)


状況>

「私は(島津)久光公の派でありまして、当時勤皇の志士、宮家田中河内介が京都を下って、私の藩に投ずるため、一家眷属をことごとく引つれて海路薩摩をさして向ったとの報があったので、私と父は其の河内介の刺客たるべき資格を以て河内介の船に同船して出帆、ついに日向沖で目的通り河内介を害しました。私の父は河内介に当り、私はその妻子に当りました」といっていると突然小説家の泉鏡花氏が飛出して横合から「何でもあの殺し方は大変な残酷なことをしたというぢやないですか河内介の手足を舷に釘付けにしてやったというぢやありませんか。笹川臨風君の本かに書いてあったですよ」というと「そうです、そうして田中河内介が・・・田中河内介が・・・河内介が」と名前を繰返していたが舌が吊って物がいえなくなってしまったと思うとそのまま卒倒してしまった。一座は怖がって総立ちになって思い思いに帰って行った。残った二三人の人が石河氏を一間に運び込んで休ませ万朝報社に電話で聞き合せ、ようやく翌朝京橋南町の同氏邸へくるまで絵画堂主人が送って行った。石河氏は謹直な人で平常余りよそで泊ったこともない人だけにその夜は家では心配して妻子が夜明しているところへ、ものもいえない同氏が運び込まれてきた。驚いた妻女が同氏を抱えると言葉もでない様子だった。石河氏は早速高輪病院に入院したが田中河内介の名を呼びつづけて同月七月二十六日お化の画の展覧会の終った日に死んでしまった。(鈴木鼓村)

話の始め、自分の祖父が、と言ったところで言葉がもつれだし間も無く前のめりに高座から落ちた。会は白けて三々五々、十二時前には終わった。三日ばかりで脳溢血のようなものでなくなった。(市川猿之助に聞く、田中貢太郎)

河内介の話は縁起が悪く、真実を知る者も自分より他にいなくなったと始まり、「この文明開化の世の中に」という印象的なフレーズを入れて前置きしたあと、話がなぜか途中でまた最初に戻るといったふうで、皆だんだんと用事などで席を立ち、父も立ったが、帳場でタバコを吸っていると「まだ「文明開化」をやってますぜ、どうかしたんじゃないか」と降りてきた者が言ったところが慌しく降りてくる者がいて、誰もいなくなった瞬間に前の小机にうつぶせたまま死んでいたという。(父に聞く、池田彌三郎)


十二時には泉さんと帰るつもりだったのだが終わり間際に自席で話を始めた。藩の秘密一家の秘密と言って始めたらしい(トイレに行っていた)。泉さんも自分も身を乗り出したところ、わたしの父は、と始まり河内介とのかかわりを語り、藩に送る最中に血気盛んな若侍が河内介と家族を皆殺しにした、というところで話がぼやけてきて、ちょっと休むとまた、わたしの父は、と始まる。何べん話しても藩の秘密一家の秘密まで行かない。じっと目をつむったり天井をうつろな目で見上げたり気味悪く、しまいに頭を押さえて話が途切れた。途中で立って帰ったあと、泉さんに後日談を聞いたら翌日に死んだという。あの人は頭を押さえたまま皆がいなくなってもそうしていたとのこと。残っていた人が高熱に気づくが医者にも原因がわからず、名前も住所もわからないから困った。夜明けにやっと家人が来て、病院に連れていってそこで死んだ。会はそれから三年ほどやらなかった。(喜多村緑郎に聞く、夢声)

知った顔も知らない顔もあるというふうだったので話者が起立してさてと話し始めるより対話者を一人選びその人に話するのを外の人が傍聴するという形をとった。ちょうど私が聞き役に廻ったとき、話し始めたのが年のころ四十五六位の風体も立派な人で、すこぶる真面目に「自分の父はもと大阪の天満で蔵屋敷の留守居役を勤めていたのですが、文久年間に田中河内介父子がひそかに逃れて来て、何とか匿ってもらいたいという。父は骨を折ったがどうにも都合が悪くそのうち薩摩へ船で落ち延びるという一段になったのですが、それについては、藩の秘密、一家の秘密・・・」といって口火を切ったのですが聞き耳をたてる我々に対し続けるという風もなくうつむいたままで、しばらく考え込んでいるので、定めて感慨無量という話なのだろうと思っていたが、やがてやっと顔を上げて話し出したのには、「自分の父はもと大阪の・・・」で「一家の秘密」まで話すとぴたっと口を切って考え込んでしまう。一同ここまでは不思議に思わなかったのですが、またもや最初から始まる。十数回同じことを繰り返したところで気味が悪くなりすぐにも立ちたかった。隣の鏡花さんがそっと袖を引いてくれたけれども生憎正面に座り聞き役になっているので離れられない。そっと見回すと一人立ち二人立ちで人数はどんどん減っていく。私はその翌朝の汽車で、興行のために下関に出発しなければならない。旅立ちなら吉祥を願うものなのに、こんな変な場面でしょう、しかも其の前に出た弁当というのが蓮の飯ときて、おまけに芋殻に似せた箸が二本、床の間には生霊様が祭られて、座敷の周囲は暗い盆燈篭、という趣向なのだからたまらない。おまけにその生霊棚にお供えした二つの燈篭は、今話をしているその人が夕方に草市で買ってきて自分でちゃんと供えたとのこと(注;鼓村の話の中に開始前に画廊主人に対しお金を出して精霊棚へお供えをしてくれと頼む話者の一節が出てくるので、恐らく本当のことだろう、鼓村はこれら祀りものは全部単なる装飾だと主人に言われ心残りそうに帰ったとしている)。いったい怪談会では、何か趣向を凝らすと、それを気にかけた人が、きっと何かに遭遇するという迷信があり、またそういう事例も累々あったので、一切何もしないことにしていたのに、その夜に限って、こんな趣向があって、こんな調子になり、どうも何ともいえない気分になった。夜が更けていき自分も何とか理由をつけて帰った。下関興行を済ませて帰京すると泉さんが待ちかねて、君とうとう田中河内介は死んぢゃったよ、このことを早速知らそうと思ったけれども、手紙より逢ってと思って待っていた、と。後から聞くと散会後もただ一人で相変わらず藩の秘密一家の秘密を語り続けているうち、いつの間にかばたっと倒れていたところを下にいた人が発見して大騒ぎになり、医者だ氷だと手当てしたがついに帰宅したのち息を引き取った。もとより新聞記事で集まった人なので(注;これは会の広告のことだろう)、どこの誰ということもわからず、弱っていたところへやっと家人が来てある新聞社の人であったということがわかり、その時限り怪談会はもうよそうではないか、と中止したようなわけです。不気味なのは帰宅したあとわかったことで、その人の袂から蓮の飯と芋殻もじりの箸が、手もつけられずにそのままころころ転げ出たこと(喜多村緑郎)

(都新聞1919/7/22、3では喜多村の話をベースにしたような話が書かれているが、微妙に異なっている部分がある。たとえば田中河内介は自ら腹を切ったことになっており、繰り返す言葉が喜多村の「一家の秘密」を通り越し、「田中河内介が切腹をしました」に変わっている。出席者の退席順が明示されていることと泉鏡花がすこぶる恐怖し以後趣向を凝らした怪談会をやめたようなことが付け加えられている)

何遍かどもって「この話は門外不出」とつぶやいて妙な顔をしていた。河内介を殺したときは船板に寝かせて五寸釘で手足を打ち付け、苦悶していたといったところで唸って仰向けにばったり倒れた。両手で胸をかきむしり、医者を呼んで様子が変だという。帰った後落命したそうだ。(長田幹彦)

(一通り河内介に関する知識と、殺害後関係した人々が次々と死んだ話をタタリとして続けた後、語句が緩慢になり、不明瞭な口調になり、頭が次第に下がって前のめりに膳に伏した。幹事に揺さぶられると同じ場所、河内介が殺される前に恨み言を言わんとする場面に戻る(これは河内介が辞世の句を読んだときのことかもしれない)、それが五回続いて、しまいに死んだ(夢声):脚色。)

***


基礎資料>

◆田中河内介、続田中河内介:

徳川夢声「世にも不思議な話」実業之日本社1969~初出「怪談・田中河内介」雑誌「宝石」ほか雑誌「大法輪」「週刊朝日」(喜多村緑郎対談「問答有用」)「東京日日新聞」(呉清源対談「同行二人」)所収に脚色・後補*:この話は幽霊肯定派の夢声がさかんに尾鰭を付けて喧伝したために普及した。夢声自身は伝聞だが関連する怪異に出会ったと主張(何やらお岩様ふうの絡み方だが)。名怪談に数えられる。

◆異説田中河内介:

池田彌三郎「日本の幽霊」中公文庫2004改版1964中央公論社初出(高橋克彦編「日本の名随筆別巻64怪談」1996にも所収)*:氏の父親による実見から夢声説を「矯正」したものとして傍流的に知られるようになった話。夢声はこの文を受けて上記「続田中河内介」を書いた。

怪談会の怪異

田中貢太郎(東雅夫編)「日本怪談事典」学研M文庫~底本「日本怪談実話」初出不明、桃源社1974:同時代の文人に最も近しかった実話怪談の事実上の創始者による採録談で、夢声はこの流れを直接汲んでいる。上記文中、因縁を田中という姓に結び付けて書いているのは貢太郎をも意識していると個人的には思う。

・・・けっきょく今度のアンソロジーでほとんど網羅できてしまうわけね。

諸氏(このアンソロジーも?)参考にしている決定版的資料をあげておく。流れ着いた遺体を手厚く祀った小豆島の田中河内介顕彰会系の書籍として、

◆田中稔「田中河内介父子」1997小豆島法人会

田中河内介研究家として知られる田中稔氏の著作の中でもこの幕末の不運な志士にまつわる怪談にふれ、検証し一通り結論づけている項が注目される。

ここに出てくる資料を以下一覧化する。まだ中身をきちんと確認していないものについては上記資料の受け売り推定であることをご容赦。

◆亡父の姿:長田幹彦「霊界五十年」1959大法輪閣*:夢声の文を読んで真実を補足したいと書いている。文章自体はついでの挿話にすぎない。雑誌「大法輪」自体にその気はあるのだが、脚色・うろ覚えに過ぎるようである。この人は晩年は心霊の大家とされただけに言葉どおりに真実とは捉えられない。

◆新聞記事:「万朝報」1914/7/13:怪談会開催の事実についてのみ。この出来事に一切触れていないのが注目される。夢声の談では死んだのは万朝報の青年記者というが、実際は中堅らしく、敢えて触れられなかった由縁ともとれる。28日に死亡記事が出ているが、怪談会との関連は一切触れられていない(他項参照)。

◆田中河内介怪談:喜多村緑郎 雑誌「上方」1938/1/1維新勤王号に寄稿:明確に事物がかかれ信憑性は高いと思われるが、夢声との対談と若干食い違うようにも感じる。夢声より前に森繁夫氏に語ったことがあるというので、定番として持っていた話の可能性がある。怪談と銘打っていることから脚色が皆無とも言えまい。夢声の上記基礎資料には大変愛好していたとあるしそこにも詳細に当日の状況が語られているが若干トーンが違う(後述)。一般にも開放されていたためにまとまりのなかったこの怪談会の、主役級ではあったようだ。

◆怪談が生む怪談:鈴木鼓村遺稿「鼓村雑記」1934古賀書店/1996大空社(「アジア業書9」)復刊*:死んだ記者の名前など不明瞭だった情報が恐らくかなり正しく明示されている。民俗学的見地を持った人で柳田國男が序文を書いているが、もともと怪談に興味が強く同書にも収録されているとおり自作もたしなんでいるゆえ、文体からも察するに脚色があると思われる。話者の内容に事実と食い違いがある(河内介が自力で薩摩に向かう途中日向で殺されたことになっているし、俗説である「下駄を履かせた」話が事実として語られたことになっている。もしそう喋ったのなら余人の報告と食い違うし、あるいは話者自身の虚言ともとれる)。

◆怪談お祭り二、三:都新聞1919/7/22、3*

追加

◆泉鏡花全集巻之28 岩波書店

◆「田中河内介父子と中山忠伊父子の研究」亜細亜大学歴史学研究会 大植基久麿、山蔭基央1965/5/18

◆「維新史料 伝記二」野史堂、出版年不詳

田中稔氏著作文による二次使用については明確にわからないものもあるので省略。

海音寺潮五郎「寺田屋騒動」ほか司馬遼太郎関係についてはここでは史料とみなさない。

いずれ調べるかも。

*あと、たいていの検証系の本やサイトは豊田小八郎氏の著作群を参照しているが、小説化しているようなところもある。

その他、参考。

◆第三十九「虐殺の下手人」:豊田小八郎(田中河内介に関する書籍を早い時期に書いた)
「田中河内介」1941臥龍会
~河内介殺害の真犯人に関する記述中に、真犯人と称する人間が河内介の亡霊に脅かされた話が書かれている。河内介にまつわる畏怖と恐怖が当時どう伝えられていたかがわかる。しかしながら明治天皇幼少期の教父として高名な河内介を刺殺したと言う輩が多いことにも触れ、笑い話のように締めている。

*主要参考文献にあげてもいいもので、田中河内介について書く人は必ずこれかこの前身となった本にあたってます。顕彰会系。

◆呉清源の巻:徳川夢声「連載対談 同行二人」東京日日新聞1950/3/9~16:池田彌三郎氏の随稿に触れられている、河内介怪談に触れた記事(話自体は16日最終回に収録)。挿画(長新太)と注釈を除いたものが同名書籍(養徳社1950)にまとめられている。呉清源氏が幽霊肯定派であることから意気投合した次第。この連載自体が下品とも評された夢声本初期の意地悪な楽文でもあるため深くは書かれていない。前記書籍で十分であるが、幽霊に関するトンデモ説には眉唾しつつ注目。関連する大部分は上記基礎資料中に包含されている。

夢声の関連怪談はほとんどが他愛の無いことなので略。ここに出てくる大久保利通が暗殺に関係している説は既に明治天皇の世にあったことで他にも見られる話。司馬遼太郎は大久保主犯のように断定的に論じた。(大久保が殺されたのはタタリとする話(池田彌三郎))。「続」に出てくるS嬢の家にまつわる話も河内介殺害下手人の一人を自称する祖父のことで、内子の男子が早世するといい、この女性も体が弱いというが、祖父は長生きしたそうである。この人の持ってきた霊媒師の話にも河内介のタタリで水にとられた息子が出てくる。

その他鋭意なんとなく調べ中。
Commented by まりん01 at 2008-11-20 11:12 x
わたしは高校生の頃、修学旅行の夜、田中河内の介の怪談を
話し、翌朝、バス旅行をしたのですが、その地図に田中河内の介の墓を発見し、背筋が寒くなりました。
修学旅行先は、小豆島だったんです。
Commented by r_o_k at 2008-11-20 17:19
こんにちは、コメントありがとうございます。お墓自体は顕彰会、遺族と地元のかたがたにより手厚く護られているみたいですし、奇なものではけしてないと思うんですが、何か妙な偶然というか、奇妙な感じのするお話ですね。実在が疑問視される怨霊としてのお岩さんのようなものでしょうか。。そういうことって、気に留めていると、案外あることではあります。
Commented by samatsutei at 2011-01-12 22:41 x
はじめまして。
貴ブログを参考にさせていただき、松井清七夫妻についての調査などをアップしました。
リンクを張らせていただきました。ご笑覧下さい。
Commented by r_o_k at 2011-01-13 12:25
samatsuteiさま、大変ありがとうございます。読売新聞というのは灯台元暗しでした、参考にさせていただきます。たまたま本記事に付記をしようとしていたところで、偶然とはいえ・・・不思議でした。
Commented by samatsutei at 2011-02-05 22:30 x
昭和女子大学の紀要「學苑」第843号(2011年1月1日発行)に掲載の吉田昌志「泉鏡花「年譜」補訂(六)」に、この怪談会についての「読売新聞」の記事が出ていました。という訳で、当方、少々出すのが遅かったようです。機会がありましたら「學苑」を参照してみてください。松井清七の死亡記事までは出ていませんが、それはさすがに「泉鏡花年譜」に載せる性格のものではないからでしょう。
近々、私のブログの方にも訂正旁々、(2)をアップする予定です。
Commented by r_o_k at 2011-02-08 17:24
情報ありがとうございます。また参考にさせていただきます。
Commented by samatsutei at 2011-02-16 22:44 x
「東京朝日新聞」の記事を紹介しました。ご笑覧下さい。
Commented by r_o_k at 2011-02-18 15:52
ありがとうございます。記事に書かれております鼓村の怪談についてですが、遺稿集「鼓村雑記」所収の「亡霊から手紙」だと思われます。
Commented by samatsutei at 2011-02-18 23:35 x
有難うございます。『鼓村雑記』は『文藝怪談実話』が出た頃に見て、もう忘れていました(小山内薫が取り憑かれていた、という話ばかりが妙に印象に残っています)。少し遅れそうですが、確認してまた修正を出しておきます。
by r_o_k | 2008-10-17 01:15 | 不思議 | Comments(9)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31