揺りかごから酒場まで☆少額微動隊

岡林リョウの日記☆旅行、歴史・絵画など。

2008/2/26現在の「隅田川」と「梅若」その他(芳年追加、関屋の里、妙亀塚補足切、泥絵追加、水神社、お化け地蔵図、そもそもの説明、俯瞰図、写真絵多数追加、追記、安治画を追加)

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前に春日部の「隅田川」史跡について書いたので、現在(というか江戸時代から)史跡として認められている東京の梅若関連と、その近辺のちょっと目にとまるものを。

※隅田川についてぜんぜん説明なく書いてきたので「写真東京風土記」から概略→
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※梅若権現絵巻(縁起)木母寺所蔵について→


隅田川べり向嶋図(該当部分)もあとの参考に載せておきます。
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:隅田川両岸景色図巻(葛飾北斎)部分、「北斎の帰還図録(すみだ北斎美術館)」より
文化二年、中央の森が木母寺、その右突端鳥居が水神社、対岸待乳山、背景筑波山、北斎は名所間の距離を縮めて書いているので続く部分は下と単純対照できない。対岸はこの先、新吉原まで描かれるが東岸はこれが突端となっていて往時をしのばせる。
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:東京名所図会(山本松谷)向嶋図の三、ほぼ同じ範囲(縮尺はこちらのほうが正しくこの右方向白髭神社など北斎図にないものが続く) 明治四十一年、隅田川神社とは水神社(スイジンジャ)の改名。木母寺先に工場ができていて雰囲気の変化を感じる。
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:亜欧堂田善「東都名所全図」部分、逆側からの銅版画。「ハシハワタシ」橋場の渡し「スイ」水神社「セキヤノサト」関屋の里「ムメワカ」梅若(関屋の里※は狭くは江戸名所図会にあるように千住の関屋町近辺をさすが(北斎が描いたのは千住仲町まであたりの墨堤という)古くは木母寺近辺〜千住の隅田川東岸一帯をいった)
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:その元ネタと言われる北尾政美「江戸名所之図」同部分を参考。銅版画のほうが克明なので前者をあげておきます。
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:宝永2年隅田河木母寺旧跡図(石川流宣)
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〜昭和三十年代の地図。昭和51年防災等都市計画160メートル移転まで古い位置にあった(空襲はともかく)。浮世絵に描かれた内川の引き込みが大きく残っている。水神の森がまだ記載されている。
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〜私が歩いていた頃の最後の地図。目を凝らせば以下出てくる地名がみえます。墨東はほぼ赤い道に沿う内陸の道が本当の墨堤で総て見ものはこちら沿いにあります(ありました、後述)。橋場もよく見ると昔の地図との対照ができます。「山手・下町散歩」昭文社

※関屋の里では花摘みなんかもしたようです
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参考、広重初代
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〜真崎から対岸の水神、内川から関屋の里方面をながめる
参考、北斎(派手なやつですが)
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、、、まずは隅田川西岸の橋場周辺。浅草、今戸の北にあたるこの地域は江戸時代は風光明媚、近年はコアな下町地域だったけど河岸のマンション開発がさかんになったおかげで景観が変化しつつある(西岸にかぎらないけど)。

台東区橋場1丁目近辺は浅草寺隅田川側からひろがる河川氾濫域の浅芽ケ原でも、嘆き悲しむ妙亀尼が入水したという鏡ケ池の所在した地域(北側にあったというから後述の妙亀塚はまさに池畔にあった)。
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(江戸名所図会、右上に鏡が池)

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(弘化改正江戸大絵図)見えにくいが総泉寺門前に「アサジガハラ」とある。
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(現在の浅茅ヶ原あたり)
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(江戸切絵図、幕末期)
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    浅茅ヶ原、鏡池、妙亀塚辺(絵本江戸土産、広重)
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        江戸名所古跡物語より(前半は下記)

関東大震災で移転した名刹、総泉寺の寺域にあたる。

まず関連物件と誤認されやすい采女塚。
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西の清川側、出山寺に所在。吉原も近い地域でもあり、江戸初期に僧侶が17の遊女に入れあげたが、厳しく咎められ自害。それをつたえ聞いた遊女、采女はそれを嘆き鏡が池に身を投げた。人それを哀しく思い塚に埋めた、それが采女塚である。同じ池に身を投じたからといって妙亀尼とは人間も時代も話も違うものです。ほんとうの妙亀塚はすぐそばの園地にあります。ピラミッド状のかなり整備されたもの。
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しかし頂の青石板碑は妙亀尼とは違う出自のものです。伝承上はしかしそう伝えられてきて、もともとは祠があり、ちゃんと祀られていました。古い写真では整備されない姿が写されていますが、いずれかなり印象が異なりますね。
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ちなみに明治中期はこんなでした。
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昭和初期にはこんなでした。
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関東大震災の影響でしょう。
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荒れまくり(下の梅若塚については後述)
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ちなみに寛文2年、江戸前期の「江戸名所記」(浅井了意)では総泉寺の図の中に妙亀塚がこう描写されています。時代柄距離感などまだ不正確でしょうが位置関係はこういう感じでしょうか。

この塚はもともと浅茅ヶ原の松並木にあり、のち総泉寺前に移し、さらに門前一丁ばかりの丘、即ち現在地に移したものだそうです。もともとこの塚は駿馬塚と呼び古墳で、瓦棺が発掘され、駿馬塚の碑のみ見られたそうです。(浅草の駿馬塚と混同?)
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ちなみに総泉寺の置き土産としては、一丁目の南西辻近くにあるお化け地蔵(東京名所図会によれば境内ではなく門前の通り沿いに立っていたようです、松吟寺というお寺のもので大正十二年補修したのが今)。有名だけどけっこう地図にはのってない。やはり吉原関連物件とされることもあり、向きが変わる、傘が動くというのは酔客の悪戯とも言われた。haunted jizouという英文の説明がなんか可笑しい。
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かつては木の祠内におさめられていました(「写真東京風土記」)。
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山本松谷筆の明治四十一年、総泉寺門前他が以下(「東京名所図会」復刻版より)画伯らしく牧歌的な風景となっていますが夜は通りづらい雰囲気だったとのこと。
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国芳の東都名所の橋場にもありますが、現在の姿との相違を見ると松谷さんは国芳に依っているかもしれません。
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河鍋暁斎の開化名所絵(一部)。巫山戯ている。
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月岡芳年の東京開化狂画名所シリーズより。夥しい数のある戯画です。
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北側、明治通り近くの橋場二丁目21番地には平賀源内の墓。なぜかこのお墓だけ板橋に移築されませんでした。もともとの墓地では高く台を設けた上に置かれていました。(路上の標柱が元位置とも)
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白髭橋をわたり荒川と隅田川に挟まれた大きな洲の頭にあたる鐘ケ淵近辺に入る。隅田川が大きく西に蛇行し、東の荒川との間に旧綾瀬川がある。もともと隅田川自体が荒川といった。鐘ケ淵は舟の難所で、舟から落ちた鐘が水底にあるという伝説からその名がついた。
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〜鐘ヶ淵手前小松島の風景(明治時代)「東京そのむかし」より

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(江戸切絵図より墨堤北部、この景勝道は戦後埋め立てられ今は内陸に旧墨堤として存在します。)


洲には戦後まで舟の目印となっていた自然の森が残っていたけれど、今は都営住宅と高速にすっかり景観を変えられてしまった堤通二丁目あたり、隅田川沿いにまず水神社。
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これも100メートル移築されているそうだが、元はこの地域の総鎮守で、江戸時代には海(汽水)と川の境目でいわば玄関守のような役割を果たしていた。頼朝ゆかりともいい、木母寺の管理下にあったという。ここが面白いのは狛犬が亀なこと。亀というよりガメラ(小さい)。裏の小祠にとろけて摩耗した同様の亀があり、旧狛犬かも?
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           名所江戸百景(広重)
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           絵本江戸土産(広重)
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〜対岸真崎方面を望む(明治時代)「東京そのむかし」
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〜参考:対岸真崎から遠く望む(北斎)
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その北隣の木母寺も都営住宅にどかされ川側に移築され、非常に現代的な建築になっている。音曲に霊験あらたか、それもそのはずここが、妙亀塚と対をなす稚児、梅若塚(若宮塚)のある寺である(木母は梅という漢字を崩したもの)。現在の寺域に旧覆堂(明治中期)の保存庫と並んで鎮座している。
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双六より
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江戸名所図会より
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火山岩の塊が露座しているからちょっと奇妙に見えるが、戦災で砲弾の跡が痛々しい覆堂(拝殿)の中か先もしくは脇にあったものである。この塚は再建ですが、伝承もろとも戦前から怪しいと言われており、本来妙亀の脇に一緒に葬られるものではないか、と推測されてもいました。尤も鳥居龍蔵博士の本によると妙亀塚より梅若塚の方が遥かに有名で重要視されており、室町時代後期から書物等により連綿と歴史が辿れるようです。
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〜最後のみ2019年(さらに整備されている)
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〜梅若母子観音像(新造)覆堂軒には第二次大戦弾痕(破片痕)がのこる、少し前まではガラスの保存庫もなく野晒だった。もともと明治前期に神社になってから寺に戻ったとき、ここを梅若社として寺と分けたもの。上は2019年。下は1976年。
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前記した空襲前の写真によれば松のそびえる古色蒼然とした寺であったようです。
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明治初期〜前期
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「江戸名所図会」より、江戸後期の水神社〜木母寺。位置関係はこれでよくわかります。
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「東京名所図会(風俗画報)」より、明治中期の木母寺境内。玉垣の一部が塚のニ面に残されているといいますがそのようなものは見当たりません。
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明治初期〜前期頃
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同じく明治中期の銅版画。俯瞰。逆側ということでしょうか。

前記写真、
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こちら手前の玉垣で囲まれ、見えづらいですが小社があります。これが梅若塚(関東大震災直後)とのこと。小さい塚であることは江戸中期以降記されていますが、奥に見える拝殿と位置がずれており、拝殿を本堂のものとすれば梅若塚とは別の遺構となり、現在の厳重な保管状況(ガラスの覆堂はここ近年のもの)はどういう理由なのかわかりません。
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ちなみに亜欧堂田善「自隅田川望南之図」部分。19世紀初頭頃。
「ムメワカ」が梅若塚(大木の生えた低い塚)、「モクホシ」が木母寺で、石碑含め下の写真の配置を横から見た形になるので参考。ただし細かくは不正確だろう(塚の低い様子など他の浮世絵との乖離がある)。塚の位置も先の震災後写真と異なっている。本堂に、正面ではないが既に鳥居があることに注目。江戸時代の神仏非分離状態を伝え、明治になってから鳥居が建てられた云々の説はあくまで仏教要素を廃した改めての「敷地入口への」建立と捉えるべきである。
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宮内庁収蔵の最古期の写真のひとつ。明治6年と推定。「各地勝景 一」より。アメリカの博物館にも同じ写真が収蔵されていた。鳥居、囲いと突き出し堂といった形式は既に完成されている。
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同時期の写真。「尾張徳川家の幕末維新」では鳥居左に塚があったという(亜欧堂田善の図参照)。関東大震災後の写真に見える塚は移築再建の可能性が高い。鳥居龍蔵博士の本では連綿と続く歴史に紙幅を費やしているが、残念ながら当時の塚は幕末からいつの頃か失われていた。ただ、いずれ大きさはあんなものだろう。
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           絵本江戸土産(広重)
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           江戸名所古跡物語
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              双六
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         北尾政美「角田川木母寺」
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時代の下った写真。こちらによれば突き出し堂が梅若塚堂、前記の通り、この時期にはホンモノの土盛りの塚は失われこちらに小塚が造られたと思われる。今のような溶岩塚に近いものでもあったかもしれない。
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再びさかのぼって、井上安治が写した以下は梅若神社。明治初期より21年まで神社化を強いられ、廃仏毀釈の憂き目にあったのです。
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明治二十年代、木母寺に戻った頃とされる写真(「明治の東京写真」より)同じですね。神社化のさい境内入口に角柱による鳥居を立てたようです。本堂側の鳥居もまだあることが透けて見えます。
(↓小林清親。清親は写真をもとに描いた最初期の日本人画家で、これは現地取材のうえ上記写真を見て描いたので間違いないと思います。閉じめに傘持つ女性と雨、木の省略は独自のもので、安治はそれか、下描きを模写したと思われます。画像より実物はもっと白い印象を与えます※。雨筋を対象物より白抜きして描いており、彫師泣かせの技巧を要求した結果、凹凸すら感じさせ、真夏の昼の豪雨が波濤の如く地面に弾けるさままで描かれています。独特の手法が取り沙汰されますが、雰囲気は超現実的です。なんとなく、安治を好む人もいるようです。実験的な清親より光線画、とくに陰影の再現に忠実だったのですね(光線画を捨て流行のポンチ絵や戦争画など明治風版画に走った清親に対して、若くしてなくなるまで、末流浮世絵を違う名前で出す以外は劇的な作風変化はしなかったようです。ただ色や絵は極端に単純派手ないし雑で明治っぽくなりました…同時代の末流浮世絵師同様)。安治は黒雲の引きかけた雨上がりを彷彿とさせる地面です。安治は黒い絵のほうが評価されがちですねえ。東京名所図会の松谷の絵で、閉じ傘持つ女性はさらなる引用でしょう。パロディかも?)
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※摺り違いの多いのも清親で、こちらは黒ベースのもの。
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〜明治十年ごろ、角柱鳥居はすでに見られる「東京そのむかし」

遡って幕末明治期の泥絵(「東都名所泥絵」)には洋画風の構図に此岸「向島梅若社」。しっかりした塚のように見えますね。しかし前記の通り江戸後期の書籍等では柳の木を生やかした小塚になっていたことは確定です。不正確でしょう。社とあることから既に明治時代に入っていたかもしれません。注目は鳥居。神仏分離から「寺を社にするとき鳥居を建てた」話というのは亜欧堂田善の銅版画からもやはり単純すぎる言い方でしょう。ただ鳥居の場所が違います(亜欧堂が正しそうではありますが、梅若祠を載せた塚に立てるのは自然です)。
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元禄時代に遡って江戸名所記によると。
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泥絵と同じく鳥居はありますし、大きさも大きい。まず泥絵は現地を見ずこの本を見て想像で描いた可能性が高いでしょう。しかしながらいぜん神社化=鳥居設置は誤解のある表現です。鳥居は神社イコールではありません。熊野権現の図など鳥居を多く描いており、もっとも神仏混淆しているせいかもしれませんが、稲荷社を許容する寺が多いことから近世でも鳥居はさほど忌まれることもなく、寺側からはいわば清浄な門のような扱いです。寺にあっても不思議はなかったわけで、これは人霊を鎮めるものですから分離前は社として鳥居を建てた。分離後に建てたというのは木母寺全体を神社化してから入口に作ったもののことでしょう。

これを古墳とし、今はなき業平塚などと大きな古墳群を形成していたという説は鳥居龍蔵博士の先の本にあります。たしかにどんどん失われはしたものの、元はちゃんとした塚であり、柳の木が植えられていて、枯れると次を植えなければならなかった、いや枯れてた切り株だけあった、など江戸時代にも既に色々語られる「塚」だったようです。真相は妙亀塚同様既存の塚に伝承を付加したといったものだったと思います。
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〜江戸名所図会(ページ切れの部分)
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(浅茅ヶ原が目前)
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        見立て絵の名所部分、寺っぽい近影

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昭和三十九年時点。二代目とある。現存しない旧地再建のものだろう。初代は明治の時点で失われていた塚にあったのだろうが(前掲写真)、初代がわりとも呼べる拝殿は木造のため火災防止の条例および保護のためコンクリの覆堂に入っているのが上の写真のとおり。(「写真東京風土記」)
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昭和41年時点での梅若塚。ほぼ旧景を保っていたことがわかる。数年後には急に拓け、移転します。
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さて。

石造物でも有名でした。幕末の門前の写真(前記)でも大きな板碑が向かって左手に特徴的に見えます。
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宇賀神のなかなか立派な像もある。へび観音と称して習合されています。(この玉垣こそもともと上記塚の玉垣だったかもしれない、明治時代の玉垣は移転後も一部に転用されていたが木造朱塗となったといい(前掲写真)2019年現在は再び石造となっています)
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妙なものと誤認してはいけない。
都営住宅9号棟がもともとの寺の場所である。裏側に梅若公園という児童遊園が小さくあるが、そこに元梅若塚の場所がある。
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元木母寺の公園。榎本武揚像が残る。
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このゲートは水門です。防波堤の役割を兼ねた高層マンション群。

もいっかい西に渡って蛇行する隅田川の南側、南千住に。そこに「千住の歯神」山王清兵衛の祠がある。歯痛の余り切腹した武士が遺言によって祀られたもので、近隣の日枝神社から山王の頭語を付け加えられている。歯痛で詣でて霊験あれば錨を咥えた女の絵馬を納するという。(かなり廃れています)
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東北の玄関口、芭蕉も立った千住大橋北むこうに橋戸稲荷があるが、ここの鏝絵は伊豆長八の手によるといわれる。保存がよく、長八作にしてはシンプルなところが逆に美しい。※レプリカらしい。9月の15日近く日曜の祭礼、ほか年に2日、土蔵造りの本殿扉内側の本物が公開されるそう。
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で、千住宿に近づく、辻に高札場を見ておしまい。
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さすがに春日部よりもダイナミックでスケールの大きな川のさまが見られるが、逆に中世にはこんなところで人々が営みを続けられただろうかとも思う。春日部は宿場の数でいうと千住から二つ目くらいか。歩いたことは無いけれど。

by r_o_k | 2008-02-26 20:50 | 旅行 | Comments(0)

by ryookabayashi