とうきょう窟めぐり(こんなところに洞窟伽藍)  ※補筆追記

昔すこしありました。。もうほとぼりがさめたころかと。さめてなかったらあやまるのみです。では、闇の支配する地下世界へどうぞ。以後まだ新しいものなどまわっています。(2000/2005)

とうきょう窟めぐり1「威光寺弁天洞窟」
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東京都稲城市は「よみうりランド」の裏、緑深い山裾にそれはあります。威光寺は穴澤天神社の別当寺として江戸初期頃からこの地にあったといいます。真言宗。簡素な明治3年再建の本堂、市指定文化財の庚申塔などを尻目に奥へ奥へと行くと、小池を渡って降りたところにちいさな煉瓦の門がぽっかり。新東京八景に数えられる「弁天洞窟」です。全長65メートルと比較的小さいのですが、数々の不気味な石仏が佇み、子供なら泣きそうなリアルな大蛇の彫り物がうねり、池あり、起伏・小部屋ありのなかなか変化に富んだ内容。狭い洞内は胎内めぐりの雰囲気満点で、人子一人いないのに、妙な生暖かさを感じます(冬に訪ねたときの感想ですが、夏は涼しいそうです)。もともと古墳時代の横穴墓だったものをもとに彫り広げられたものだそうですが、広大で神秘的な大船の「田谷の洞窟」に比べ、一切の灯りが無く、蝋燭のともし火だけで狭い通路をそろそろ歩む趣向は中仲スリルがあります。密やかで、何か恐ろしげの民間信仰的な雰囲気を感じました。多摩丘陵にはかなりの量の横穴墓が存在していますが、狭い通路はそれらから察するに原形のままのサイズなのでしょう。拝観料が必要。車だと便利ですが駅(よみうりランド)からも15分くらいで歩いて行く事が出来ます。

とうきょう窟めぐり2「田谷山ユガ洞」
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(画像は山梨賢一「不思議の旅ガイド」参照)

東京近郊の人工洞窟としては比べるもの無い規模と内容を誇る、通称「田谷の洞窟」は鎌倉も程近い大船にあります。大船駅からはドリームランド行きのバスを使いますが歩いても30分程度です。川沿いの歩道から田畑の中道を行けば、程良いウォーキングになるでしょう。ラドン温泉の向こうにおおきな立て札を見て、そこから小さな段を上がると森閑とした雰囲気のお堂がひっそりと佇んでいます。これが1532年創建の定泉寺。鎌倉の寺と同様関東大震災でかなりの被害をこうむり、洞窟に関しての古い資料は一切散逸していますが、大学調査が入ったときの報告を元にした冊子が置いて有ります。拝観料を払って蝋燭を受け取ると、奥の入口へ向かいます。崖地に穿たれた割と大きな入口は、元は古墳時代の横穴墓だったものを、(このあたりに館を構えていた敗将朝比奈三郎創建と伝えられていますが)鎌倉時代以降修行僧たちがノミ1本で迷路のように掘り広げたものです。現在の地底伽藍が完成したのは、江戸後期は天保年間に崩落荒廃した洞窟を整備して数々の彫刻を施した時であったと思われます。崩落で入れない部分を除いても1キロほどもある洞内には、無数の見事な仏像彫刻が存在し、見るものを圧倒します(順路は500メートル弱)。仏殿を模したたくさんの小伽藍や座禅修行場(今でも定期的に座禅会をやっているそうですが、夜間だそうで・・・怖そう・・・)を修行道といわれる順路に従って拝観してゆきます。メインは大回廊、ピラミッドの大回廊を彷彿とさせる天井の高い回廊で、両脇には大きな不動明王などの浮き彫りが並び、繋がるひときわ大きな伽藍に本洞のメイン一願弘法大師がまつられています。この伽藍の天井は釣り鐘の内部を模した細長いドーム型の面白い形になっています。奥(順路の最初)は二段構えで、上段には古の御坊さんのお墓、さらにどこまで続くやも知れぬ闇が続いている・・・ここはむかーし稲川淳二さんが「怖い」といっていた心霊スポットらしいが、どちらかといえば神聖ゆえ畏れを感じるような雰囲気。異様は異様だけど・・・。さらにすすむと、音無川・・・「三途の川」とその彼岸(壁)を行く十八羅漢の彫像(このちいさな川は結構深く、きれいに透んだ水中には洞窟の生き物も棲息しているらしい)、幽玄の雰囲気満点、圧巻です。あの世めぐりのオカルティックな趣向もあるのですね。川は名水の湧き出る奥の院伽藍に続き、そこにはこれまた見事な鶴亀の彫像があります。信仰の場所としては、江戸時代に流行った「四国八十八カ所」を始めとする各地の巡礼地を一手に集めた趣向の石彫群や、両界曼荼羅を散りばめた伽藍(曼荼羅の中に入るという趣向)など、お手軽まとめて巡拝といった場所もあって、江戸末期の現世的な御利益趣味を垣間見る思いです。本洞「見所」は頭上に多いので、蝋燭や蛍光燈以外に手持ちの懐中電灯があると楽しめるでしょう。タトエバ日天、月天。前半途中で上を見上げると満月の形の穴が、別の箇所では三日月型の穴が。洞窟順路は大回廊のところで上に上がる形(つまり全体としては二段構えになっている)に折り返しますが、そこでふと足元を見ると、井戸のような彫り込みがあって、覗くと底に先ほどの丸い穴、さらに別の場所で三日月型の穴が覗けます。先ほどの穴を今度は大師さんの足元から見下ろしているのです。下を歩く人の動く頭が良く見えます。まるでおしゃかさんが雲のうえからカンダタを見下ろしているような感じ。江戸後期の仏教がしばしば見せたエンターテインメント性が感じられます。当時がんじがらめの中に生きた庶民の、息抜き物見遊山の場として、地方寺社は重要な位置を占めていました。そういえば江ノ島の弁天窟もそうですが、どの彫刻にもどことなく人間臭さがあって、不思議なユーモアを感じます。安達が原の鬼女、どこぞの名家の家紋、獅子に龍、天に彫られた蝙蝠(子ウ守り、水子供養の象徴)、金太郎、鳳凰、、、計300余りの「何でもアリ」。興味のあるひとなら一日楽しめるのではないでしょうか。水のしたたる音、冷ややかな空気、とおくで誰かの話すひそひそ声、立ち入り禁止の真っ暗な分岐・・・幽玄神秘をお手軽に感じたい方、ここはお勧めに輪をかけてお勧めです。帰りに巨大な大船観音に詣でても良いでしょう。もっともコンクリでできた昭和初期のものですが。

とうきょう窟めぐり3「江ノ島弁天洞窟」
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浜辺と砂洲で繋がった江ノ島の裏は断崖になっていて、いくつかの海食洞が口をひらいています。そのうち特に大きな洞窟がふたつ、奥深く鎌倉室町の古から裸弁天の像がまつられ漁師たちの厚い信仰を受けていました(現在は神社の方に保管、国指定重要文化財)。それが日本三大弁天に数えられる、有名な江ノ島の弁天洞窟、写真の上2枚がそれです。見て解かるとおりとても大きなものですが良く整備されていて(10年くらい前までは崩落の為立ち入り禁止でした)、右の第2洞の奥では龍のおもちゃと雷の仕掛けがありエンタテインメント性を醸し出してユーモラスです。一方メインの第1洞は陰気な雰囲気があり、奥深く石仏が居並んでいます。どれも江戸時代のものですが、写真を見てわかるとおり、暗い洞内ではかなり不気味です。右中は不吉な姿をさらしていますが弁財天の化身の蛇神像、もしくは宇賀神です。関東で水のある地域には大抵祭られているメジャーな神像で、特に鎌倉あたりには多く見られます。左下の写真には東京近郊の墓場でよく見られる如意輪観音の石仏も見えます。こういった像がかなり安置されています。奥の方はまるでしょう乳洞のようで、暗い闇がどこまで続いているのか想像を膨らませられます。さあ明るい表に出ましょう。外海に洗われる岩礁の中に、半ば海没した亀の像が見えます(右下)。亀石です。干潮時だけ波上に姿を顕します。江戸時代の彫像です(最近摩耗が激しく心配)。江ノ島の物見遊山は変化に富んでいて、きっと想い出に残るものになるでしょう。明治時代には最奥部に社があり、洞窟へもコンクリの橋ではなく木の橋がかかっていましたが、風景はかわってません。アワビがとれなくなったことくらい?拝観料が必要。
戦前の様子:
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整備されていきます
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徐々に現代の回廊に近くなっていきます。外の風景を覗く場所もできました。
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ふたつの洞窟を繋ぐ回廊もできて、その絵葉書もありますが機会があれば。ちなみに今は本殿にある弁財天は江戸時代はこちらに安置され白い肌を晒すこともあったようです。(江戸っ子の好奇を集める裸弁天の代表格のように言われますが、他と同じく着衣だったと聞いています。今は裸ですが。)
とうきょう窟めぐり4「長谷寺弁天洞窟」
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大和は初瀬の長谷寺と「兄弟仏」を安置する、逗子も程近い鎌倉の長谷寺。大和のものとクリソツの巨大な本尊(実際はその胎内に収められているのが、大和と同じ木より彫られた伝説を持つものらしいけれども)の金色の輝きが有名ですが、花のお寺としても知られ、また山の中腹にあるので海岸一帯の良く見渡せる風光明媚な観光寺として外国人の人気をも集めています。ここには水子供養の地蔵群や民間信仰の社、古い五輪塔群などやや不気味さの篭ったものも多いのですが、最も異彩を放っているのがこの弁天窟でしょう。時代的には新しいようですが、大きな石彫の乱立する広場や、其の奥の迷路か地下要塞のような回廊など、戦時中の防空壕のように一種異様な空気が感じられます。写真の中ぐらいに挙げた2枚はとくに異様だと思ったもので、奥の一室に金色の小さな戴納仏が無数に並べられています。壁のクラックにまで乱立し、観光客も足を止めず逃げるように去る人が多いように感じました。信仰は本来善い感情に基づくものでしょうが時折恐ろしげな鬼気を感じることがあります。左の写真は何故か道祖神像です。穴の中の道しるべ、何か異界性を感じます。一部石造修理中。長谷寺としての拝観料が必要。

とうきょう窟めぐり5「吉見百穴」
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吉見の百穴、関東在住の方なら一度は耳にしたことがあるでしょう。古墳時代末期から奈良時代にかけて、大和朝廷の勢力拡大に伴い地方に広がった「群集墳(舌状台地などのちいさな尾根筋に、きわめて小規模の円墳もしくは前方後円墳が並ぶ。地方豪族の一族墓などとされる)」、その最も簡略化された埋葬形態として、「横穴墓」があります。崖地にせいぜい3メートルほどの横穴を穿ち、古墳の石室を真似て整形しただけの墓なのですが、羨道が屈まないと入れないほどに小さいことと、大きな群れをなすことが多いことから、明治時代日本考古学の曙には、先住民族の「コロポックル(小人)」や「土蜘蛛」の住居あとと考えられていました。当時恰好の研究材料として、また議論の的としてクローズアップされていたのが、埼玉は比企丘陵にある「吉見の百穴」(写真右上)だったのです。早くから表土が洗い流され、木々に覆われることも無く、300余りの小穴が蜂の巣のように露出していたために、古より人々の珍奇の目を集めていました。天狗の穴とか、龍神の昇ったあと、雷さまの穴などと呼ばれていたようです。現在これだけの規模のものが開発に侵されず維持されている例はあまり無く、戦前から今に至るまで、近在の学校の課外授業にもよく取り上げられるものとなっています。バス停からすぐ右側(写真左上)、バルコニー付きの穴が穿たれた一種奇矯な雰囲気の崖地は、近在の高橋峰吉という人が、明治から大正にかけ20年余りかけて掘りぬいた通称「岩窟ホテル」で、当初日本初の洞窟ホテルとして設計されていたものですが(2階建てで地下プールもある)、これなど明らかに近所の「吉見の百穴」人気にあやかったものでしょう。完成はせず荒廃し、現在は崩落の為立ち入り禁止です。十数年前までは入場料を支払えば中を見ることができたのですが・・・話しを戻します。型式分類を行うと、いくつかの特徴的な形式が何段にもわたって整然と配列されていることがわかり、それぞれの形態の変遷までも追うことが出来(初め(上段)は1人1人について立派な墓穴を彫り込んでいたもの(写真右中)が、しまいには何世代の何体もが同じ穴にせせこましく埋葬されたり、もしくは古い穴を整形し直して再利用するようになっていったことも、出土遺物などから推定されています)、複数の世帯が数百年にわたって共同で守り続けてきた墓域であることが推察されます。共同の排水溝や墓前道も敷設されておりました。おしなべて簡素な遺物や、中央の記録にも全く残っていないことから、一般には権力者階級ではなく民衆の墓と考えられていますが、あくまで推論にすぎません。なにぶん証拠の乏しい謎の遺物といえるのです。横穴墓は全国的に様々な形のものが存在しています。熊本辺りの武具や人型の彫刻を施した立派なものや、大和近辺の殆ど古墳の石室と変わらないもの、南九州から海伝いに茨城まで分布する(神奈川の船の線刻を施した横穴など、海と横穴墓は関わりが深いようです)目にも鮮やかな赤でプリミティブな絵画を施した装飾墓、東京周辺でいえば、羽子板のような平面を持ち、壁一面に蛇腹状の彫り跡を残した洞窟状のもの(神奈川から多摩川周辺に多い)、短い羨道の先につるりとしたドーム天井を持つ円形の部屋を彫り込んだ、「胎内」に近い形式のもの(房総に多い、これは規模こそ違えど琉球の亀型の墓や海辺の崖に穿ち込んだ墓穴を想起させずにおれません)など、また時代と型式の幅を広げれば、海辺の崖に穿たれた自然洞や鍾乳洞を利用して埋葬された例が挙げられます。仏教普及に伴い支配階級で小規模な火葬墓が主流となった久しく後に、改めて新たな支配階級となった中世武士の質実な墓制として、鎌倉から内房にかけて集中的に作られた、所謂「やぐら」という、見た目は非常に横穴墓に近い墓穴もその範疇に入れて良いのかもしれません。ちなみに「やぐら」は山中崖地に極めて密集して存在するところも良く似ています(歴史資料が全く残っていないところも)。横穴墓を流用している例もままあり、墓穴としてだけではなく、崇拝施設、つまりは私的な「仏殿」として壁面に仏彫や仏影を施した例も多くあります。それが後世の人によってさらに拡張されたのが、別記した地底伽藍の「田谷の洞窟」などとなるわけです。また話しが外れましたが、百穴入口バス停より(東武東上線東松山駅から歩いても、たいした距離ではありませんが)緑深い野道を歩むうち、おもむろに飛び込んでくる百穴の異観には実にロマンを掻き立てられます。学術的うんぬんは別にして、コースにしたがい思うが侭に循環し、入れれば中に入ってその異界性をたのしむのがよいでしょう。壮大なモグラ叩きができそうですが崩れて危ないので止めましょう。珍しい「ヒカリゴケ(ガラス質の組織を持ち僅かな光できらめく天然記念物)」が生えている穴もありますが、ロマン派の方は幽かな緑の光群に古の死者へ想いを馳せるのも一興。一番下にひときわ大きく口をあけているのは、先の戦時中の地下工場あとです。こういったものは市ヶ谷駐屯地をはじめ神奈川は日吉、観音崎、猿島などいくつかあるのですが、自由に入れるところはあまりありません。決して良い心地はしない場所ですから早々退散です。吉見百穴に至る初めに右脇に見えるは岩窟ホテル、そのすぐ先に「岩室観音堂」なる趣のある建物があります。崖地の岩穴(切り通し)に引っ掛かるように建てられた御堂には、胎内くぐりなどの趣向もあって、神秘を秘めています。それもそのはず、裏山に築かれていた「松山城」の門の跡に建てられた、いわば戦国時代の残滓なのです。城自体は空掘や土塁しか残っていません。御堂横の小洞には四国四十八ケ所石仏が密やかに息づいています(写真左下)。吉見より北向き地蔵、安楽寺(吉見観音、板東三十三霊場)、息障院(頼朝弟範頼の吉見御所あと)をたどって八丁湖へ至ると一息つけます。暖かな日はじつに気持ちの良いウォーキングが楽しめるでしょう。ヘラブナ釣りやボート遊びの家族連れを尻目に北側へ回ると、吉見百穴同様明治時代より考古学界に知られた「黒岩横穴群」があります(写真右下)。規模でいえば吉見のものに全くひけをとりません。木々に覆われているぶん保存も良いといわれていますが、本格的な調査はかなり昔に行われたきりで、未発掘のものが多く見学には少し難儀するかもしれません。ここからさらに北へ向かうハイキングコースを辿り通称「ポンポン山」の奇状(高負彦根神社の背後にある20メートルの丘で、頂上で足を踏み鳴らすと「ポンポン」空洞があるような音がすることからそう呼ばれている。古墳の石室があるのかともいわれたが、実際は他でも似たような例がみられ、今では目の詰まった金属質の岩盤があると考えられている)を確かめて、一日の散歩を終えてください。7キロ歩いたのだからもう夕方でしょう!・・・吉見百穴は入場料が必要。5時半で終了します。(5年前作成の再掲:2005)


by r_o_k | 2017-08-04 16:35 | 旅行 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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