葛飾北斎の両墓制的な祀られ方(北斎忌追記)~浅草、本所、柳島妙見、妙法寺と波の伊八・・・

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葛飾北斎の謎の両墓制的な葬られ方。。浅草あたりに妙見信仰が分布していたとされ、その名に妙見信仰(北辰、北極星)が反映されていたこともあり、ゆえ縁で日蓮宗徒となったと思われる北斎(池上本門寺まで通っていたともいう)。。妙見は武家の信仰が篤い。。実父川村佛清はやはり武家だったのだろうが、元祖仏清などという名前を何故つけられたか。。

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誓教寺(仏清墓)
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元祖佛清墓 由来不明、飯島虚心「葛飾北斎伝」等より北斎の実父(川村市良衛門)の墓石との説が強い。
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享和年間の銘文ある比較的大なる自然石(硬い青海石)で、様式的にも一般的なものとは思えず、称より宗教家、もしくは特定の職業の家(寺町特有の石屋、もしくは仏師など)のものの可能性が高いと思われる。

川村家の菩提寺である誓教寺には北斎が参拝に訪れていた(北斎自身は日蓮宗に帰依していたので別寺(柳島妙見堂、法性寺内)にも寄ったが、そこから誓教寺を浄土宗ではなく日蓮宗とする偽説が流れた)という話が伝わる。北斎は後年養子に行った中島家を出て川村に戻ったという孫娘の証言があるが、その子は皆外へ出るなどしたため早々家は絶えた。

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<柳島妙見堂(法性寺)、押上の先。元浅草とは隅田川を挟んでかなり離れている>
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<井上安治描く、明治前期の柳島妙見と界隈の料亭。ともに震災・戦争前まで大いに賑わったという。参考(江戸時代の錦絵)>
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<配置を俯瞰するとこのような感じ。安藤広重:名所江戸百景「柳しま」(※国会図書館デジタルライブラリより、問題があれば削除いたします)、柳島妙見堂と料亭。絵の通り法性寺の目の前にかかる柳島橋(押上(スカイツリー)方面から流れる北十間川より垂直に横十間川が分流する箇所)は昔からありました。現在の寺院のビル・墓地の部分およびその背後の土地の一部が本来は法性寺・柳島妙見堂(赤塀のところ)境内だったようです。今の浅草通りが妙見堂と料亭の間の道になります(通りの幅がだいぶん違うのでそのぶんも料亭の敷地であったかと)。当時は北十間川側(少し押上寄り)に橋はかかっていません。ずっとのどかな農村風景の中の賑わいだったようです。もっともスカイツリーや大規模マンションができるまで、震災戦災はあったとはいえ雰囲気は亀戸まで高い建物の無い真空地帯の趣がありました。>
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<右が柳島橋>
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<道は広く、橋の右側(料亭部分)は雑居ビルなどになっています。>

北斎は貧乏であり、子ないし孫代で現在の墓石に別けられるまで、父の墓に(併せて?)土葬されていたとされる。市良衛門が別の子のために建てた墓石が現在の北斎墓石の脇にあった(現存しない)が、虚心はその墓の他に「技芸家か宗教家としての」吉良衛門こと「佛清」の墓石というもの~この石碑~を見出し、そこに最初に葬られたのだと推測した。寺僧もここに骨があると裏付け、また北斎から恩義ある者が、先ずここを拝んだという話を間接的に聞いたともいう。

北斎父は鏡師で、御用鏡師中島伊勢に養子にやったのもそのつながりという説もあるそうだが、百姓だったという説(北斎が養父中島姓を自称していた一方出自を自嘲的に語り号にもした話、生誕伝承地辺の古地図上に川村家が見え無いことからその説もあったようだが、寺の過去帳上は川村は名前をしっかり頂いた下級武士のように見え甚だ疑わしい)同様、根拠に乏しいように思われる。

なお、同寺は関東大震災により北斎のおさめた全ての画を焼失した(後に檀家よりおさめられ戦中は疎開して助かったものが現在残る)。その後区画整理で移転を余儀なくされる寺が多い中、それを拒んだことなどから大幅に寺域を減らされ、北斎墓も移動した。もとは現在胸像のおかれている本堂向かって左向こう側あたりにあった。

そのとき掘り起こした棺に副葬品は何もなく、立派な体躯の骨を当時の法律に従い火葬しなおして現在地に小さく収めたというが、

昭和七年五月二十三日に北斎百七十年建碑式が行われたとき、当時の住職が震災後の改葬について「仏清の碑」の下より翁の遺骨を掘り出した、と証言した記録がある。この墓石がはっきりしたことがわからないにもかかわらず境内草そう内に辛うじて残されたのはこういった経緯があってのことかと思われる。いわば両墓制のような形になっていたことになる(別の場所にあったとしたら)。

ただ、そうなるとそもそも明治初期「北斎墓」建立時には何も改葬されなかったことになり、不自然な点が残る。特殊な宗教上の理由でもあったのだろうか。幕末ごろ「までは」合葬されていた、という都の説明書きとも矛盾する。虚心は佛清墓に父親の遺骸自体無かったのではないかとしている。

川村家についてはこんな説も(仏清説にたち「川村清七」こと市良衛門の謎を想像している)。
klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/7360
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葛飾北斎墓(画狂老人卍)
南ソウ院奇誉北斎信士
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戒名は通名の北斎に南窓(ソウ=煙窓)、奇を付けた。英一蝶が晩年、北窓と自称しており関連性を感じる。現在「居士」となっている。
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葛飾北斎終焉の地、浅草寺子院の遍照院(最後の一年を境内の小長屋で過ごした。葛飾で一生を終えたいという願いはかなわなかった)。こちらには一切の伝承は残されておらず、当時の長屋の位置も、寺の広さもよくわからない(明治時代震災前の地図では南側は余り変わっていないが北側(墓地)は現在はマンションになっている山谷堀支流岸まであったようである。投げ込み寺で知られた道哲庵(西方寺、移転(二代高尾太夫の項参照))の墓地と接していたようだ)。住所は変わらないため、ちょうど現在の本堂が昔の本堂裏であることから、まさにここと推測されている。南側に赤い門があり、卍のマークがあったそうである。卍翁に相応しい。山谷堀や聖天町に近く、誓教寺とは浅草寺を挟んで真逆にあり、お栄の先導する早桶の葬列も辿り着くのに小一時間はかかっただろう。
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※井上安治 東京真画名所図解「本所割下水」:明治前期には既にかなりの大通りになっていた様が伺える

北斎は両国は本所南割下水(道路の真ん中に下水が流れている)沿いの生まれ、現在の北斎通り沿いと思われるが(現菓子屋辺、2016年秋、向かいに建ったすみだ北斎美術館の手前公園に標識が立った)かつては北斎通りの入口右角(江戸東京博物館裏正面)に碑が立っていた。先向かいは最新の横綱之碑のある野見宿禰神社。北斎の本姓は生前藤原とされていたものの、生まれが川村なのは菩提寺過去帳(書き写し)、卍翁墓刻銘や晩年行動の通り。程なく近所の吉良邸跡の一部を拝領した代々鏡師中島伊勢の養子となったため、中島と書く本もある。北斎はそもそも実母が凶刃に斃れた吉良家臣の孫娘だと喧伝していた。現在は小社になっている。その真向かいが吉良邸跡史跡公園。
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※関東大震災前の本所割下水通り(1910年洪水の絵ハガキに弱彩色を施したもの)、既に水路は無かった???
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いつでも行ける距離にあるのでろくに写真すら撮ってないけど、北斎さんも参詣したということで日蓮入滅の地、池上本門寺の写真も載せておきます。左手経蔵は焼け残ったもの。本堂は新しいものの、五重塔などは江戸時代のまま。庶民的な妙法寺とはかなり違う雰囲気で、いずれの建物も質素な古様を模し、装飾彫刻も見られずけれんみの無いものです(国重文の五重塔は内陣は金ピカ、最近も改修されました)。
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変化→遍

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つづきます。

by r_o_k | 2017-04-20 09:25 | 旅行 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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