2017/4/18【絵師塔婆考】葛飾北斎の両墓制的な祀られ方(誓教寺、法性寺、生誕地妄想、兄妹墓、遍照院、北斎忌、波の伊八)【浅草、本所、柳島妙見、妙法寺、南房にて波を見・・・】
2021年 03月 20日
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享和年間の銘文ある比較的大なる自然石(硬い青海石)で、様式的にも一般的なものとは思えず、称より宗教家、もしくは特定の職業の家(寺町特有の石屋、もしくは仏師など)のものの可能性が高いと思われる。北斎がいっとき使ったとされる名前に佛が入っていたため、また年齢的にも妥当であると「北斎の研究」にも記載されている(昭和19年の書物で関東大震災被災後であり墓石の銘など半分失われたあとである)。
川村家の菩提寺である誓教寺には北斎が参拝に訪れていた(北斎自身は日蓮宗に帰依していたので別寺(柳島妙見堂、法性寺内)に足繁く通ったが、誓教寺を浄土宗ではなく日蓮宗とする偽説は虚心による)という話が直接的に伝わっている。北斎は後年養子に行った中島家を出て川村に戻ったという孫娘の証言があるが、「北斎の研究」は誓教寺の過去帳より「川村北斎」の名で子を弔ったものを読み取っており、間違いないとする。ただその他直系は皆外へ出るなどしたため早々家は絶えた。
北斎は貧乏であり、孫代で現在の墓石に別けられるまで、父の墓に(併せて?)土葬されていたとされる。市良衛門が別の子のために建てた墓石が現在の北斎墓石の脇にあった(前掲写真)が、虚心はその墓の他に「技芸家か宗教家としての」吉良衛門こと「佛清」の墓石というもの~この石碑~を見出し、そこに最初に葬られたのだと推測した。寺僧もここに骨があると裏付け、また北斎から恩義ある者が、先ずここを拝んだという話を間接的に聞いたともいう。
北斎父は鏡師で、6歳(異論あり)で御用鏡師中島伊勢に養子にやったのもそのつながりという説もあるそうだが、百姓だったという説(北斎が養父中島姓を自称していた一方出自を自嘲的に語り号にもした話、生誕伝承地辺の古地図上に川村家が見え無いことからその説もあったようだが(別記の通り現在出身とされる亀沢から少し外れたところに川村の姓は見える)、寺の過去帳上は川村は名前をしっかり頂いた下級武士のように見え甚だ疑わしい)同様、根拠に乏しいように思われる。武士は下級であれ、風紀を乱し風刺を行う浮世絵師など下賤の職を持つことは禁じられ、実際ほかの武家兼絵師にはバレて咎を受けた例がある。そもそも名の地図に載る程度の家の居並ぶ南割下水沿い住まいで逆川向うの畑地まで耕作に行くというのは、生活の足しにあったとしても本職としては無理がある。後年百姓に憧れたことがあったとしてもおかしく、なぜ百姓説がネットで有力になったのか甚だ疑問である。少なくとも川村側に話が無いのは形上、生活のため家を出て職人になったからということだろう。謎の仏清という名前もまた百姓とは無縁だ。こちらも独特の父親だったのだろう。
なお、同寺は関東大震災により北斎のおさめた全ての画を焼失した(後に檀家よりおさめられ戦中は疎開して助かったものが現在残る)。これは柳島妙見堂も同じ。その後区画整理で移転を余儀なくされる寺が多い中、それを拒んだことなどから寺域を減らされ、北斎墓も移動した。もとは現在胸像のおかれている本堂向かって左向こう側あたりにあった。
そのとき掘り起こした木棺に副葬品は何もなく(瓶説も寺で聞いたが寝棺が妥当な感じもする、その木材を焚き木にしたともいう)、立派な体躯の骨を当時の法律に従い火葬しなおして現在地に小さく収めたというが、
昭和七年五月二十三日に北斎百七十年建碑式が行われたとき、当時の住職が震災後の改葬について「仏清の碑」の下より翁の遺骨を掘り出した、と証言した記録がある。この墓石がはっきりしたことがわからないにもかかわらず境内草そう内に辛うじて残されたのはこういった経緯があってのことかと思われる。
ただ、そうなるとそもそも明治初期「北斎墓」建立時には何も改葬されなかったことになり、不自然な点が残る。特殊な宗教上の理由でもあったのだろうか。幕末ごろ「までは」合葬されていた、という都の説明書きとも矛盾する。虚心は佛清墓に父親の遺骸自体無かったのではないかとしている。
川村家についてはこんな説も(仏清説にたち「川村清七(小説でしか確認できていない名称)」こと市良衛門の謎を想像している)。
klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/7360
葛飾北斎墓(画狂老人卍)
南ソウ院奇誉北斎居士 ※はじめから信士ではなかったとのこと(過去帖では居士と明記されているという)信士とした葛飾北斎伝他の記述(墓石の失われた刻銘もそうだったのかもしれない)は過去帖(写し継ぎ)を確実なものとすれば誤り(「北斎の研究」でも断じられている)。下級とはいえ武家なので居士とするのが妥当だと思われる。但し女子は信女と名されていた。南「総」院という説はやはり虚心発信のようだが、後述の波の伊八に関連して多少の地域的親和性はあったにせよ、過去帳は異なる。窓の意味のソウである、これは北斎のサイと関係がある文字と「北斎の研究」にあるが私は不勉強なのでわからない。「誉」はまさしく浄土宗式の尊称のようなものであるそうだ。
戒名は通名の北斎に南窓(ソウ=煙窓)、奇を付けた。
葛飾北斎終焉の地、浅草寺子院の遍照院(最後の一年を境内の小長屋で過ごした。葛飾で一生を終えたいという願いはかなわなかった。故郷の本所の遍照院とはちがいます)。こちらには一切の伝承は残されておらず、当時の長屋の位置も、寺の広さもよくわからない(後記の江戸時代の広さはともあれ、明治時代震災前の地図をgoo古地図で確認できる。南側は余り変わっていないが北側(墓地)は現在はマンションになっている山谷堀支流岸まであったようである。投げ込み寺で知られた道哲庵(西方寺、移転(二代高尾太夫の項参照))の墓地と接していた)。住所は変わらないため、ちょうど現在の本堂が昔の本堂裏であることから、まさにここと推測されている。いわゆる「狸長屋」について東京名所図会に記載があるがはたして同じ棟かどうかわからない。赤い門は南側、卍のマークがあったそうである(下の写真)。卍翁に相応しい。山谷堀や聖天町に近く、誓教寺とは浅草寺を挟んで真逆にあり、お栄の先導する早桶の葬列も辿り着くのに小一時間はかかっただろう。
北斎は両国は本所南割下水(道路の真ん中に下水が流れている)沿いの生まれ、現在の北斎通り沿いと思われるが(現菓子屋辺、2016年秋、向かいに建ったすみだ北斎美術館の手前公園に標識が立った)かつては北斎通りの入口右角(江戸東京博物館裏正面)に碑が立っていた。先向かいは最新の横綱之碑のある野見宿禰神社。北斎の本姓は生前藤原とされていたものの、生まれが川村なのは菩提寺過去帳(書き写し)、卍翁墓刻銘や晩年行動の通り。程なく近所の吉良邸跡の一部を拝領した代々鏡師中島伊勢の養子となったため、中島と書く本もある。北斎はそもそも実母が凶刃に斃れた吉良家臣の孫娘だと喧伝していた。現在は小社になっている。その真向かいが吉良邸跡史跡公園。
べんりな時代になったものよのう、高橋太華の小稿「葛飾北斎」を見たいと思ったらすでにデジタル化されていた(少年雅賞)https://t.co/S4vwtdOUMb
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月17日
(ショウゼン)73ページからどす 太華山人名 https://t.co/ME9SNSJfBL
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月17日
(しょうぜん)柳島妙見さんのくだり、見つけた https://t.co/IygJn9eU4D
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月17日
(しやうぜん)一家の煙を立つ、ってのはそれこそ仁徳天皇の歌からはじまり「この世界の片隅に」でも表現されてた、日本の庶民生活が営まれているしるしですね、今は電気メーターかね https://t.co/w4gFZikPQM
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月17日
葛飾北斎伝にもある有名な話ばかりだけどかぴたんに請われ絵を売る話、シーボルト事件関連の例のライデンで見つかった依頼画の類ですね、確かに間諜ぽい。原話は「古画備考」10年くらい前の本 https://t.co/ymtRjhmTDNhttps://t.co/5k6fjnJ3xL
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月17日
明治の読本ですし、ひたすらストイックで男らしい北斎、眉に唾が・・・火事だーというときに火の粉掛るまで絵筆を離さず、ついには家財うっちゃってお栄と絵筆だけ携え屋を移ると、とたん手元の徳利割って筆洗いにし欠片に絵具を垂らし、描き上げたと https://t.co/6Z0UyCmyeh
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月17日
かぴたん値切りの話にしても北斎って一度依頼されたら下絵とか物凄い描いて納得したうえで時間と労力かけやっと仕上げるので、画料が少しぐらい高くても同業者より時間がかかってちっとも儲からなかったという話。 https://t.co/05UIcHhYkb
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月17日
放蕩者の親族(孫)にたかられるわ、床に散らしっぱなしの金を米屋なんかに代として自由に掴んでかせたり、仏像貰っても仏壇なくて春慶塗の重箱を横にして柱に打ち付け中に飾る(日蓮宗関連の本にも出てきた)衣食興味ない親娘、このへん徐々に実像っぽくなってくる https://t.co/91RpkJ1K3r
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月17日
放蕩者の親類のせいで江戸から浦賀に逃げてたときの自称が画狂老人はいいけど、乞食坊主卍九て。後北斎がいた説をとってるな。小文だけど面白かった。(オシマヒ) https://t.co/6XZKOiTYKD
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月17日
高円寺の妙法寺にも北斎さん参詣してたんだって。あそこは碑文谷の法華寺(国重文の飛騨匠による室町堂宇のあるとこ)傘下で、蓮華往生の俗話云々ようは不受不施の様を幕府に睨まれ難癖つけて解体されたさい日蓮像を受け、以後かわって江戸人に親しまれるようになった。蜜柑箱に日蓮像って何の本だろ?
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月23日
北斎美術館のあとは葛飾北斎伝に出て来るハンノキ稲荷神社(榛馬場)の住居跡にも寄りましょう、近いし。門人露木為一の北斎仮宅之図(虚心が譲り受けたもの)も国会図書館デジタルライブラリー入りしてます好い時代ですね
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月23日
「蜜柑箱を少し高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり」葛飾北斎伝 pic.twitter.com/2GNvbpME8j
北斎旧宅ハンノキ馬場の稲荷あたり。清澄通りを総武線高架越えて大通り手前筋で両国駅側に入ったとこ。 pic.twitter.com/JiF3WFM6yG
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月25日
小さいところに良く収まってる。宗理時代の画風と北斎以降の作風が違いすぎるのがわかる。撮影禁止なのは特別展と、借受出品(レプリカとおっしゃってましたが明示はされてませんでした)。細かい摺り絵が綺麗。北斎美術館でした。 pic.twitter.com/eGcJra6Tyc
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月25日
北斎についてよくわからないのは、本所界隈まで震災と戦災で壊滅してるのもあるんですね。雰囲気すら無い理由。ここまで来たらお参りせずにはおれないです。慰霊堂(伊東忠太)。塔婆まで書いてしまった。災厄で生きられなかった家族のぶんまで、自分の家族ががんばります、ていうようなことを書いて。 pic.twitter.com/fCuL9kPdkT
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2016年11月25日
堀ノ内妙法寺さんまで初詣。北斎の形跡一切無し、ただ江戸時代興隆をきわめた名残が所々に残ります。日蓮宗本山ということで精一杯礼を尽くしておそっさま開帳へ(碑文谷から将来された?新しく見える)見物は何と言っても絢爛たる堂宇と彫刻群!波の伊八と言われても頷ける。成程北斎、妙を得たりか! pic.twitter.com/vg9R5sqiqb
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月3日
境内の広大清潔さは日蓮宗らしいところ。不明の石碑はまとめて裏庭に林立、しかしこれが江戸講中武家他夥しい数の名前の刻まれた大碑ばかり。小さいものはもっとあったかもしれない。整理されたのだ。例の国重文コンドル設計説ある鉄門は境内に。慶長年間の人物刻のない織部灯籠は非公開、残念。模刻在 pic.twitter.com/M1bkQwaUOP
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月3日
徳川家綱が日吉社に寄進した仁王が仁王門に在し各々鐘突き拝、何故か右だけ草鞋願掛け。碑文谷の黒仁王は同じく草鞋で願掛けする。本堂(正面は祖師堂)と額堂は文化文政年間に一気に作られたようで、大絵馬もその頃のものがある。この時代のものを露掛した絵馬堂は東京じゃ珍しいのでは。 pic.twitter.com/OsUX98xEF5
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月3日
二十三夜講のためのお堂があって、お経をあげるお坊さんがいらっしゃる。水神ゆえか有名ななで石は所謂蛇石。続々と拝みに来る。珍しい石堂の脇の通気口には水子らしき小さな地蔵と賽銭があり皆傅いて拝む。束子で擦る観音様の堂宇も。江戸の名残、邪道とされかねない民間信仰が受け容れられている。 pic.twitter.com/MLMW9QOuuJ
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月3日
厄除けというとこのような蛇石を見ることがあったが(小伝馬町とか新潟とかで見た)、巳と厄の字が似てるから…じゃ、ないよね?「蛇(じゃ)」なだけに…んなこと
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月3日
ちなみに昔のオカルトでは自然に蛇が浮かんできた石というふれこみだったがほぼ彫刻。中国にもあるとか。 pic.twitter.com/o6zwytJFet
メモ的リンク。伊八と北斎の関係の冷静な検証素晴らしい。(年末に神奈川沖波裏の見方についてあまりの不見識と思い込みを元に一方的に非難され、反駁を拒絶された苛々が反映されていることに反論はしない)https://t.co/2PUWQONU0Q
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月3日
欄間彫刻の真骨頂は立体感で、図録じゃわからん。こないだ来た瑞巌寺本堂欄間彫刻(国宝)など複雑な3D構造が豪快さを伴い、さらに古風だが華麗な色遣いで圧倒してきた。伊八は木の色をそのまま使っているが、平面的なこまい技ではなく、3D構造が素晴らしいという。北斎はともかく見たい。
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月3日
波の伊八(初代とのこと)手、初詣混雑のためもっとちゃんと見たいもんだ pic.twitter.com/wCc60jzel5
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月3日
唐破風の龍の三つ巴、カッコイイよなあ。。
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月4日
軒先にも龍がいる(黒彩色されてる)
伊八なんだろうな、ひたすら龍と瑞獣だらけ、混んでて扁額を覆い尽くす龍はしっかと撮れんかったよ pic.twitter.com/39N5ipmoL5
波の伊八のここでの手法は、刳った薄板を幾重にも重ねて波濤の立体構造を作り出すというもの。波裏まで何度も馬で行き観察した覗画法、なる程。房州の寺院の方が自然だが、堂内なので耐久性を考えず丁寧に鞣し上げているのかもしれない(尤もここにも堂内彫刻はあるがあのような滑らかな表現ではない) pic.twitter.com/YQpJLpsL5v
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月4日
向拝龍の見事さと若年の不釣り合いに疑問があったが再訪して何度も彫り直したとすれば納得。矢張り本式研究者の方々におまかせ。様式からして手水は後藤流で、波筋の伸びやかさが伊八なんだな。速報!!杉並区妙法寺1 https://t.co/tTVNOzNBJO #初代武志伊八郎信由彫刻
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月4日
いけない、北辰を見失ってはいけない。雑星にとらわれていてはただの博覧強気の半端者になりかねない。見つめるべきは北斎の波。波筋と波裏、波濤表現に下絵として参照された可能性はあっても、よく見ると構図だけで、2D版画と3D欄干彫刻の差はでかい。伊八は波の角度を変えている。北斎はデザイン
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月4日
妙法寺は石碑を見るまでもなく江戸職人集団からの崇敬が凄かった。北斎が足を運んだのは何も無名時代の武士伊八彫刻を見に行ったのがきっかけではない、日蓮宗本山として池上と並んで宗徒としてまいるのは当然で、柳島妙見より格上の寺院と来て世俗寺院の様に何も収めはしなかったろう。
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月4日
一応も一度、最初(手水舎)と最後(仁王門)の彫刻は伊八手ではない模様。彫板を重ねるのは違う流派ぽい。仁王門については可能性は残るが、20歳そこそこの時の師匠との仕事で、再訪時のものではないことからこのレベルでの作は疑問があるし、実際板重ねでなく丸彫りの向拝刻との作風の差が明らか。 https://t.co/ItGHegMILI
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月5日
伊八については真骨頂を見に行きました。房州に北斎が足をのばした可能性が高いこと、師匠としていたことのある絵師が伊八の手がけた堂宇の天井画(険しい龍の墨絵)を残したりなどしており、またそういった関係から結果的に北斎と同じ師匠を持つ絵師もこのあたりで活躍ということもあること、そして、北斎より20年以上遡る初代波の伊八は、すでに各地に場合や時期により波を様々に作り、一つではないこと、幾何学的な構図から有機的な動きまで、北斎はおそらく前者は会得したが(器具を使い計算的に作る寺社彫刻からの影響は私が言うまでもあるまい)後者は線の太く硬くなる版画には向かなかった。そういうことを気にすることなく平面的な欄間に立体の有機的な波を裏まで描きこむ、その最たる「波に宝珠」を見ることができました。
波を描くために馬で大波の中に駆け込み裏を観察したという、初代伊八がその末に「超現実的な波」に至ったことがわかりますね。伊八は彫刻、しかも職人なので北斎の挑んだ本物の絵師といういわばゲージツと違うイメージがありますが、これはゲージツです(北斎は肉筆こそ絵であり版画は仕事、のようなことを言ったという話を読みましたね、実際晩年は肉筆ばかり)。ちなみに裏側(平面ですがいちおう両面が波の表に刻まれています)左端が神奈川沖浪裏の構図と言われています。私は技法に刺激されるのに、あの裏側は使わないだろうとは思いますが。。伊八はここではここまでにしておきます。
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うん、同じシリーズですな(ネット探せば全部揃いそうだが敢えて手にしてみる)。ニュース絵葉書。明治四十三年はもう随分時代が下るので雰囲気は今の大通り(北斎通り)に近いけど、最初の写真は広さが違うので裏通りなのかな。震災で焼けちゃうんだな。。 pic.twitter.com/KOcwYb8qPG
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月14日
※関東大震災前の本所割下水通り(1910年洪水の絵ハガキに弱彩色を施したもの)、既に水路は無かった???
柳島妙見さん(河側は料亭橋本屋)。摺りによって色味が全然違うのね。 pic.twitter.com/tqmJjJl0UK
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月2日
柳島妙見さんでもらった現境内図。発掘された破片など。震災か戦災か酷くやられたお寺、周囲の料亭もなく、橋がかかっている。というホームページに貼る用のツイート。 pic.twitter.com/XX140Rc1ww
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年2月2日
災害写真でも何故か笑顔を見せるのが、イギリス人たちを魅了した「東洋の微笑み」なんだろう。ハーンだけじゃなく女性の旅行者も書いていたか。しかし富士山登って怒られたオルコック氏についてったアマチュア絵師のレベルってすげー。イギリスと江戸幕府の関係については広尾の図書館で訳本一冊読んだ pic.twitter.com/XlfeKfue31
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年1月14日
いつでも行ける距離にあるのでろくに写真すら撮ってないけど、北斎さんも参詣したということで日蓮入滅の地、池上本門寺の写真も載せておきます。左手経蔵は焼け残ったもの。本堂は新しいものの、五重塔などは江戸時代のまま。庶民的な妙法寺とはかなり違う雰囲気で、いずれの建物も質素な古様を模し、装飾彫刻も見られずけれんみの無いものです(国重文の五重塔は内陣は金ピカ、最近も改修されました)。
きょうは北斎忌
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
長命寺の桜餅! pic.twitter.com/VKvb1DQDXM
北斎さんが通った骨継ぎさんがまだ開業してるという話は有名なのだろうか。骸骨☠が牡丹灯篭原話の少女(独り)のもので、それにしては骨盤が男だから骨継ぎさんで見た骸骨が男だったんだろう、というようなお話を聞いていました。あと北斎漫画見入ってしまった。 pic.twitter.com/IYpdMFsFyI
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
もはやこの域にいたって観光のレベルとは云われたくはないが、こうして貴重なものに触れさせていただきながら、それを忌む文化財保護の気風に少し反感を持つのも止むなしと思う、それへまた反感を持つのも自由。最低限保護のうえ何かしら、もっと開放される部分も考えてもいいと思う。。 pic.twitter.com/OQH8mGy4Y1
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
やはり北斎さんに研究眼ではなく画工眼としてせっするかたは違う。仏画となれば尚の事、私など俗物は雰囲気ですこし後ずさりしてしまった(しかし手には画帳をはなさず)。 pic.twitter.com/B6cJ1PwiQD
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
しょっぱい桜葉が江戸の味(なんて長命寺何度も食ってるけど)、こちらも、とすすめていただいたのは静岡からの富嶽三十六景ようかん。 pic.twitter.com/E8vqyrxyKd
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
終わりました。骨継というのは名倉接骨院のことか。そう言ってなかったような、、、門前の整体が名倉じゃないのも笑う。胃が痛いのでどうしようかな。毎年お見えになっていた110歳のご老人が今年は体調を崩して断念とのこと。お婆さんがこちらで北斎を見たことがあると言っていたという方だろうか。 pic.twitter.com/9zgyTAPbhW
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
まあ、どっち行くか、っていったら北斎さんなので、逆ルートで遍照院、亡くなった長屋ですかね。歩ける距離ですが体調が思わしくないのでバスで15分、小学校戦災復興の記念碑を横目に桜並木を来ると浅草四丁目からすぐ。 pic.twitter.com/n6uUkm7laD
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
ついでに道哲庵墓地跡(塀のむこうからマンション下らへんまで)をのぞむ。古い建物とマンション、このあたりが山谷堀の船溜まり?跡の形跡を残してるのかも。 pic.twitter.com/1FEZz9YL7i
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
でも明治時代の番地で言うとマンションは変化照院の敷地で、道哲庵との境目はやはりこの一角のようだ。正確には少し道ずれてるけど、この角、ちょうど三角空き地の少し広めたくらいが墓地っぽい。したがって昔ツイートした場所は正解(左先の赤い建物らへんが本堂か)。ちな山谷堀分岐はマンションの角 pic.twitter.com/3ElpeD2ebs
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
変化→遍
北斎漫画(全15巻中15巻欠、2巻重複、再大判1冊+明治時代再版全巻)ぜんぜん印象に残り方が違うのは、当時の木版の「肌触り」が今と異なるせいだろう。クッキリ頭に残る物と残らない物が別れる。最初の方に生月島がでてきて驚くが名古屋より西は全て写し、しかし少し小さい、中江ノ島みたいだ。 pic.twitter.com/hpxoFMEsuh
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
巻末に「豊年」天より小判が降ってくる、これほど目出度い図案があったろうか。縁起を担ぐ江戸の人、編纂も総てそういう雰囲気で一冊一冊が異なり、中身のバラバラ感と裏腹に完結しているのに感銘。中表紙が二色摺りになったり仏画やら目出度神やら。関連広告に栄泉漫画みたいなものが列ぶのも。 https://t.co/d3kcQJ1Hcz
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
風俗画は個人的にまったく惹かれず、風景画と宗教的な文物人物に目がいくのは今の心持ちを示しているのかもしれない。法師の図が列ぶ中にたしか法性法師という図がありこれは柳島妙見と関連があるのかと思ったら全然関係ない真言宗の方なのね。中表紙にも中にも北辰妙見散見されるも他も沢山。図案だし https://t.co/ANfUazrskC
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
最初の棺はサッサと焼いちゃったそう、ってお婆さんのお話は聞いていたけど、今日は「壺」って言ってたような気もする。実際丸い桶で葬った訳でもあるまい(虚心を信用しなかったとしても)、壺から出して焼いてまた壺、ってのも何か変で、言い間違えなんだろうか。忙しそうで聞けなかったがまあいい。
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
悩める達磨に茶化す達磨(かな?)
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
このくらいぼんやりした写真なら良いよね pic.twitter.com/2MFEHeO7K9
誰の達筆か、読めるでしょと云われても、、、と思った
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
辞世 非心と云鬼て ゆく氣散しや夏の原
行年九十
(悲、魂の崩しがわかりにくい)
虚心のかきおこしが既にアバウトだ、、、 pic.twitter.com/BjG8IJVOvs
旧暦なのでおそらくひと月づれる筈なのだけど恐らく解かりやすくということなのだろう。合掌。周忌ではなく周年でやっている、ということでした。おしまい。 pic.twitter.com/meS4AlBDod
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
どんな巨大生物だよ https://t.co/HFkFFeRsry
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
男の全裸がダメだというならこれならどうだアップロードできるのか、だいたい局部模型がタイムライン占拠することもあるってのになぜさっきのは駄目だったのか、、、 pic.twitter.com/81g7KGSp41
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
釣りでしたー
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
(鰻と思ったら女房の髪、カッパ釣るにゃ尻晒せ) pic.twitter.com/mdnCQW12Pr
河童の釣り方なんて想像上のことでしかないのに、考案して紐の組み方までしっかり想像して構図するのが北斎の凄い所RT
— 岡林リョウ (@ryookabayashi) 2017年4月18日
アルバム:
つづきます。