ほうおうがほのうにあらわれた話

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なんとかの頭も信心から、とまでは言わないが、70年代にこれに類する話はたくさんあって、中でも某仏教系宗教団体などが宣伝に使用しだしてからはメディアから一気に消え去った様子がある。蝋燭とかならともかく不定形な炎なんてほんと、偶然さまざまな形をとることは当たり前なんである。ましてや似た姿の写真があるから、ってのは・・・このように手をあげる姿がなんでヨハネ・パウロ二世(英語ではジョン・パウル二世)の姿と特定できるのかまったくよくわからない。選挙演説中の候補者とかだって片手あげるだろ。でもそういう中途半端なスケプティカルな態度なんて誰でもとれるわけである。この炎を人間、しかも亡くなった教皇と思う人の心のほうに問題はある。私はそれはけして悪い問題ではなく、信心の一種真摯さのもとになされた報道であるとしたら全く誹謗する対象たりえないと思うのですが、みなさんの心には何が残りましたか?<テレ東木曜洋画劇場にかつて出ていた妙に水っぽい映画評論家の女性の決まり文句

ttp://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/news/worldnews.html?in_article_id=487764&in_page_id=1811

ポーランドで二周忌のさいに撮影された写真だそうである。ぶっちゃけデイリーなんですけどね(但しソースはバチカンのメディア)。もう数日たってるので日本メディアでもどっか押さえてるかもしれない。もっとも宗教には弱いからなあ日本のメディアって。当たり前のことではあるけど。

物証を求めないのが本来のユダヤ系キリスト教だと思うんだけど、西欧がかかわっちゃうと姿にこだわるのね(幽霊という概念はキリスト教圏とアジア圏ではかなり異なるものであったりもする、ゴリゴリのキリスト教者にとって幽霊は最後の審判を待って眠りについている肉体とは切り離せない「人間そのもの」・・・だから屍を始末すると幽霊(おおむね吸血鬼)も消滅するという話があらわれたりする・・・かそれ以外の単なるモンスターで、アジア圏では同じような概念もあるもののきほんは肉体を離れた魂魄の魂のほうなんである。見えない世界への旅路につくか、この世に蟠るかのいわば「肉体から脱皮した”人間だったもの”」)。

アジア的感覚からすると神やそのかかわりのもとにある者は姿を見せないってとこで神性(神秘性)を保つものなわけだ。庶民宗教化の過程でわかりやすく布教を広めるために具象化偶像化がなされ、それが結局形式化された物証主義な宗教と思わせるものになったのである。日本の仏教なんて寧ろそんな過程がわかりにくい概念を生んでると思う。なんでこんなにたくさん仏像があるの?と昔思ったもんだ。一人の人間が分裂してこれだけの数になったの?とか。併合吸収された宗教の神が仏下にまとめられてなおさらわかりにくい。東アジアに一神教は余り馴染まないんだろうなあ、そういうところで多神教的な側面があらわれ、また原理主義的な思想が揺り戻しを行い、宗派が限りなく増えていく。
by r_o_k | 2007-10-21 13:08 | 不思議 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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