雨中信濃神秘紀行<1>別所・上田のまき
2010年 09月 21日
いつ頃だろう・・・国内旅行に頻繁に行っていた最後のころなので、2002年とかそのあたりのGWだろうか。
さいきんやっと思うようになったのだが、旅程を書いておくとそういう意味での参考になるよね。ポイントの解説と写真だけではなんだかよくわからないよなあ。こんかいは覚えている限り、という前提なので、詳細は省略しますが。
2泊3日ほとんど雨というときでありました。
旅程ここから>上田まで長野新幹線、そこから別所温泉まで乗り継いで初日朝。<旅程おわり。
地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E138.9.36.233N36.20.50.970&ZM=10
相染橋は西行の戻り橋といわれる(写真ないです、すいません。下記将軍塚のそば)。
西行がここで子供と問答をして村に入るのを諦め旅を続けたという。以後花嫁行列は出戻りを懼れてわたらない。東国に広く分布する民話だが、そのじつ病気平癒の七苦離の湯として知られた別所の、湯治客の橋占いに使われた場所だったという。橋占いはごく庶民的な辻占(つじうら)の一種で、たそがれの橋で三組目に通り過ぎる人たちのはっした偶然の言葉から平癒を占った。
川沿いの狭い平地にひしめく家々&温泉。とりあえず立ち寄りで一風呂浴びてから、お寺をまわります。神秘というより文化財巡りみたいなもんだけど。
央部に犇く堂群はなかなか風情があります。それぞれ文化財であったり伝説をもっています。左手の北向観音はパワスポと言われているそうで。単純に戸隠の余波が来ただけとの説もありますが、直接の理由は伝承にあり。
歌舞伎演目として有名な平惟茂の鬼女紅葉狩り。もちろん当時、にちゃんはありませんので本当の鬼ということになります。紅葉は平安時代、姦計が発覚し信州に流された源経基の愛人。荒ぶる心に都を想いつつ戸隠の荒倉山に隠棲中、川面に映った自が姿が角を生やした鬼だったことに奮起して野盗頭となり、いつかは都をと周囲を荒らしまわった。鬼女として名が知れると退治のために惟茂が派遣されるも苦戦、北向観音堂に祈願しやっと退治した。紅葉狩りという言葉がこの事件に由来するかどうかはよく知りません。惟茂が礼に堂の周囲を寺として整備したのが三つの楽寺、安楽寺・常楽寺・長楽寺(現存せず)だという。現在の堂内には木村春洞の鬼女紅葉退治絵馬が飾られている。
愛染堂の脇には1200歳という、いわゆる「愛染カツラ」がある。火坑から出現した観音様がこの桂の木に来迎したというけどよくわかんない。川口松太郎命名。
常楽寺。
古松やこの石塔で有名。国重文の石造物というのは少なくて、しかも多宝塔様式となるとかなり古い時代のものが奈良や滋賀にあるくらい。小さくて近くに寄ることもできないけど、都が案外遠くなかったことを想像させる立派な室町時代の遺物。
安楽寺。八角三重塔があり、国宝になっている。重層の下に庇があることから四重に見える。この日本最古の禅宗様建築にして特異な形態。住持二世が帰化僧だったからと思われる。ここでも中世の都との関係深さを示している。小さいが、見た目不思議だ。神聖幾何学などに惑わされている向きには興味深いんじゃないでしょうか。
平惟茂は北向観音を信心して同地に暮らした。駅近くに惟茂将軍塚がある。「朝日さし、夕日かがやく、そのもとに、黄金千枚、二千枚」の黄金伝説で知られる。別所村が三戸を残して滅亡したなら掘ってもよいというが、そこまで寂れるにはまだ長い時間が必要そうだ。上の石造層塔はかなり時代が下ると思われる。
時間をみてさっさと上田へ戻ります。
駅から距離があるので大宝寺へはタクシー。国宝三重塔、「見返りの塔」です。本堂も重文ですがこのときは修繕中だった・・・
上田城址。規模は小さいですが石造物に見どころが。
真田石・・・とにかくでかい石で幸村の親父さんが築造に使用。以後絶対動かない。
真田井戸。この形・・・怪しい。長崎の唐人井を思わせる幾何学ぶり(六角形、円形に近くて頑丈というわけなんだろうけど)。というかこんな怪しい井戸が抜け穴じゃないわけがないわけで、自在に出入り可能な抜け穴として言い伝えられている。
というわけで駆け足。ここから諏訪のほうに向かいます。
つづく。