江戸三大流行神を収集しよう(追記)お竹墓、国芳浮世絵、翁稲荷など追記

幕末近くに江戸で爆発的に人気を集めた神様たちがいる。情勢不安や天候不順など様々な問題を背景に、庶民に現世利益をもたらすもの。それを流行神といいます。

人々は神様を突然「発見」し、長蛇の列で拝み倒しては門前の屋台が潤う。流行ものは収まるのも早いが、別のところでまた「発見」されては人々が殺到する。武家屋敷の中の祠にまで押しかけたそうです。神様は変な石から由緒正しい仏像、果ては流れ着いた土座衛門(水死人神様)まで、様々。

(以下引用)流行神とは、嘉永元年の暮れから突然流行しはじめた、内藤新宿の正受院の奪衣婆参詣、嘉永2年4月から開帳された両国回向院の於竹大日如来、そして日本橋の翁稲荷信仰を指す。(引用オワリ)

ここでは江戸末に勢力をほこった三大流行神をまとめてみます。
国芳
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まず典型的な流行神として「人間が大日如来になった」お竹如来があげられます。

降ってわいたように光臨する神様。(実際は苦を苦ともせず自分は残飯を食い食事を乞食などに分け与えた宿屋の料理奉公のお婆さん(だったと思われる)、すでに慈悲深く信心深いことが奉公先の佐久間家をはじめ知れ渡ったうえで、たまたま投宿した羽黒山の修験者が夢のお告げで「認定」されたよう。年も年なので「昇天」したところに像を作り、それがのちに出羽に引き渡されたのです(厳しかった時代は、江戸府内にわけのわからぬ神像を作って置くのは憚られたのだ)。庶民出身の桂昌院がいたくお気に入りで有名になった側面もあり同じ像が造られ俎や残飯網の破片入れをしつらえ増上寺に残した、それが心光院に伝わり今は秘蔵されているようです。上の落書きの説明は典型にすぎず、浮世絵では「お竹さん出身はどこだい?」「ふふふ…」紫雲に載って昇天、という童話がつけられてますね)

時代は江戸初期ですが、お岩さんもそうですけど、信仰はたいてい死後に「作られていく」ものです。流行神としては「再発見された」に近いのかもしれません。
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お竹さんが使っていた「お竹井戸」の跡。手前のビルの小津和紙さんは宿屋佐久間家ゆかりで当時から存在した由緒あるお店、戦争でも焼けずお竹如来のお陰と言って展示コーナーがあるそうです。

お竹さんのお墓(後世)。
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赤羽にある善徳寺です。
室町時代から江戸前期まだ移転を繰り返し、明暦3年馬喰町から浅草新寺町(松が谷1-13)に移転して、最後に関東大震災で結果的に赤羽のはずれに移転)

お竹さんは奉公先の佐久間家のものとして葬られたようですが、断絶してしまい、親戚というか本家筋の名家、馬込家に統合され、こちらはその馬込家の菩提寺で、この如意輪観音もお竹さんの名をきざんだ江戸後期の石柱を伴ってはいますが、新しく馬込の家紋が入り、月日以外の線刻が摩耗してなく、同規模の如意輪観音石仏がもう一つ脇にあったりなど、併合された側の個人墓とするには伝説の域を出ていない気がします。ただ、馬込は馬込家としてお墓を建てているようです。命日には法要があるので聞いてもいいかも。
(標識引用)
善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があります。
御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が5街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にあたる名主家とともに、名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見が許されていました。
馬込家は、遠江国敷地郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由と称していました。馬込という家名は元和元年(1615)5月、大坂落城の後、浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。
最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和2年(1927)4月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。
(おわり)
5/19命日法要
(井戸跡の近い大安楽寺にも木像があり法要(1w程度前後するが羽黒山からも来る))

一説に回向院で開帳されたというものは恐らく写しである増上寺(心光院)のものか羽黒山黄金堂のものか・・・恐らく前者だと思われます。(最初江戸にこういうものを置いてはいけないということで羽黒山へ移された経緯がある)。
地図

昔書きましたね=>大江戸怪異重箱つつき2
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/edokaii20050604-2.html
うしろのほうに「お竹井戸跡」について書いてあります。
こちら中央区観光協会のページにも。
こちらは諸情報大変くわしい。中央区郷土史同好会さんです。
http://homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/101kai.html

お竹は実在しました。大日如来になって天にのぼりっぱなしだったわけではなく、降りてきてw地上のお勤めを地味に果たします。まな板とか像とか茶釜とか、関連遺物もあり、桂昌院の耳に入っていたく感銘を受けられたということで葵の紋の収蔵箱もしつらえられており、芝増上寺下の心光院には近年お堂(大日堂)も建てられています。
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下に置かれた黒い箱が俎板の入っている箱。
地図
ちなみに大日堂を寄進するにあたり蛇の不思議な縁があり、今はすこし工事をしているようですが、芝公園の鬱蒼とした木々の中に蛇塚というものも作られています。そう、号泣島田氏が有名にした「パワースポット」です。上記郷土史同好会さんのサイトも参照ください。勝手にリンクしますがこちらも。
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なお、心光院さんとは東京タワーの真反対にありますが、心光院さんの上空に竜が舞っている夢を見たということから心光院さんにも蛇のお廟があります。

現在はのお供えは禁止。


二人目。こちらも古いものがリヴァイバルしたもののようですが。

新宿は正受院の奪衣婆。(太宗寺の有名な奪衣婆は明治初期?のものでこれとは違います)
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地図

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wikiリンク
(引用)綿のおばば
正受院の奪衣婆像は、咳止めや子どもの虫封じに霊験ありとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があった。幕末には、奪衣婆像に関して「正受院に押し入った泥棒を霊力で捕らえた」「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」といった噂が広まり、嘉永元年(1848年)の年末から翌年にかけては参詣客が正受院へ押し寄せる騒ぎとなった。歌川国芳などにより、綿をかぶった姿の奪衣婆を描いた錦絵が多数発行され、現存している。あまりに盛況であったため、寺社奉行により制限を受け、正月と7月16日以外の参詣が禁じられた。 (引用オワリ)
(引用)奪衣婆像 - 新宿区指定有形民俗文化財
小野篁製作との伝承を持つ奪衣婆像。「綿のおばば」と呼ばれ、頭から頭巾のように白い綿をかぶった姿で祭られている。現在では「子育て老婆尊」とも称される。(引用オワリ)
なかなか風情のある像だった気がします。
地獄と縁深い小野篁作といういわれはともかく、「新宿老婆王」という名で呼ばれ、悪い願いを祈った者の目玉を引っこ抜いたとかまことしやかな話が戯れ絵とともに流布していたといいます。

こちらが大変くわしいです。リンク
http://kkubota.cool.ne.jp/datueba.htm



三人目。翁稲荷。

他力本願なのでまたもやリンクで逃げてしまう。茅場町の日枝神社境内に移されて合祀されているのが江戸三大流行神唯一の動物。しょうじきこの神様については余り詳しいことはわからない。もともと日本橋四日市町の稲荷だったということで四日市翁稲荷と呼ばれていた(震災後日枝神社に合祀された北野神社(江戸二十五天の一つだったらしい)の近所の翁稲荷・桂馬稲荷が、こちら近所の祇園稲荷とあわせて震災戦災再開発で流転し最終的にこの境内に再建された明徳稲荷と合祀されたのが現在の形である、複雑。ちなみに全て焼けているので合祀はされていても当時の遺物は一切ありません、とのこと)。幕末近くの「稲荷百番付」では西前頭となっていて、小祠ながら二十年来参詣者、賽銭も絶えず霊験あらたかとされていた(番付は社の大小より霊験あらたかなことが広く知られぶっちゃけ儲けてるかどうかで決められていたフシがある、たとえば高岩寺の小僧稲荷も規模は小さいが祟るので非常に有名だったようで上位につけている)。

こちらにちょっと詳しい記事リンク
(引用)
宝暦(1751‐64)のころ,道路補修工事があり,地面を掘ると,銅製の稲荷の神像が出てきた。町内の者が番屋に安置しておいたところ,番屋は不浄だからというので火除地に小祠が設けられて,翁稲荷としてそこにまつられた。
(引用オワリ)

日枝神社の境内にうつされたのもそれほど昔ではないようだが(もともと50年代に界隈の証券会社を中心に川岸に整備されていたが、土地の関係でうつったあとは町会が守るようになっている。ナビタイムなどこんな昔の情報を登録してるのでほんと注意、日枝神社で調べましょう)、祇園稲荷と合体して明徳稲荷神社として祀られており、往年の勢いは感じられない。翁稲荷というのは老人の姿をした稲荷の類型のひとつ。駿府には安倍晴明をまつった翁稲荷社がある。
暗くてすいません。。
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撮り直し。
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地図
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てなわけで最後に

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※リンクから表示するとレイアウトが崩れるためやむを得ずDLしたものを表示しています。
元画像はこちら

(引用)じいさんとばあさんと娘の三人で三国拳を打っている。
解説ここには、嘉永2年(1849)正月、市村座「新規一拳酉魁声(しんきいっけんとりのはつこえ)」で演じられ、大流行した「三国拳」を興じる、当時の流行神、翁稲荷と奪衣婆とお竹大日如来が描かれている。流行神とは、嘉永元年の暮れから突然流行しはじめた、内藤新宿の正受院の奪衣婆参詣、嘉永2年4月から開帳された両国回向院の於竹大日如来、そして日本橋の翁稲荷信仰を指す。じいさんは釈迦(天竺)、ばあさんは天照大神(日本)、娘は孔子(唐土)の形を取っている。詞書ではこの三人が、狐拳や御利生拳について面白おかしく話している。またこの図と詞書(三国拳の替え歌)が異なるほかは、絵も落款も改印も板元印もすべてが同一の図が確認されている(本データーベース10022)(N.B-21.05.2010)。
所蔵ウイーン応用美術館、新宿歴史博物館、ライデン国立民族学博物館 Nr.1353-976(引用オワリ)


流行神絵というのは戯れ絵なんですね。風刺としては「金儲けの算段をする流行神たち」といったモチーフのものがあげられます。他にも三体の神様等を配置した同一構図の浮世絵は多くみられます。奪衣婆と翁だけのものもあり、流行神人気にあやかった土産物でもあったのでしょう。いずれも「狭くて寂しい神〜お竹にいたっては周りが勝手に言っただけで本人は普通の婆さんとして一生を終えたという、実物お岩さんのように清貧でよく働く善人だから終いには桂昌院の耳に入りお墨付きをもらったということでしょう、残飯を食べるための下水網、使用した鍋、まな板が残るのも如来様だからというより庶民に奨励すべき勤勉の鏡ということだったのではないか。心光院がお竹堂をいったん除けたというのも、流行神的側面を忌避したのかもしれません。これは蛇塚の片割れともいえる蛇の祠にも言うべきことかもしれませんが、ともに戦後に個人によって信仰が再興したようなのです(蛇塚と関係あり))」だったものが急に持ち上げられる点が共通しています。

こちらはとても有名ですね。狐と馬が大人気。



いずれ、まあ、


宗教は商売ですから。

怪物図録全集


しかしこのての記事は人気無いなあ(;^^

by r_o_k | 2017-07-29 16:30 | 不思議 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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