歳時記:2017年春〜夏 深川、駒込、赤羽、日本橋、茅場町、調布、目黒、谷中、維新の動乱追記

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赤坂喰違の変

紀尾井坂の大久保利通暗殺の前哨ともいえる事件。
明治七年一月十四日岩倉具視を狙った旧土佐藩士による暗殺未遂事件。武市熊吉をはじめ9人が検挙され、江戸以来の武士の方法で伝馬町において処刑されている。九烈士の墓は後になって高知の名士により建てられたもので現在は寺院とともに移転し中野上高田にある。前年の征韓論争で西郷隆盛、板垣退助らが退陣したことが、征韓論にとどまらず常日頃より不満を持つ士族の不満を昂ぶらせた。特に西郷板垣らと共に軍官職を降りた一部土佐藩士より岩倉、大久保は恨みを買い、うち岩倉が赤坂離宮帰りの喰違坂で襲われることになった。夜間のことで狙いが定まらず軽傷を負わせるにとどまり見失った結果命拾いした。岩倉は精神的にダメージを負ったといわれるが、大久保は不平分子の排除を重んじすぐに事態を収拾すべきと3日で九人を検挙させた。銘文によれば西郷隆盛などは死は免れえないまでも、寛大な処置を望んだという。だが刑死者の墓標を建てることははばかられ、遺体は戻されなかったと聞く。正式にはこの九士之墓が同事件に連座した者の供養塔となっているが、しばらく時をおいてそれぞれの遺族がそれぞれの田舎に墓標を建てている(調べてらっしゃるホームページがあった)。しかし、九人全員に身寄りがあったわけでもない。当時は身寄りのないものが率先して死ににいくような時代の気風が残っていた。最初の写真はうちの墓にある「岩田さんの墓」。ここに連座している「岩田正彦」の墓として、先祖が建てたと聞いている。「彦」を「寅」とし少し削っているのは、この墓標を建てる時点でまだ供養が許されていなかったのか、烈士の最年少であることから正しい名前が伝わっていなかったのか、理由ははっきりしない。身寄りなく天涯孤独とのことだったが最近親戚筋であることがわかった。ここに記録しておく。
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4/15深川資料館通り(紀伊国屋文左衛門墓(現在立入禁止))

5/27駒込妙義坂・染井(セーラー服地蔵、大ムカデの絵馬)

7/29赤羽(お竹墓、旧岩淵水門(赤水門))

8/9地獄絵ワンダーランド展・現行日本橋開通時の写真位置は?・翁稲荷(明徳稲荷、日枝神社内)

ちなみに山型の鳥居ステッカーを配ったりしているが山王神社でそういった山王鳥居を設けているほうが少ないとのこと。

8/12目黒大円寺五百羅漢 キリシタン羅漢?
(大火の火元として長らく堂宇を作ることを禁じられ、五百羅漢レリーフも被災者の冥福を祈る目的ははっきりしているが誰が作ったものか、配置も含めて変更や追加もあったよう謎が残る。堂内に入らないとはっきり見えないが、(元)吉三の彫ったお七地蔵は拝見できるものの、元大円寺下に庵を営み今は大円寺に併合された(元)吉三の像もあるとされる。但し本尊右手にあるというが外から見ることができない。その他、大黒天は家康の顔をまねた功徳あるものとして非常に有名だった。背後に平安仏の顔も見える。国重文の清凉寺式(鎌倉時代前期)は正月のみ開帳だが他はいつでも外からなら覗ける。墓地は檀家以外不可。キリシタン羅漢については以下参照。例の記号論的なキリシタン炙り出しなのでかなり疑わしいところもあるが、以前「目黒キリシタン」について項をあげたとおりたとえば権之助坂にキリシタンが潜伏していた話があり、早い時期に行人坂上の高台(大円寺を見下ろす位置)に刑場と投げ込み寺が作られた可能性があるという。造成時に大量の骨が出土したからである。

8/15水木しげる先生お墓参り

by r_o_k | 2017-08-29 13:18 | 旅行 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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