怪談田中河内介・調査報告その3-2

exblogの使い勝手が今ひとつなので再掲し加筆修正していく。後半・参考文献はその2を参照してください。

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(参考追記)寺田屋と薩摩九烈士墓来訪記事リンク、ならびにsamatsuteiさんの調査結果記事へのリンクを追加。

(追加の修正)余りに資料ごとに書いていることが違うのでしょっちゅう変えてすいません。結局最初のがいちばん無難だった気もするんですがいちおう追記修正。少なくとも寺田屋の件は追っかけるとドツボにはまるなあ。あと、画廊の住所も難しい。。モダンな画を扱ってないと記録にも記憶にも残らないものなのか。

(修正)補記しました。田中稔氏の著作を参考にかなり追記しました。

(後追の後追)ちょっと不親切な部分を補記しておきます。さいげんがないのでとりあえずてきとうに。ひさびさ都立中央図書館に行ったら大改造中でびっくりした。

(後追)後記のちくま文庫本あとがきをもとに都新聞の記事を追加した。都新聞にまで出てたのか。。

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「語ると死ぬ」田中河内介怪談の伝説についてそろそろまとめたいと思っていたら来月頭に何とちくまの怪談アンソロジー「文豪怪談傑作選・特別篇 文藝怪談実話」にそのまんま田中河内介特集(*が所収予定の文)が組まれたらしいと言う怪異。まータイミングがいいんだか悪いんだか。まだまとまってないので(図表的な資料にまとめたいところ)来週の沖縄のあとに書く予定だが、途中経過と言うことでメモ。

勤皇志士として先駆けた田中河内介の名は戦前戦中派にとっては周知なくらいメジャーであることを付け加えておく。けして怪談と結びついて残っている名前ではない。

<前提条件>田中河内介とは(細部に異説あり)

但馬の医師(小森)家に1815年生。京洛にて学び権大納言中山忠能に仕え家臣田中家に婿養子として入る。有識有能の士と認められ詩歌にも堪能、折しも黒船来航の期、忠能に献策しながら忠愛・忠光の教育にあたる。従六位河内介として忠能の外孫にあたる明治天皇の養育係も勤めたとされる。諸藩志士との交わりから尊皇攘夷思想を強め、1861年西遊し帰洛後著した「安国論」で幕府より目をつけられる。主君へ難の及ぶのを避けるべく官位を返上し中山家より離脱、浪士として薩摩の激派に共鳴。1862年清河八郎と真木和泉守、有馬新七ら薩士若手を中心に島津久光上洛上京にあわせ決起せん、意気をあげるが久光は公武合体を堅持、大久保利通らを通して鎮撫にかかる。これを退け清河の脱落をへてのち公武合体派の公家・京都所司代襲撃等を企て5月29日(旧暦4月23日)伏見寺田屋で謀議中、再度の鎮撫使が現れ凄絶な戦闘となる。

説得による投降もあり(後の薩摩の大物が多く含まれる、駆けつけた河内介が偽りを告げられ説得にあたったともいうが他説あり)有馬ら八名が上意討ちの末クーデターは未然に防がれた。薩摩以外の藩士浪士が各藩送りになる中、河内介は薩摩へ送致を希望(一説には疎遠だった中山忠能が引き取りを拒否したとも事態の収拾を手柄とせんという上意による捕縛ともいう)。しかし河内介父子を含む総数五名が薩士と共に二艘の帆船に分け護送の名目で海路中、おのおの斬殺される。頭目に藩外の人間を置くことへの反感があったといい、事後には犠牲者の親族からも恨まれていたらしい。したがって誰かの独断説や私怨説もあるが、久光が(入れ知恵があったなかったにかかわらず)同舟の薩士に処分を任せた、あるいは命じたという説が一般的である。後にこの行為は同志討ちとして薩士士道の恥辱と語られた。

河内介は命運を悟ると辞世を詠み自ら胸襟を開いたという。しかし実際は紐や枷で身の自由を奪われ三方より無残に斬られたようである。同様に惨殺された長子(養子)左馬介と事件の首謀者の汚辱を一身に背負わされ播磨灘に遺棄、小豆島に流れ着き検死のち篤く葬られる(別艘の三名は古島にて樹木に縛りつけられ膾に斬られた。その一人は河内介の実甥である)。長らく遺骸は行方知れずとされ、三十年もの後に記録の確認が行われ判明した。検死記録によれば上記の様に惨殺された説がある程度正しいことになる。

聡明で人望もあったにもかかわらず時代に翻弄された不幸な人生、特に同志により卑怯とも取れる方法で暗殺されたと噂のたったのち各方面で同情を集めたようである。明治天皇も後に真実を問い、つたえ答に惜しんだと言う。一説には左馬介は生き残ったというが、河内介への同情が生んだ幻想かもしれない。

直後より祟りの噂が囁かれた。殺害八ヵ月後に大久保利通らを載せた島津御用船永平丸が播磨国明石沖で霧中操舵を誤り、平磯なる暗礁地帯に乗り上げ難破した。永平丸は遭難の僅か五ヶ月前に英国より大金で購入した洋船で、どうしてもがんと動かず後日やむなく爆破処分の憂き目にあった。薩摩藩内は河内介の祟りと騒ぎになった。一帯は「薩人遭難地」と呼ばれ、地元では恐れて通過時一言も発しなくなったという。同礁にはその後何度標識を付けても失われた。後年国産第一号というコンクリートによる灯台がとりつけられ、河内介父子の万年の常夜宝塔と豊田小八郎氏は記している。しかし小豆島の漂着遺体が本当に河内介父子であったなら殺害地点は小豆島の近辺ということになる。

直接殺害に加担した者に狂う者が相次いだといううわさもたった。下手人は明かされなかったが、寺田屋で生き残った「同士」と伝えられた。目付役四名を通じ上意にて同士討ちが命じられたという説が通説になっていた。実際は、路中やむをえぬ事情により、と端的に語られたものを総合しての推測のようだが、いずれ口外を禁じられたと思われても仕方の無い言い方である。

***

豊田小八郎氏は噂の三例を挙げ、一例目には名前は明示されない。伝聞として匿名の下手人が毎晩河内介の亡霊に苛まれ、発狂して刀を振り回した話を書いている。私怨ではなく国命であったのだと親友高崎五六のなだめを受け、母堂が邸内に河内介を篤く祀ったところ鎮まったという。

二例目には籤引きで決まったという柴山彌八と彌吉という兄弟の名が書かれている。弥八(矢八と書くのは誤り)が当たり、恐れおののき弥吉に役を任せたという。

弟はそのためのちに気が狂ったというが、そもそも東郷平八郎の従弟にあたる後の海軍大将柴山矢八の二兄(良助は謹慎、愛次郎は死亡)が連座した事件であり、名前からするといささか出来すぎている。記録上弥八・弥吉という兄弟の名は連座中に無い。ちなみに柴山矢八は三兄弟の末であり当時まだ十二である。

左馬助は死した橋口壮助の弟、「二郎」が殺めたとされている。

以上、事件の連座である広瀬重武氏の直話(但し殺害の件は伝聞か)ということになっている。狂った彌吉にまみえた、やはり連座の富田通倫氏も弥吉の狂気じみた後悔ぶりに真相を見たと書いている。

但し籤引きと兄弟説については別書に明らかに見える。同事件についてよく参照される海音寺潮五郎の検証推測本「寺田屋騒動」文春文庫にも記述があり、ある程度史実として認識されているようだ。研究家田中稔氏によれば小豆島への遺族訪問時の記録並びに事件に連座した柴山景綱の回想、同じく連座で柴山兄弟の類縁、三島通庸の孫三島章道氏の小説「寺田屋騒動」*にも信が置けるようである。

司馬遼太郎にも見える話だそうだが(未見)、柴山景綱(事件時は龍五郎)・是枝萬助兄弟が件の兄弟とされる。籤に当たった兄に換わって斬ったのは萬助であったという。前例は柴山という姓で混同が起こったのか。龍五郎は河内介と激派を統率する立場で親しく接していたともいうが、単に恐れをなして弟にやらせたという説もある。

左馬助を刺したのは橋口吉之丞であり、「兄のかたき」と叫んだという。非業に死んだ壮助のことである。有馬新七の「おいごと刺せ」の命で組み合う敵ごと涙ながらに串刺しにした吉之丞である。これもいささか出来すぎであるが、田中稔氏は遺骸の残忍な抉り傷の意味を推察している。

いずれの藩士もこの行為に後ろめたさを感じていたことは確かであり、藩命が絶対だった、というのも言い訳めいている。じじつ同舟の者がかなり喋っていたからこそ異説がぼろぼろ出てくるのだろう(海音寺潮五郎の著書も検証を待たず断定している部分すら他と異なっているところが散見され混乱ぶりが伺える)。

吉之丞は四年後に、呵責により切腹した。萬助は気がふれ、兄の庇護のもと延々69歳まで生を繋ぐことになった。

これが諸噂の根源とみてよいだろう。

ちなみに久光に取り入った中山忠三衛門の悪評に乗じ斯士の姦計と吐唾する説が多かったことは各書中に伺えるが、久光からの処分の意を暗示した書簡に基づく直命説も現在は強い。直接の殺害は大久保利通の命という説も依然濃厚である。明治天皇に河内介の消息を問われる場で、黒田清隆がわざと大久保に話を向け困らせたという話もあり、池田氏が触れている。海音寺潮五郎によればこれは小河一敏が明治天皇に明かした話とされている。(黒田の件は伊藤痴遊の講談もしくは週刊朝日の記事にあるというが「痴遊全集」第10巻維新秘話によれば明治2年無礼講の御宴で明治天皇に奏上したのはやはり小河であり、この件で大久保に目をつけられうだつがあがらなくなったとされている。小河は薩士が手足を捕縛し殺害したと発言し、大久保が何故抑えられなかったかと振るとうなだれていた、という。痴遊本もまた読本の体裁をとっているので確実な史料とは言えなかろう。寺田屋の件についてもいくつか書いている)。


* ”寺田屋騒動と三人兄弟”「寺田屋騒動」三島章道T11/7(T10/6/23筆)新潮社である。但しあくまで平易な文体の短編小説であり、しかも旨くない。歴史小説にはありがちだが、実録に私見が雑に混ざった半端なもので構成も場当たりだ。ここではS,M,Kの三兄弟が出てくるが、「柴山景綱事歴」山崎忠和M29/7(国会図書館の近代デジタルライブラリーで読めます)の「寺田屋事件之事」項にほぼ沿った内容を平易に書き直しており、その対照からして柴山竜五郎(柴山景綱)、三島弥兵衛(三島通庸、道路族の元祖。明治初期に県令として各地の開墾開発に尽力、不要なまでに道路を作り、建築や芸術振興にも功あった一方、庶民に過酷な態度を貫き自由民権運動を弾圧したことで知られる)、是枝萬助の三人であると知れる。実際「三人」兄弟であったのだろう。柴山は三島の妻の兄にあたり(今で言う義兄)同様に各地の土木や文化に尽力、しかし郷里の巡査におさまっていたところを三島に引き上げられ福島の二つの郡長として迎えられた。前後関係、警察官としての地位は不明瞭なところがある。

警視総監として在任中時代の象徴的な病死を遂げた三島は、ここでは権力闘争に疲れた柴山を開墾地福島にまねき生涯の住処とする道筋をつけたことになっている(柴山は実際に三島が県令時代に福島の警察署にいて福島事件にかかわった。信夫の文字摺石を掘り出したなどという話もある)。寺田屋の件に連座した誰よりも長生した80近くの柴山が是枝萬助の死に立ち会う話が主になっているが、先に逝った三島(最後の薩摩官吏とも言われる)に思いはせる場面が付記されている。

そしてクライマックスに河内介殺害の場面が出てくる。脚色や誤解もあるものと考えられる(日向灘で殺害した等)。三島章道は直接の立会い者ではないのだからこれ既に伝え話なのである。

それは萬介への極めて同情的な書きぶりだ。勇猛果敢さで皆に尊敬されていたものが、22で事件にかかわり、陰惨な殺害事件の下手人となり、25で気がふれ、隔離され厄介者扱いされていたのを、厭世隠居の柴山が福島に招き傍らに小農家を与えてのちは、遂に正気には戻らなかったが、乱暴せず少しずつ落ち着いていったとされている。

海音寺も書いているが偽物の錦の御旗などをかかげ志士を扇動したという(薩摩系の書物にそういう書き方のものはわりとある)河内介はあくまで相対的にではあるが(じっさいに斬りあったのは薩士である)「責を負うべき」立場にあったとも見える。

しかし年齢的にも学も出自も尊皇攘夷という見地からも誰より上の立場であったわけである。久光の立場をおもんばかった老臣の計で薩摩に身を寄せたいとする浪士「六人」の殺害命令が下されたさい・・・この「六人」という人数の誤りは他書にも見られる・・・主君への忠節(おかしなもので徳川に背いても藩主には絶対なのだ)とのジレンマに、誰もが苦悩し嫌がった。結局自分たちの失敗で久光に難が及ぶことを避けんと、籤引きにより三人の役目を選出したが、その一人が柴山だというのである(三名が三方から斬ったという俗説に一致する人数かもしれない)。

それを見ていて末弟是枝がかわりに自分にやらせてくれと言い出した。柴山家の跡継ぎで妻子もある兄、ひきかえ自分は妻子も無いし最初から死ぬつもりだったのだと。柴山は勝気にはねのけたが泣いて頼む是枝、まわりの同志も感じ、仕方なく譲ったのだ。

「日向灘」でいやに恐ろしい暴風の中、河内介らに死が告げられ、彼らも覚悟しており、立派に斬られた。

日向にある寺田屋騒動黒田藩受難者墓の写真はこちら。2011年5月に訪問。
http://okab.exblog.jp/15541964/

そのさい三人のうち是枝は惨めで、真っ青になり、震え涙を流した。気後れし切っ先が狂った。心中は幕府のために何故勤皇の志士を斬らねばならぬという矛盾でいっぱいとなり、そのあと俗っぽい繰言がかかれ、船が沈没しかかりつつも薩摩に着いた。だが程なく是枝は気がふれ乱暴を働くようになり、遂に座敷牢に幽閉。わけのわからないことばかり言って正気に戻らず・・・寺田屋事件最後の犠牲者となったのである、と。

「柴山景綱事歴」山崎忠和より多少補記すれば、この自費出版本に河内介暗殺の件はかかれないけれども、最後まで生きて国には戻れないと言い張った柴山、三島に目付の山口彦五郎、海江田武次が海路にて国へ戻れとの令書を突きつけ仕方なく伏見藩邸から小船三艘に同乗、大阪で改めてメンバーが振り分けられ二艘の帆船で薩摩にむかう。ただ、三島と柴山・是枝は別の船に乗ったことになっているのである。後者には左馬介を刺したとされる橋口吉之丞の名が見える。後者に河内介親子が乗ったことはほぼ間違いないだろう。

これには警護のために渋谷三之助と伊集院某、足軽数十人も乗っていたとあり、「実際に斬ったのは志士ではない、命を受けた用人だ」としたら・・・「実はうちの祖父が」などという後世の伝説は成り立ち得る。ただ、これでは卑怯の上乗せだ。後々になって河内介を斬ったことを大事を成し遂げたように自慢する輩も志士にはいたそうなので、そんなものかもしれないが。

嵐のくだりも見られる。神戸港から海上俄かに大嵐となり帆が破損、長州瀬戸に漂流し碇をおろすも風や波が怒涛のごとく、七本の錨縄のうち四本を断ち切り危うく沈没かと思われ誰も外に出られなかったという。大阪の河口を出たあたりから麻疹に罹患する者が相次ぎ、柴山は重ねて胃腸病を発症、おおいに痛み疲労し吐瀉下痢甚だしく苦難の末旧暦5月12日にやっと国に戻ったという。

これは人名事典にも載る話だが兄弟は幽閉蟄居のち、翌年旧暦6月鹿児島の浜に侵入してきた英国艦隊七艘に対し、食料等給与の名目で藩士が乗り込み英人を殺戮する計略に参加、一番艦ユラユス号への斬り込みを命じられる。ここで兄弟はまたも決死の覚悟をするも一番艦以外への乗り込みが失敗、はからずも九死に一生を得る。この本は軍国調で実際はもっと激烈な書き方をしている。

**閑話休題。




さて豊田氏の三例目には柴山景綱本人がかなり後になって下手人を自称していたとある。これも中山忠三衛門の命と言っている。土佐の維新志士出身田中光顕氏の言として、警視総監にあったさい、部下に薩摩の柴山景綱という者がいて、「河内介を船中で刺し殺したのは自分である。それは要人中山忠左衛門の命に依ったのである。」と語った。真偽はさておき、一つの暗殺に、さても自称下手人の夥しいことであると笑った、という。たしかに柴山は福島の警部であった。

豊田氏の書き方では、あまたある「河内介を斬った」という如何わしい「武勇談」の一つのようである。

少なくとも景綱は類縁の言うような隠居の人ではない雰囲気だなあと。

小説的に解釈すれば、弟の業を負うための発言とも思えるが。

***

全て「決して他言してはならない」という「決まり文句」と共に、「良心の呵責」の存在を無視した尾鰭がついた。

直接関係のなくなった世代において更なる拡がりをみせたようだ。

つまり家族や末代にも因縁が及んだ、激派は出世したが鎮撫使にかかわった者は不幸に見舞われた・・・何度も再話を重ね話は広がった。大久保利通の暗殺すら河内介の祟りと噂された。斬殺は惨殺の話と化し、紐で縛られ両手足を釘で板に打ち付けられ、「下駄を履かされた」状態で子供から順にサディスティックに殺されたのだ、という話もまことしやかになされていた(前記のとおり検死結果からある程度は正しいとわかる)。

河内介父子の遭難は山本有三により戯曲化された(「同志の人々」1924)。

上記事件は寺田屋の変と呼ばれるが、後の坂本龍馬暗殺未遂の事件とは異なる。寺田屋騒動、寺田屋事件ともいう。

現場の船宿伏見寺田屋は鳥羽伏見の戦いでも焼け残ったとされたが最近疑義が唱えられている。

寺田屋と薩摩九烈士の墓の写真はこちら。2011年1月に訪問。
http://okab.exblog.jp/14741954/

***

<事実として推察されること>

場所>

美術店「画博堂(松井画博堂)」(日本橋区東中通り(電車通り具足町の角)京橋そば、現存せず)の三階(父に聞く、池田彌三郎)、但し他資料中には大正3年3月時点で京橋区柳町東中通り(仲通り)にあったとある。位置については後述。

:四階で化物絵百余点以上の展覧会を26日まで開催することになっており、初日の趣向も兼ねてであったようだ。(万朝報1914/7/13三面記事)(鼓村)
;会当日は数々の気味の悪い装飾趣向が盛られていた。弁当まで蓮飯に芋幹という亡者向けの有様(喜多村、鼓村、長田、都新聞1919/7/22、3他)
;三階しかないその三階(都新聞1919/7/22、ちなみにこの記事は向島百花園での納涼怪談会の記事にかかれたものである。後述する夢声の百花園説はこのあたりとの混同だろう)

<画博堂の位置について>

戦前より現在に至るまでこのあたりの画廊街というと、銀座四丁目か銀座線京橋駅裏(東側)の一角ということになる。現在は分散しているし、離合集散して廃業代替わりも激しいゆえ本格的に調べないと詳細は不明だが、現在も画廊の散在する京橋側の一角であったことはほぼ間違いないと思われる。国立近代フィルムセンターの周辺であろう。

googleMAP

関東大震災、空襲、東京オリンピックにより、特にこのあたりは区割りや通り(基本的には変わらないが幅や数)ががらっと変わっている。震災前の住所に関する細かい検証はこのような傍証的なものでは不十分であることをご理解いただきたい。ちなみに大正三年精華堂版「東京市街全図」復刻版が発売されているので参照されたい。震災後の地図とは既に全く違うことに気がつくだろう。

・震災後戦後までの区割りでは京橋区にあたる(日本橋区は東京駅前の八重洲通り北側以北)
・東中通り;現在の昭和通りから中央通り側に一本寄った南北の筋*だが、昭和通りと言ってもいいかもしれない(安政年間の江戸切絵図日本橋や前記図を見ると現在の東中通りと昭和通りは無く、ただ真ん中に一本の筋で町名を分けているのみ。一般にはこの筋=昭和通りとされ対照図でもそう描かれるが、街割りや画廊群の実際を見るに*のほうがやはり適切に思われる)
・電車通り;市電ということであれば(銀座)中央通り、最寄停車場は京橋。

*「東中通り」柳町サイドから具足町サイドを見る(京橋三丁目七番地)。今も両の旧町に画廊が点在する。僅かだが古宅や古い平屋ビルが存在する。
b0116271_2322090.jpg

b0116271_23264664.jpg


以下は江戸時代からの町割りだがバス停留所名に残っていたらしい。現在の区割りとは厳密には一致しない(震災ならびに戦後の再編と開発で変わっている。)
・具足町(具足丁);都営浅草線宝町駅南西側、東西は中央通りと昭和通り、南北は鍛冶橋通りとそこから京橋側へ一本南の通りの間の区域(安政年間の図会だと南側は通りで別れるのではなくやや更に南側に入り込んでいる);ほぼ京橋三丁目七番地
・柳町;慶長年間以前の江戸の花街だが吉原柳町へ移転後「京橋柳町」と言い分けることも。安政年間の図会によれば太田屋敷ならびに具足町の東側(川(現首都高環状線)までの狭い区画)にあたる。鍛冶橋通りを真ん中に挟んで、ほぼ都営浅草線京橋駅ホームの東側一帯。
大正時代の区割りでは具足町の東側のみに狭まっている。

以下戦後オリンピック期の航空写真

電車通り具足町の角
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.45.57.897N35.40.13.040&ZM=11&st=4

(日本橋区)東中通り京橋辺り
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.45.57.897N35.40.13.040&ZM=11&st=4
京橋区柳町東中通り近辺
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.45.57.897N35.40.13.040&ZM=11&st=4

岩木先生の論考に画博堂に関するものがありいつか調べたいなと思っている。



(異説)
二階(長田幹彦)
白画堂の三階(市川猿之助に聞く、田中貢太郎):わざと名称をぼかしているものと思われる。
具足町(京橋中通り)の絵画堂(喜多村緑郎に聞く、夢声)
東京の某所の二階座敷(喜多村緑郎)
向島百花園(夢声):例会だったというが脚色。語り手とされるM氏、T氏も実在不明。




つづき
by r_o_k | 2008-10-17 01:16 | 不思議 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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