ねむたい時間
2001年 01月 01日
ぼくは枕元に置かれた「肉塊」を見た。白い網目状の繊維がうす桃色の地膚を覆い、巡る小さな肉管が紅い液体を循環させて、どくり、どくりと動いている。
「・・・過労ですね。暫く外に出しておいた方が良いでしょう」
医師は一瞥もせず立ち去った。付き添いの上司が無表情にその後を追う。
人間は誰でも同じ時間の中に生きていると思ったら大間違いだ。君には君、ぼくにはぼくの時計があって、それぞれの時間を生きていくために、それぞれの時を刻み続ける。
夜鐘が死を告げるまで。
ぼくは人一倍速く時を刻む。だからこうやって時々外へ出し、虫干ししてやらないとならない。ふと雲が太陽を隠し、陽射しが緩んで、顔を覆ったカーテンの影が揺れた。
季節が廻っている。
かつては仕事場のみんながぼくを尊敬してくれていた。上司の受けも良かった。
なぜってぼくの時間は速かったから、人生万事が順調にいっていて、そのうえ更に激しく遊んでもいた。とにかく眠りもせずによく働けるものだ、と思っていたら、
ある日、目の前が真っ暗になった。
ネジが切れたのだ。
緊急手術でなんとかネジをまいてもらって、ぼくの時は再び動き出した。
迷惑を掛けた負い目を感じつつも、半年ほどで職場に復帰した。だが周りが気を遣うあまりたいした仕事が廻ってこなくなってしまった。気ばかり焦ってやることがない。この時計の刻みを無駄にしたくはないと上司にヒトコト言っただけで、さらに閑職に飛ばされた。
ふと強い風が窓を乗り越え、甘い香りを運んできた。沈丁花だ。
沈丁花の根にはちいさな黄金虫が付く。夏のある朝一斉に羽化して、地上へ顔を出す。
キャラメル色の甲虫がたくさんたくさん、薄明の中に顕れては、次々と飛び立ってゆく。
あとには小さな丸い穴が無数に残る。沈丁花は子沢山の母親のように、毎年、甲虫を飛び立たせていたっけ・・・子供の頃、庭に沈丁花があった。
そんなことを考えている。
「胡座をかいた人間の台詞だな」
ぼくの時計が嫌らしい声で呟いた。気にすることはない。今ぼくは時間の外にいるのだ。真新しいシーツの感触は軽やかで、風が吹き込むたび宙を舞うような心地がする。ちらちらと木々の葉擦れが影を落とし、床の上に不規則なモザイク模様を描いて見せる。水晶の輝きをもった雲が、熱さに耐え切れなくなって眩い火球を放り出す。ぱっと照らされた水差しの花が黄金に輝く。
「ああ、気持ちいい」
「・・・まったくいい御身分だよ。」
「気持ちいいんだから仕方が無い」
「みんな働いてるぜ、ガリガリ、ガリガリ。」
どくり、どくりとあいもかわらず時計は蠢きつづける。ぼくの中にいない限りこいつは何もできやしない。
「みんなあんたを追い越して、そらアイザワなんて課長だぜ。なんてザマだ。同期で一番優秀だっていわれたおまえが、今や標語のポスター張りか」
鳥の影が部屋をよぎった。目を上げるとひよどりの尻が一瞬見えた。
「ポスター張りだって重要な仕事さ」
「ポスター張りで過労だって?わらっちゃうぜ」
思わず噴き出しそうになった。
「だってあれきりおまえがすぐネジきれるのだからいけないのさ。もとはといえばそこが原因だろ」
「・・・」
そろそろ陽が陰ってきた。一眠りしようかと思う。
「ゆっくりいこうぜ、まだ人生は長いんだから」
「・・・長いと思ってるのか?」
顔を上げた。時計の動きが少し緩んだ。
「なんですぐネジきれるか知ってるのか?医者はおまえに言わなかったのか?」
何を言いたいのかがわかると、ぼくは軽く笑ってみせた。
「知ってるさ。だってたいがい刻むのが速い人間の時計は」
そこまで言って眠気がさし、ぼくは言いかけた言葉を喉の奥に仕舞い込んで、カケスのわらう声を遠くに聞きながら、まどろみに入る。時計は夕陽の長い陰りに、寂しそうにひとりどくりどくりと動き続けている。
医師はこうしていればまだ10年はもつというが、時計のことは時計が一番良く知っている。多分近いうちにゼンマイが断ち切れる。そして最後に、けたたましく鳴るのだ。
「ジリリリリリ!!」
ぼくは生きているうちに生きていることの素晴らしさをもっともっと感じていたい。
しかしこの時計が体内に戻されると、その気が失せて、うっくつしたポスター張りの仕事を、人の何十倍の速さでやり続けることになる。例え意味の無い速さだとしても、ぼくはそう生まれついてしまったのだから仕方ない。
・・・だから、最近は戻す手術の前に必ず、こう言っておくのだ。
「ひと月したら又、ぼくを過労だと言って呼び出してください」
切なる顔に、医師も肯くしかないのだ。
2000