気晴らし猫ネズミ蛙歩き(1 )

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恣意散歩です。今年は久留米と縁があるのかなあ。土曜日サッカーで行けなかったツアー補完と瞬く間に溜まったフラストレーション解消に歩いたら結果的に元有馬藩江戸屋敷跡を回ることになった。

三大猫騒動と言われて鍋島しか思い浮かばないのは私だけではあるまい。しかし偶然同時期に起きた些細な怪異をムリクリひと芝居に纏めたのは何も南北にかぎらず、有馬の猫騒動は鍋島あたりにそっくりな筋立てなのだが幕末明治に当たった演目である。

流行りは新しい話だけに有馬藩が程なく無になってしまったあと何故史跡化したのかわからんが、とにかく不幸な女中に寵愛された野良がバケネコと化して祟ったのを誰かが討って塚に鎮めた、その流れは今も古い人ならそらで語れる怪談であり、有馬藩邸の広大な赤羽屋敷は今は麻布あたりと川を挟んだ向かい丘の向こう、むかし書いた渡辺綱(ナベツナ)ゆかりの綱の手引き坂北側大きな建物だらけの土地となり、オーストラリア大使館や三井倶楽部(国重文)のはす向かい赤羽幼稚園・小学校体育館裏に、貧弱な石碑が遺る、これが猫塚なわけです。貧弱なのにさいきん来る人が何故か多いとか。ご迷惑おかけします。だがよく観察すればわかるとおり、ブロック塀で仕切られた裏側、都立三田高校敷地内にきちんと塚がある。上にベンチなんかも。石碑だけ小学校に残ったんですな。

有馬屋敷にかぎらず藩邸は酷い扱いを受け、日和下駄なんかにも書いてありますが開化あと分割転売を繰り返された。この地も大使館だらけなのはその末というわけで、忠臣蔵ハラキリの池も綱産湯の井戸も見られなくなっている。一等地だけに個人・法人敷地として立ち入り禁止となり見られないものもあるようです。

猫塚は有馬の個人的な屋敷神みたいなもんでしたが、塚には今みたいな(「2」写真参照)新しい小さい石が立っていたわけじゃないらしい。赤羽の地は長く放置され、国の施設敷地として、特に軍関係の工場として使われた。明治時代に軍関係に収用された大名屋敷地は小石川のほうにもありましたが今は女子大になっている、化け狐はまだいるんでしょうか。ずれましたが同時に軍関係の施設はよく移転したもので、ついでに庭園の庭石や灯籠なんかも持って行かれることがあった。長くなりました、最初は恵比寿駅からまっつぐ防衛省研究所図書館に向かいます。

手続きして目的物は門内すぐ右手、資料館へ上がる途中の茂みの中に小さな灯籠や松平定信ゆかりの庭石とともにある。敷地内原則撮影禁止ですが資料室利用のついでということならいいのかな。

猫石です。

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庭石ぽくごつごつした立派な石で、これが猫塚に据えられていた石らしいのです。

ただ荷風によればいくつか石はあったそうで、荷風のとき既に持ち去られていた可能性が高いものではありますが、いずれ供養というより庭石ぽいなかなかの風情です。

以下標柱より。

***

猫石

この石は、芝赤羽町の元有馬家(久留米藩主)上屋敷の猫塚に据えられていたものと言われる。
同地は、維新後の明治四年に工部省所管(赤羽製作所、後に赤羽工作分局)、次いで明治十六年に海軍省所管(兵器局海軍兵器製作所、後に海軍造兵廠)となったが、明治三十五年の海軍造兵廠時代に、猫塚から表門内正面へこの石が移された。明治四十三年海軍造兵廠が築地の海軍用地へ移転の際、この猫石も移された。(海軍造兵廠は、大正十二年海軍艦型試験所及び海軍航空機試験所と合併し、海軍技術研究所となった)海軍技術研究所は関東大震災によって大損害を受けたので、築地の用地を東京市に中央卸売市場用地として譲渡し、昭和五年九月にこの目黒の地に移転したが、その際猫石も移されたものである。
猫石の由来は、世上有馬の怪猫退治等として流布(黙阿彌作「有松染相模浴衣」、永井荷風作「日和下駄」、菊池寛作「有馬の猫騒動」等)された猫の塚ということであろうか。この有馬の猫塚の跡と言われるものが、現在、区立赤羽小学校の一隅にある。

(以上scanRを使用し立て札より転載)

***

さあ歩きませう。

つづく
by r_o_k | 2009-05-20 18:05 | 旅行 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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