揺りかごから酒場まで☆少額微動隊

岡林リョウの日記☆旅行、歴史・絵画など。

なあご、

顔を向けると、猫が居た。人の眼をして居る。

顎のあたりを掻いてやると、猫のように喉を鳴らした。

どこから入ったんだろう。

からん、と音がして、庭木戸が揺れる。女が居た。

憮然とした様子で、こちらを見詰める。猫は益々身を摺り寄せてきて、膝にあげてやると、そのまま丸くなり、白い息をしはじめた。

顔を向けると、縁先迄女は来ていて、片手を突いて眼差しを向ける。

何、それ

知らん、勝手に入ってきたのだ

何で膝に乗っているの女はもう片方の手をぐっと伸ばした。思ったより距離は無かった。

鷲掴みにされた猫は、声も立てずにぶらさがった。

捨ててくるわ

女は猫の眼をして居た。黄昏の空気が少しばかり濁った。

私は抗う事も無く、したい様にすれば良い、と言った。

からん、

女の姿が消えると、庭の緑を強く感じる。遠くで何か売る声がする。

庭木の影が長くなって、木戸の辺りを曇らせている。
なあご、

顔を向けると、猫が居た。
人の眼をして居る。

もう顎は掻くまい、と目を背けると、もう膝に登っていて、白い寝息をたて始めた。

何、それ

女が居るのはわかっている。目を向けずとも、手は伸びてきて、猫は消える。わかっている。女は猫の眼をして居る。

ごつん、と音がした。

畳が目に迫った。止めど無く流れる血潮が、目玉を黒く染めてゆく。

左目を僅かに上げると、太い足首が在って、その上にあの女が居る。

左手の刃物が、油気を帯びて輝く。

妻の後ろには若い女が居て、呆けた様な顔をしている。裸だ。鈍い痛みが襲ってきて、遠く蝉の声を聞きながら、背を震わせる。沫のはぜる様な音が口唇から漏れ出て、やがて意識は痺れる様に、消えて行く。

消えて行く。

ぱちりと音がして、気が付くと眠り込んでいた。頭の後ろに柔らかい布の感触が在って、湿った体温が伝わって来る。額に手を遣ると、潰れた蚊が僅かな血を撒いていた。優しげな眼差しを見上げると、口元が僅かに上がるのが分かった。

良く眠って居たわ。

・・・良く眠った。

もう夕飯の支度をしないと。

・・・うん、俺が作る。

そそくさと立ち上がると、背を丸めて庭先へ出た。振り向くと薄暗い部屋に座る妻が見えた。紺色の絣が黒い畳に溶け込んで、白い顔だけがぽっと浮かんで居る。つと背に走るものがあった。

ああ、猫の眼だ。


了(2000/6)
by r_o_k | 2007-07-17 11:19 | Comments(0)

by ryookabayashi