2017/2/11港区三田を行くシリーズ(3)慶応大学の周辺:渡辺綱生誕伝承地など
2017年 02月 13日
港区三田を行くシリーズ(2)は「幽霊地蔵 」
龍生院の渡辺綱産湯の井戸(右奥)。大昔に書いた通り、現在のオーストリア大使館敷地内の井戸のほうが有名。あちらは向かいの寺院當光寺(綱生山と号し渡邊氏建立(当時真言宗)と伝来、今も渡辺姓の方が住職をされている、リンク先で詳細に説明されています)が渡辺綱の晩年を過ごした名残と伝えられており、綱は晩年故郷に戻ったという話から逆にあちらのほうが信ぴょう性は高いと思われる。こちらはつい最近整備され恐らく位置も変えられて、井戸ゲタの石も交換され、登れないような段上に上げられている。右の石柱のみ往時のものが使われている。寺院自体は江戸中期創建の明治時代移転の寺院(区史では明治二十三年頃創建とあり東京名所図会には同町慶應と春日神社他しか記載されていない)で直接関係は無い。
綱生山當光寺
オーストラリア大使館裏広場を覗く・・・どこかに井戸がある・・・2005年とは周囲が変わりすっかり寄れなくなった
頼光四天王の渡辺綱、いわゆる全国渡辺家の祖については埼玉県鴻巣市箕田(みた)出身説の方が有力とされている。三田高輪周辺(+四谷の蜘蛛切坂※)の渡辺綱史跡はいずれも俗説とされるが、江戸時代にはこのあたりで育ち、晩年戻って現在は聖坂の横にある普連土学園あたりにあった元寺院周辺に住まったという話が浸透していた。当地に近年まで塚があったのは大昔書いた通り。
※蜘蛛切坂も昔書きました(以下)。何度か行きましたが風情が変わっています。flickrにありますが探すのたいへんなのでいいです。
芝浜周辺、ならびに聖坂から二本榎までの写真を載せたので、ついでに聖坂下の三叉路にある三田子育延命地蔵尊。この辺に子育延命地蔵多く、物は新しく由来は個人の信仰(若しくは酷い戦災で新造したか)?戦後地蔵通り商店会の由来名と。大通りを東京タワーへ向かうと重文建築を望む慶應正門と春日神社 pic.twitter.com/mxF2U6kb0C
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月11日
赤煉瓦の慶應すぐ横の春日神社は江戸府内唯一の藤原氏の氏神ともいい、この辺りの精神的支柱?急斜面の台地に二社といくつかの石碑石柱が寄せられてます。 pic.twitter.com/As9n72pwmi
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月11日
春日神社並びに龍生院参道。三田近辺はここ10年大再開発がなされ、ここも正面に現代建築(納骨堂?)が置かれる大改築。境内は完全に石畳で整然とされ、源頼光四天王の渡辺綱産湯伝承の井戸も新造の形ばかりで(東京生誕説に基づく(麻布十番に近い當光寺が渡辺氏の源として綱生山と号す))穴無し。 pic.twitter.com/hiLNQQ8Chf
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月11日
先の通りで右に入ると左手に古い民家が僅か残るも、巨大ビル群に圧倒。島津邸跡も跡形もなし(資料は中に展示されているらしい)、やがて右手に以前ゆうれい地蔵の元位置として紹介した本芝エリア。源光寺跡地をふたたび俯瞰した写真を(左の赤いマンションがメイン、道路と向かいの施設に掛かる)。 pic.twitter.com/OGImihYIzG
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本芝の向こうにも古い商店街(海産物屋がこころなしか多い様)が飛び飛びに存在し、小寺が密集した寺町を形成。取り残された赤煉瓦の墓地塀など。このへんの寺町の一番の見どころは田中山西応寺だろうか。最初のオランダ公使舘。半分の幼稚園が舘跡という。最近整備され門前の田中稲荷は取り込まれた。 pic.twitter.com/l2KAgVVtza
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墓地部は途端に古ぼけてくる。古井戸、道真ん中を渡すドブ板、弁財天のような無縁塔、引越し大名の悪名で知られた元白河藩主松平基知の生母という「三保の方」大五輪塔(ソース不明で、脇の少し小さい明治時代の塔に似ており、関係者が伝承に従い再建した供養塔かもしれない)。で芝浜側に廻って終了。 pic.twitter.com/i9Aqizcu7T
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