こちら手前の玉垣で囲まれ、見えづらいですが小社があります。これが梅若塚(関東大震災直後)とのこと。小さい塚であることは江戸中期以降記されていますが、奥に見える拝殿と位置がずれており、拝殿を本堂のものとすれば梅若塚とは別の遺構となり、現在の厳重な保管状況(ガラスの覆堂はここ近年のもの)はどういう理由なのかわかりません。
「ムメワカ」が梅若塚(大木の生えた低い塚)、「モクホシ」が木母寺で、石碑含め下の写真の配置を横から見た形になるので参考。ただし細かくは不正確だろう(塚の低い様子など他の浮世絵との乖離がある)。塚の位置も先の震災後写真と異なっている。本堂に、正面ではないが既に鳥居があることに注目。江戸時代の神仏非分離状態を伝え、明治になってから鳥居が建てられた云々の説はあくまで仏教要素を廃した改めての「敷地入口への」建立と捉えるべきである。
宮内庁収蔵の最古期の写真のひとつ。明治6年と推定。「各地勝景 一」より。アメリカの博物館にも同じ写真が収蔵されていた。鳥居、囲いと突き出し堂といった形式は既に完成されている。
同時期の写真。「尾張徳川家の幕末維新」では鳥居左に塚があったという(亜欧堂田善の図参照)。関東大震災後の写真に見える塚は移築再建の可能性が高い。鳥居龍蔵博士の本では連綿と続く歴史に紙幅を費やしているが、残念ながら当時の塚は幕末からいつの頃か失われていた。ただ、いずれ大きさはあんなものだろう。
時代の下った写真。こちらによれば突き出し堂が梅若塚堂、前記の通り、この時期にはホンモノの土盛りの塚は失われこちらに小塚が造られたと思われる。今のような溶岩塚に近いものでもあったかもしれない。
再びさかのぼって、井上安治が写した以下は梅若神社。明治初期より21年まで神社化を強いられ、廃仏毀釈の憂き目にあったのです。
明治二十年代、木母寺に戻った頃とされる写真(「明治の東京写真」より)同じですね。神社化のさい境内入口に角柱による鳥居を立てたようです。本堂側の鳥居もまだあることが透けて見えます。
(↓小林清親。清親は写真をもとに描いた最初期の日本人画家で、これは現地取材のうえ上記写真を見て描いたので間違いないと思います。閉じめに傘持つ女性と雨、木の省略は独自のもので、安治はそれか、下描きを模写したと思われます。画像より実物はもっと白い印象を与えます※。雨筋を対象物より白抜きして描いており、彫師泣かせの技巧を要求した結果、凹凸すら感じさせ、真夏の昼の豪雨が波濤の如く地面に弾けるさままで描かれています。独特の手法が取り沙汰されますが、雰囲気は超現実的です。なんとなく、安治を好む人もいるようです。実験的な清親より光線画、とくに陰影の再現に忠実だったのですね(光線画を捨て流行のポンチ絵や戦争画など明治風版画に走った清親に対して、若くしてなくなるまで、末流浮世絵を違う名前で出す以外は劇的な作風変化はしなかったようです。ただ色や絵は極端に単純派手ないし雑で明治っぽくなりました…同時代の末流浮世絵師同様)。安治は黒雲の引きかけた雨上がりを彷彿とさせる地面です。安治は黒い絵のほうが評価されがちですねえ。東京名所図会の松谷の絵で、閉じ傘持つ女性はさらなる引用でしょう。パロディかも?)
※摺り違いの多いのも清親で、こちらは黒ベースのもの。
〜明治十年ごろ、角柱鳥居はすでに見られる「東京そのむかし」 遡って幕末明治期の泥絵(「東都名所泥絵」)には洋画風の構図に此岸「向島梅若社」。しっかりした塚のように見えますね。しかし前記の通り江戸後期の書籍等では柳の木を生やかした小塚になっていたことは確定です。不正確でしょう。社とあることから既に明治時代に入っていたかもしれません。注目は鳥居。神仏分離から「寺を社にするとき鳥居を建てた」話というのは亜欧堂田善の銅版画からもやはり単純すぎる言い方でしょう。ただ鳥居の場所が違います(亜欧堂が正しそうではありますが、梅若祠を載せた塚に立てるのは自然です)。
元禄時代に遡って江戸名所記によると。
泥絵と同じく鳥居はありますし、大きさも大きい。まず泥絵は現地を見ずこの本を見て想像で描いた可能性が高いでしょう。しかしながらいぜん神社化=鳥居設置は誤解のある表現です。鳥居は神社イコールではありません。熊野権現の図など鳥居を多く描いており、もっとも神仏混淆しているせいかもしれませんが、稲荷社を許容する寺が多いことから近世でも鳥居はさほど忌まれることもなく、寺側からはいわば清浄な門のような扱いです。寺にあっても不思議はなかったわけで、これは人霊を鎮めるものですから分離前は社として鳥居を建てた。分離後に建てたというのは木母寺全体を神社化してから入口に作ったもののことでしょう。
これを古墳とし、今はなき業平塚などと大きな古墳群を形成していたという説は鳥居龍蔵博士の先の本にあります。たしかにどんどん失われはしたものの、元はちゃんとした塚であり、柳の木が植えられていて、枯れると次を植えなければならなかった、いや枯れてた切り株だけあった、など江戸時代にも既に色々語られる「塚」だったようです。真相は妙亀塚同様既存の塚に伝承を付加したといったものだったと思います。
〜江戸名所図会(ページ切れの部分)
(浅茅ヶ原が目前) 見立て絵の名所部分、寺っぽい近影
昭和三十九年時点。二代目とある。現存しない旧地再建のものだろう。初代は明治の時点で失われていた塚にあったのだろうが(前掲写真)、初代がわりとも呼べる拝殿は木造のため火災防止の条例および保護のためコンクリの覆堂に入っているのが上の写真のとおり。(「写真東京風土記」)
昭和41年時点での梅若塚。ほぼ旧景を保っていたことがわかる。数年後には急に拓け、移転します。
さて。
石造物でも有名でした。幕末の門前の写真(前記)でも大きな板碑が向かって左手に特徴的に見えます。
このゲートは水門です。防波堤の役割を兼ねた高層マンション群。
もいっかい西に渡って蛇行する隅田川の南側、南千住に。そこに「千住の歯神」山王清兵衛の祠がある。歯痛の余り切腹した武士が遺言によって祀られたもので、近隣の日枝神社から山王の頭語を付け加えられている。歯痛で詣でて霊験あれば錨を咥えた女の絵馬を納するという。(かなり廃れています)
東北の玄関口、芭蕉も立った千住大橋北むこうに橋戸稲荷があるが、ここの鏝絵は伊豆長八の手によるといわれる。保存がよく、長八作にしてはシンプルなところが逆に美しい。※レプリカらしい。9月の15日近く日曜の祭礼、ほか年に2日、土蔵造りの本殿扉内側の本物が公開されるそう。
で、千住宿に近づく、辻に高札場を見ておしまい。
さすがに春日部よりもダイナミックでスケールの大きな川のさまが見られるが、逆に中世にはこんなところで人々が営みを続けられただろうかとも思う。春日部は宿場の数でいうと千住から二つ目くらいか。歩いたことは無いけれど。