2005/6/4大江戸怪異重箱突つき

・・・と銘打っていきますが、ようは会社帰りに寄ろうと思っていた東京の「ちょっと怪異ゾーン」を一気に廻ってきたわけです。日曜が雨になると聞いてびっくりして昼にでかけたのですが、夜に予定があったので駆け足になってしまいました。四谷なんかは何度行ったかわからないゾーンですが、今回もまた見逃した場所があったりして、また行く事になるでしょう。ま、とりあえずケータイで写真とりまくってきたので、きほん的には写真集のノリでいきます。文章はそのうち気が向いたら。
b0116271_09503661.jpg

出発地は丸の内線四谷三丁目。

四谷大木戸からそんなに遠くはない旧甲州街道沿いに「お岩水かけ観音」がある。お岩さん縁の旧田宮屋敷を含む四谷左門町は戦争でかなりの打撃を受け、お岩稲荷をはじめとしてことごとくが焼けた。戦後貞女お岩さんを奉ずる人々の尽力でお岩稲荷は再建復興を遂げたが、その中心の一人となった大店の御主人が余力?にて昭和49年自分のお店に作ったのがこの観音さんである。

すぐ近くの笹寺。正式には長善寺。この地域にそぐわない広々とした見晴らしのよいお寺で、めのうの本尊をまつっている。古地図でもこのあたりは細長くひろがる笹原になっており、今の印象と一致する。

:江戸時代に繁栄した古寺では必ず見かける万霊塔。ようは無縁となった古い墓石の山。足下で六地蔵さんがしっかり導いているのが頼もしい。庶民の味方、如意輪観音が工業製品のようにまったく同じ片膝でずらり並ぶのも江戸ならでは。

:ちょこんと佇む明治の疾風怒涛絶倫凶悪殺人犯、稲妻強盗坂本慶二郎の墓。寺の建てた供養墓か、絞首台の露と消えたのも僅か34歳、伊藤博文の落とし種「伊藤正隆」を自称して紳士然として各所に出没した超有名人。劇や小説の格好のタネになったというのも皮肉な話。稲妻小僧という名前だけはさんざん今でも使われているのに当のゴホンニンはなんだかさびしげだ。

:丁度お祭りでした。外苑東通り沿いの左門町公園。

:お岩稲荷前の静かな路。向かいに陽雲寺の幟。

都史跡、於岩稲荷田宮神社。こちらが元祖、田宮家の屋敷社。江戸初期寛永年間に同心の貧乏武家であった田宮家をマスオさんと共に商家奉公で興隆させたお岩さんが深く信心したのがこの小社だが、お岩さんの幸にあやかろうと詣でる人のために100年後に於岩稲荷社として独立、ところが200年後爛熟の文政年間、四世鶴屋南北のおかげで俄かに祟神となったお岩さんを鎮める社のような扱いをされるようになった。「東海道四谷怪談」でお岩さんを演じた三代菊五郎が参拝しさかんに宣伝したせいでここに詣でないで芝居興行を打つと死者が出る、などのウワサが出た。神社は妙行寺という田宮家の菩提寺に勧請されたが、寺自体は結局巣鴨にうつり(20世紀になってからの話)菊五郎が通ったお岩さんの墓も一緒に行ってしまった。田宮家累代の墓の中に古様の層塔が別個に建てられていて、こちらでも貞女お岩として祭っているにも関わらず祟神として扱う参拝者は絶えない。立派な「お岩通り」商店街まであって、田宮神社(明治時代に改称)の閑静とは異なり意外とお岩色が強いゾーンになっている。ちなみにこの社の近辺を東西に走る左門殿横丁は通称鬼横丁、お岩さんが嫉妬の夜叉となって走り抜けたというまことしやかなエピソードを持っている*。近所のマンションで怪奇ラップ現象、などといった話が今時分になってもまだ語られているが、それはどう考えてもお岩さんじゃないよ。社は江戸時代から何度も壊滅の危機に晒されているのだが、いちばんの危機は戦争であった。石以外の全てのものは焼け落ちて、再建は成ったものの半分田宮さんの住居となって鎮座している現在、慎ましやかなさまはお岩さんの原型に重なってなんともいえない因縁を感じる。

*但し古地図をあたるとこのあたりの武家屋敷並びで横丁という名を持つのは甲州街道を縦、即ちお城を上としての横道となっており、さするに外苑東通りこそが「鬼横丁」ということになる。じじつ、幕末の地図では外苑東通りになる道(この大通りは東京オリンピックのために拡張整備されたもので、元は左門町を縦切る小路だった)に「左門ドノ横丁」と書いている。(左門町をぶった斬る外苑東通りの写真は2005/6/18大江戸怪異くりきんとんに掲載しました)

:お岩稲荷は今でも田宮家が守っている。明治初期に芝居小屋に近い場所ということで当時の田宮屋敷に建てた分社が越前堀にある(後述 *2)が、こちらも同じ田宮家の人が管理している。ちなみに「田宮神社」と改称したのも明治時代。この陰陽勾玉、ふたつ巴紋は田宮家の家紋。それにしてもつくづくこのあたり一区を屋敷地としていた田宮家がこんな小さくなってしまったとは皮肉(引っ越しして戻ったらしいが)。しかし社殿は来るたびにリフォームされて綺麗になっていっている気が。

*2 このあたりの経緯は平成の初頭に編まれた荒俣宏監修田中聡著「怪異東京戸板がえし」に詳しいがどうもこの本、ちょっと怪しい情報も含まれており、最近文庫で再編されたものではどうなっているのか、持っているけど確認する気がないので何ともいえない。つかこのての本は装丁の気楽さからも予想がつくとおり考証の形を借りた幻想ガイドブックなので、寧ろそういうものだと思って楽しむが正解なのだが。ちなみに同じ明治時代にパリのマルド公園にも田宮神社が(越前堀からの分社として)造られたというが、誰か現存状態を確認してくれないかな。突拍子もないことだがパリ万博で四谷怪談の興行でも打たれたのだろう。さて本家騒動を起こした別口のお岩稲荷もあったというから、都合四個所のお岩稲荷が存在する(していた)事になる。大人気だ。

:テレ東の新・四谷怪談の提灯が見える。

:伏見の山を巡ればわかるとおり、お稲荷さんの祭られ形態は多種多様、不謹慎な言い方をすれば珍奇なものも多い。そこが土俗を感じさせ面白いのだが、怖くもある。

:猫みたい。鼻が無いのは戦争か。

:家屋から突き出た拝殿はほんとに小さい。。

:お向かいの日蓮宗陽雲寺(立正殿於岩稲荷)。いろいろと言われてはいるが元は同じ田宮屋敷内の社、こちらはお岩さんの生まれた場所と産湯をとった井戸があるということになっている。亭主の浮気に霊験あらたかという噺は洒落。

:お岩さん生誕碑。恐らく戦災で割れ「地」の字が無い。

:ゆかりの田宮家井戸。でかい。

次は丸の内線に乗って茗荷谷駅へ。かなり遠回りだし歩いても行ける距離だけど、時間が無いので電車で一気に来ました。四谷とは雰囲気が全く違う鄙びた谷筋、しかし石の色や地名に江戸の香りがふんぷんとする。このあたりは春日通りに近いが深い谷に降りるため喧騒が届かない。文京区ならではのガクセーの姿も多いものの、煩くはない。

:茗荷が生産されていたから茗荷谷。緑が多い寺町ゆえ雰囲気は残る。

:超近代的な林泉寺。しかし石仏が多く配され古寺の趣ものこす。このあたりの石仏は四谷同様元禄期の古いものが多い。

:石段の中段にタイルの広場を設けて綺麗に整備された、これが「縛られ地蔵」。江戸庶民の民間信仰をつたえる。石仏自体はやはり江戸前期の古いものだが保存がよく、品川の縛られ地蔵(願行寺)のように縛りかたも端正でやさしい(?)。縛られるようになったのは造られた時期より随分後だろう。荒縄で縛って厄除け・盗難除けの願をかける、大岡政談の南蔵院(葛飾)「縛られ地蔵」の流れを汲むもので、「江戸砂子」にも登場。地蔵をしばいて願いを叶えろと強要するというのはいかにも身勝手な江戸人らしい。五円玉がくくられている。縁結びの願だろうか。

:罪人のようだ。

:深光寺は立派な古寺である。

:古い墓石が寺下の崖面に並べられている。四谷同様、このあたりも無縁となった江戸人の墓石の堆く積まれる風景がよく見られる。古い町である証拠だ。薮の中に広がる石仏風景は密やかに壮観。ちょっと不気味。怪奇スポットと言ったら祟られそうだが。

:帰ってきた鐘。品川寺をはじめとして流出もしくは供出後戻ってきた鐘というのはけっこう多い。

:「著作堂」滝沢馬琴墓。まさに奇談を愛した作家ならではの眠処ではないか。

:江戸人という文字がふるっている。膨大な著作を産み出したことを称えるなかなかわかりやすい銘文。

:この屋の下で兎園会が開かれたのです(比喩)。

:元禄銘の見事な石仏が瞑想する昼さがり。

:蛙坂。このあたりは起伏が激しい地形ゆえ坂が多く、それぞれに由緒ある名がついている。この「蛙」は「復る」の意とされるが、両脇に棲む蛙が合戦したという伝説も付帯している。じめじめした谷筋であったことを思うと蛙や河童が出るのもわからないでもない。

:辻に地蔵が立つ。藤の綺麗な藤寺こと伝明寺。左に春日通りへ登る短い坂が禿坂(かむろ坂)。藤坂とも呼ばれた。

:かむろとは諸説あるが河童のことであるという。今は河童が出没したとは思えない雰囲気だが、藤寺の先に清水があり、その水が河童の棲める小川を作っていたのだろう。

:藤寺の先にある清水観音。信仰する人々多くこの石仏にも尾張屋寄進の銘が大きく見える。十一面。後ろの道祖神が珍しい。江戸まで溯る翁おうなの像は東京区部では殆ど見ない。

:左の線路部はもともと川筋、際に住宅が並んでいたそうで、このあたりに実録怪談作家の田中貢太郎の住居があった。つくづく奇談文士の町である。

:きりしたん坂と呼ばれる坂は茗荷谷を挟んで二つある。これは春日側の小坂。正確には庚申坂といったが漱石は由来を知らずに暗くてきびがわるいといっていて、話者によってはこちらがほんとうの陰惨なキリシタン坂だという人もいる。じっさい見た目ちょっと変というか、坂がばくりと削られて階段になっているのも怪談ぽい(駄洒落か?)。このあたりがいわずと知れた江戸の暗部、キリシタン屋敷界隈となる(実際屋敷があったのは逆側)。徳川の世になってすぐ、造られたキリシタン奉行の屋敷では禁制のキリスト教徒の収容、拷問が日々行われ、一部の者にはわざと贅沢をさせてスパイに仕立てて放っては、更なる摘発を行った。たとえば穴の中に吊るして数日がかりでアタマを血だるまにし拷問死させたりなどの狂気、あるいは品川など各所刑場にて磔にし屍が朽ち果ててもおろすことを許さなかった。当然陰惨なめにあった者たちの天国からの反撃もあってしかるべきだと思われるが、江戸の世できりしたんはそもそも禁句、黒魔術を使う悪魔というイメージの植え付けられたままに人々はそのての著述を残さなかった。

:坂上から谷をみおろす。高架がなかったころを想像する。今、高架下になっているあたり奥に川があって、橋がかかっていた。これが「ごくもん橋」、幽霊橋と呼ばれた木橋である。前記のとおり由来は余り伝えられていない。その名からすればキリシタンもやはり祟っていたのだろうか。名が悪いとのちに庚申橋の名がつけられた。ちなみに坂下に庚申塔は残っていない。

:ふうふう言いながら自転車が登ってくる。このかなりの急坂を自転車で一気に下ったのは志賀直哉だったか。

:谷へ降りかえして高架下をわたる。陰うつな雰囲気。夜は勘弁だ。

:橋の袂に制札があり、ひとびとを震え上がらせた。キリシタン圧政の現場である。

:谷むこうにわたって小日向側、これが正式に「切支丹坂」と呼ばれている坂。左右にキリシタン奉行の井上筑後守下屋敷、牢や取り調べ所を兼ねたいわゆる「キリシタン屋敷」があった。案外短い。巡回中の警察官に聞いてもすぐには正確な位置が出てこなかったほど忘れ去られているらしい。どの坂にも標識があるのにここにはない(界隈でいちばん有名な坂だと言うのに)。登って少し右へいくと屋敷あとの標柱がたっている。道が小さく入り組んだ古い住宅地といった風情だ。向かいの寺町とはかなり雰囲気が違うように感じた。ひろびろとしている。江戸初期の話だからもう400年弱。さすがに恨みも消えたか。

:坂上から谷をのぞむ。

:昔はこんなものなかったのだが。そして、この標柱の横に並ぶのが、私が長年(?)探してきた「八兵衛の夜泣き石」である。

:石は3、4個ある。私が聞いてきた話だといちばん右の小さな地蔵の首がわりに載っているのが八兵衛石なのだが、「キリシタンの八兵衛が穴の中にさかさまに生き埋めになり、その上に天国へ行けないように置かれた重し石」とするには小さすぎる。昭和初期の本に三角形の石(板碑のような縦型の大石)だという記述があり、そうするといちばん左があやしい(埋まっていそうだ)。でも、まあ、「その後石からは泣き声や言葉が聞かれるようになり、「八兵衛、苦しいか」と尋ねるとごとごと揺れるなど異変が続いた」という怪談(異説あり)を勘案するならば、人型をしていたほうが「それらしい」だろう*。この石はもともとこのあたりにあったカトリック教会が移転とともに持ち去ったものである。その教会が併合されたのがカテドラル教会で、つまりはこれこそが私が別項に書いた「カテドラル教会の泣き石」*2なのである。教会が穢れを忌んでこの地へ戻したのか、経緯を知る者はいない。この場所に八兵衛が埋まっていないことは確かだ。

* 今は別名で文庫化されている比較的新しい書籍、田中稔(荒俣宏監修)「東京戸板がえし」に載っている写真は恐らく上の石が外れた地蔵部分を撮影したと思われる。右横に写った切支丹灯篭(織部灯篭)はカテドラル教会に残されているが、この本の更に10年前の本では今の配置のとおり、四角い伝承碑を右にして置かれている。教会ではけっこう邪魔者扱いされて動かされていたのか。文庫では写真は割愛。

*2 2004/9/25「カテドラル教会泣き石消滅」の項参照。「泣きモノ三題」にも書いてます。

:大きく見えるが身長30センチくらい。晴れててよかった。曇ってたら何か煙立ちそうでコワイ・・・

上の石に触れて「八兵衛苦しいか?」と言ってみたが、体にしっかり接着されて揺れないようになっていた。。

:右の石は由来を書いているが読み取れない(それほど古くはないと思うのだが)。カテドラル教会の茂みの中に一緒に置いてあったもの。

:ちなみに背後はこんな感じ。この道はキリシタン坂ではない(もともと道ではなかったのだろう)。住んでてコワイことなどないのかな???

さんこう:カテドラル教会に寂しく取り残された織部灯篭。十字架ぽいから残したのか?あと、右は茂みの中に沢山放置された石。この中にホンモノの夜泣き石があったりして。中にはじっさい碑文が書かれているものも・・・何か顧みられないさまが寂しくもブキミだ。

:古い住宅地だ。ここは小日向公園。高台で背後は寺の墓地になっている。

:公園奥にちっちゃく佇む甘酒婆地蔵?*。どうしてこれが地蔵なんだか理解に苦しむが、そういう伝説があるらしい、どういう伝説か調べる気になったら調べる。

*調べた。これは甘酒婆地蔵じゃないそうです。この高台から右脇の「やかん坂」を廻って降りると墓地の本寺、日輪寺があるが、そこの本堂脇にホンモノがあるそう。ごめんくさい。お間違えなく。参道にいた甘酒売りの婆さんをまつったとてもほんわかした由来のものらしいです。しあわせ系。近いうち切支丹屋敷範囲確認を兼ねて行ってみます。

日輪という名前からすると日蓮宗なんだな。江戸時代、日蓮宗の坊さんはとにかく法力が強いと思われていたみたいで、のちには人に狐をつける呪力があるといってやたら生臭い噂を立てられていた。目黒現円融寺の蓮華往生(犯罪)も力の強かった日蓮宗を貶める幕府の意図的な風説だったといわれているが、ひょっとしたら伊豆の7人の祟る坊さん伝説も日蓮宗だったのだろうか・・・つか日蓮宗か。蓮着寺あるし。このへん百鬼夜話参照。宗派闘争はかなり激しかったみたいですねえ。そうそう、怪し坂としての属性をもった「やかん坂」とか前記「かむろ坂」という名前の坂が江戸にはけっこう存在した。「やかん」という響きが「夜半に坂の上から”やかん”のバケモノが転がる」という民話に繋がったことは想像に難くない。じっさいは「クスリの缶」ということで坂のそばに薬師医師が住んでいたとかいう謂れが殆どのようだ。野干の字をあてて狐が棲むような薄暗い坂という意味にもとられている。

だいたい江戸時代は徳川が意図的に平民の識字率を抑えたため言葉が「漢字とひらがなと口述」の三様に拡がり、相互の混乱が起こりがちだった。バベルの塔だ。漢字の意味を誤解して広がった、というか江戸人特有のユーモアだったのかもしれないが読み替えて洒落にしたのが洒落として伝わらなかったもの、あるいは音だけ同じ別の漢字をあててつたえたのが表意文字として認識されてしまったもの、もしくは意味は一緒だが別の形容(差別的俗称)でも呼ぶ人がいたのが、別の形容からの誤解的連想をされてしまい本来の意味からずれてしまったもの、いずれも元の言葉の意味とは全く関係の無い他の属性を産み出した。「やかん坂」などその象徴的なものに思える。「かむろ坂」については坂下に湧いた泉でいつもかむろ、アバウトに言えば短髪の子供たちが遊んでいたという話がいつのまにか皿ハゲ髪型の変な子供、即ち河童が群れていたという話にされてしまったり。四谷の禿坂も河童由来説がある。所謂「身分の高くない」子供が人にあらずとみなされていたため最終的にそういう噂になった可能性も高いように思えますわ。

:このあたりにも万霊塔はある。やはり元禄くらいの古いものが多い。生西寺。

:新渡戸稲造さんも住んでました。


・・・というわけで、次は丸の内線を折り返して淡路町へ。ここから秋葉原の怪所を経由してお玉が池、更にのっぺらぼうが出た地蔵橋跡から観音に「成った」お竹さんの井戸あと、小伝馬町牢跡をへて、小伝馬町駅から日比谷線で八丁堀へ行き、神威強く「見えない霞」掛かる鉄砲洲稲荷から新川へ鉄橋をわたって最初にふれた田宮神社於岩稲荷分社に至り、終点。

:秋葉原の密かな守護神、右手が柳森神社。江戸初期には清水山という山があり、忌み場とされていた。左右に住む武家もこの場所だけには手を出さずほうっておいたとかで、柳を植えても枯れるなどの状態だった(当時は今みたいに電車の高架なんかなかったので念のため)。杉ノ森神社と呼ばれていたこともある。大奥の三人の女が痴話の挙げ句に身を投げ死んだ、それが出るという話がいつのまにか大奥で将軍の側室を狙う女たちに信仰された「他を抜きんじる」お狸社の移転先ということになって、世にも珍しい狐と狸の共存社として今に至っている。・・・というわけで淡路町駅からちょっと歩いて万世橋(筋違御門)や秋葉原電気街を左手に神田川南べりに出ます。高架の向こう側に、さきほど書いた柳森神社がなかなか賑々しく、でも密やかに眠っています。由来因縁は前記のとおり。


チョット怪談めいた江戸噺を付け加えておきましょうか。

清水山に三人の若い娘の幽霊が出るという噂が江戸中に広まったころ。若い衆三人「こりや丁度いい、こっちも三人だ」などと言って夏の夜、一杯やってから草深い清水山に出向く。樹が茂り藪深い荒れたさまは夏でも寒々として心地悪いが酒の勢い、草を掻き分け掻き分けここが頂上かとたどり着いた。一息ついて神田川を見下ろすとそこに白い影がぼうっと浮かぶ。三人の目の前に怪し火がさっとよぎる、うわっと再び川際に目をやるとそこにはまさしく三人の若い女が草むらに蹲り肩抱きあって泣いている、オバケだ!
酔いもいっぺんに醒め転がるように逃げ出した三人、ほうほうの体。しかしその後三人が三人とも熱にうなされ、あっけなく成仏してしまったとさ。

屍骸もあがらぬ魔所清水山下の湧水穴、大奥女中頭のお浦の方という「とう」の立った老女に弄ばれ、捨てられた女中ども、毎夜穴から上がってきては三人で泣いていたのでした。同性愛のもつれというまことしやかな噂であります。もっともこの神社に今も祭られているお狸様に化かされたのだという説もあり(狸が祭られるずっと前の出来事だから時代があわないのだが)、また山を根城にしていた得体の知れない妖怪のせいだという人もいた。神田川筋はうっそうとススキやなにやらが生えていて、各武家に馬の飼葉用として区切り割り当てられていたのだが、このあたりを割り当てられた市橋某と富田某も飼葉は喉から手が出るほど欲しいものの気味悪がって手を出さず、結句くさぐさが生い茂り荒れ放題になっていた次第。枯れては植えを繰り返された柳は吉宗の命で植えられたと言われている。柳下には怪しげな商売人が小屋を連ね、明治に入って切り崩され民家や神社の社殿になってのちも胡散臭い古着の店で賑わっていたそうである。

:頭の中でビルを消して社殿を山に置き換えてください。それが清水山。

:格式ある、でも黒ずんだ標柱。このあたりも酷い戦災にあっている。

:本殿。稲荷社。

:赤い江戸文字にガイジンさんも釘付け?

:境内全景。現在の道からは下る形だが元は山。

:富士講のあと(模造富士)。しいて言えばこれが「清水山」?

:ここはさまざまなものが習合されている。これは力石群だが、呪術的要素もあったと言われ、遠目には甲府の丸石道祖神のような異様さをかもし出す。

:社殿前のおきつねさま。おごそかというか、怖いというか。

:本殿右手に並ぶ小さな勧進社のうち、一番先頭(稲荷社側)にあるのが前記のお狸さま。

:ここでは元は江戸城内の稲荷社とされている。習合は明治となっているが、大奥女中の幽霊の話はぐっと遡るため、直接の関係はわからない。

:不気味かも。

:でけーよ!

:宮崎アニメかよ!

:ハイ狐と狸、仲良く。

:アキバ社が!火伏せの功も某大手電化店には及ばなかったのだが・・・それ以前に戦災だって・・・

さて、ここから川を離れ南下するとほどなく「お玉が池」界隈になります。もうこのあたりは神田、奥州街道の入り口にあたり界隈は桜樹の茂る名所、往時は不忍池よりも広かったといわれる元々桜ケ池と呼ばれた景勝地で、名の由来は茶屋娘のお玉さんという美女が言い寄る旅の男二人に迷いの挙句身を投げたという伝説。池自体はかなり早くに縮められ今は範囲も定かではないが、見るからに真平らの土地で、いかにも埋め立てチックな雰囲気は残っている。池畔には文人が数多く住み、のちに日本初の種痘場がおかれたり、千葉道場などもこのあたりに所在して剣士が日々研鑚を積んでいた。

:お玉が池池畔標柱。

:お玉さんを祭り上げた「お玉稲荷」。ビル間の路地にぽつんとあるけど、綺麗に整備されている。右脇に清水が。このあたりは水が豊富というか、じめじめしていた。

更に南下し岩本町から日本橋本町に入ると、空気がどうもどんよりしてくる。うらぶれてくるのだ。町を縦にぶった斬る高速道路の排気ガスや陰のせいだけではあるまい。このあたりは本町の名を持つくらいで職人町や問屋街などがある繁華な場所だったが、なぜか一区画だけ、歯抜けのように何も無い荒れた土地があった。そこは江戸を賑わす天下祭りでも神輿や山車が除けるほどの忌み地だった。それが旧日本橋本町4丁目(現2~3丁目)。江戸人は忌み地として住むのを嫌がった。どうもまだ徳川江戸が完成されていなかった大昔に刑場だった場所らしい。すぐ東隣が天下の牢屋敷のできる小伝馬町、西隣の室町が獣皮を剥ぐ稼業の集落があったわけだから、なんとなく死がこのあたりを右左ゆら~りゆらりとしていたわけだ。風流な名の江戸通りから三本北の今は路地となっている龍閑川(維新後早くに埋め立て)。この川は今でこそ小さな路になっているが元々すぐ南の神田金物通りなどより広く、丁度神田と日本橋の町境になっていた。井上龍閑の掘った用水路である。ここには縦に何本もの橋がかかっていた(名が残る今川橋は西に二本目の辻)。そのひとつが地蔵橋*、今の地蔵橋公園(三つの小さい公園が密集している)あたりにあったものである。

:歩道橋のあるあたりが丁度橋が架かっていた場所。

いずれ地蔵も立つような寂しい場所だったようだ。公園は高速を挟み左右に分断されているが、その真中、この幅広い高速の下ということになろうか。架かる橋の前を夜半に通りかかった町人の男が、橋の袂の榎の下にしゃがみこんで泣いている女を見かける。こんな場所で。

もし、お女中。

男はさかんに声をかける。飛び込みでもやらかされたら大事だ。

どうしたんだい、何かあったのかい。話してご覧なせえ。

女は泣くばかり。しかし不意に顔をあげて振り向いたその顔は・・・「のっぺらぼう」!
町人は無我夢中で逃げ出して知人の家にたどり着き、そのまま臥せってしまったそうである。

・・・だだっぴろい紀伊ノ国坂だけがのっぺらぼうの本籍地ではない。同様の話は江戸中、いや日本中に分布している。ハーンが「むじな」でたまたま紀伊ノ国坂を選んだだけで、落語的な起伏のある話とは違いこちらは剥き出しの伝説、環境もあいまってなんだかリアルな感じがするのだが。

* 地蔵橋という名の橋は八丁堀にもある。古くは八丁堀七不思議に数えられたこともあるそうだが、その説は他愛も無い。八丁堀周りに与力の住宅地があり、たまたま元与力、多賀仁蔵が架けた私橋だから仁蔵橋、曰く「地蔵も無いのに地蔵橋」というオチである。洒落の名付けではなく地蔵は実在したという説もあるそうで、真相はよくわからない。

:このあたり。

:歩道橋から見下ろすと、高速で削られているにも関わらず川筋が残っているのが左右の緑でわかる。その緑の下にはホームレスさんがいっぱい。本町派出所もあるので安心です。

:今、地蔵橋を渡りました!後部座席にはのっぺらぼうが・・・

少し南へ、問屋街に入る。元々大伝馬町と呼ばれていたが今は本町三丁目。異様に高いオフィスビルと異様に古い建物の合間に歯抜けのように潰れた空き地がたくさんあり、先ほどの地蔵橋でのホームレスとの邂逅を思い出す。やはり土地が悪いのか?でも、悪い土地でもいいこともあるのだ。なにせ、人間が如来さまになったのだから。

:昔は問屋兼住居だった場所だが、今はビルの隅に「於竹大日如来井戸跡」の記念碑がぽつんと立てられているのみである。これがお竹さんの使った井戸跡。お竹さんといえば旅籠屋馬込家(噺では佐久間家)の女中としてかいがいしく働き、また慈悲深いことで有名だったが、湯殿山で「生身の大日如来さまがいる」とのお告げを得てやってきた武蔵の行者、家事をするお竹さんの背後に後光が差しているのを目撃し、お竹さん「バレたか」と言ったか言わないか、大日如来に身をかえて昇天したという。一説にはお竹さんだけでなくしゃもじやおたま、流し台全てがぴかぴか光っていたというから凄い。自分も京の町娘であった桂昌院(柳森神社のお狸さんにも関係している)がこの噺いたくお気に入りで、別所にお竹如来として祭ったところへじきじきに進物をした。それがお竹さんの日頃使った流し台の板をうやうやしく包む錦の袋と桐の箱だったというから面白い。今は戦災をへて本寺の増上寺に如来像と共にあるそうだが、お竹さんの使った丼や茶釜も羽黒山の黄金寺(これまたぴかぴかだ)にまつられている。相当に話題の事件だったわけだ。もっとも結局お竹さん、地上に舞い戻ってきて病死している。赤羽の善徳寺にしっかり墓が建っているというからどうも不思議だ。こういうのは今で言う都市伝説に近いかもしれない。

庶民が突如「成る」というのは江戸の頃に流行った噺であるかもしれない。殿様に見初められれば途端にお姫様という世情である。いつか別項に書こうと思うが、一介の僧侶が龍に成って昇天したという噺もある。

北東へ戻るとほどなく小伝馬町に出る。ここは有名、江戸の悪人冤罪人を集めてまとめて処分した、小伝馬町牢屋敷跡になる。今は大部分が公園、道を挟んで南側処刑場跡に菩提を弔う大安楽寺がある。ちなみに屋敷の南縁が身分の高い人の牢であったが、斬首場はその偉い人用の牢の真下に設けられていたということになる。

:こんな感じです。本とは公園地よりもっと広い。奥には木々が鬱蒼としていてやはりちょっと陰鬱。牢屋敷が潰れてのちもしばらく祟りを恐れて人が寄り付かなかったというのもうなづける。荒れ野の雰囲気がのこる。

:江戸第一の時の鐘。「石町の鐘」として有名、ここには移転してきたのだが、大した距離ではない。罪人は悉くこの鐘を聞いた。刑場に曳かれる罪人がいるときは、わざと打つのを遅くして、少しでも長くこの世にいられるようにしたという。

:明治初期まで続いたこの牢屋敷で死んだ者の中で最も有名なのが吉田松陰だろう。弟子達が刑場に埋めるのはしのびないとのちに運んで別所に葬ったが(松陰神社)、ここにも大きな石碑が三つも立っている。

:大安楽寺。寄進者で財界の大物、大倉喜八郎と安田善次郎の字をとってつけられた名前で、いささか世俗的な雰囲気がするのはそのせいか。いや、忌み場は賑やかしいのがベストだ。

:白蛇石は全国に見られ独特の信仰がある。これはアイヌのカムイコタンから贈られた自然石というが、あきらかに彫ってる・・・

さて日比谷線に乗ろう。最後の目的地、お岩稲荷分社だ。

八丁堀駅から少し寄り道。

:鉄砲洲稲荷社。実は今回一番神威を感じたのがこの意外と大きな舟守の神社で、この写真の右側の霞、実見ではまったく見えなかった。いかにも神霞。まあ種明かしをすれば俄かに天曇りまっくらになってきたところへケータイの自動露光で撮ったため、露光時間設定が長すぎて肉眼では捉えられない長時間露光ならではの微妙な霧が写っただけなのだが・・・きっと。ここは今回のいちばんの救われポイントだった。稲荷神社を「生成神社」と書くなど、ここの神社に掲示された言葉はどれも独創的な発意に満ちている。

:威厳ある社殿の右の細道を入っていくと力石がある。この奥に富士講の人造富士がある。

:まっくら!

:実はここが今回いちばん不気味を感じたスポット。なんでこんなに暗いんだ!裏はマンションなのに!昭和三十年代に作られたものなのに!

:頂上。すぐ登れる(あたりまえ)。

:頂上からの見晴らし。うーん、暗いと味がある。デジカメは暗いのに弱いけど、こういう画像操作ができるからいいな。

:コワイヨー。ぴんくの祠。

:二ノ宮金次郎も走り出しそうです。

・・・などと時間をとられてしまった。急いで急いで。雨が降りそうだ。

霊厳島への橋をわたり高層ビルの合間をぬって地図通りに行けばほどなく新川の田宮神社に着きます。

なんだこの何気ない雰囲気・・・

:ワッびっくりした!

これがもう雨に煙る田宮神社お岩稲荷新川分社。芝居小屋からすぐお参りできるように明治時代の田宮家屋敷内にお骨を分けたものです。新しい小さな建物。

:文化財指定を受けている鳥居と百度石。モノは新しいけど。四谷のほうの百度石や鳥居はなーんの指定も受けてませんな。

これにて、本日のへっぽこ江戸怪異旅は終了でございました。

半日でこれだけ廻れますよ。運動不足解消と憑依実体験に如何?ちなみにこの夜、激しい頭痛で眠れませんでしたわ。アレか?やっぱり「写真に撮ると呪われる」と昭和初期に言われていた「八兵衛の夜泣き石」に触ったせいか?

何も見なかったけどね。

<オワリ>




by r_o_k | 2017-08-07 09:53 | 旅行 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31