北九州煩悩抹殺巡礼の旅<まとめ>その1

久々にそういうことで・・・ってまだ一昨々年の隠岐鳥取姫路も昨年の岡山高松もきちっとまとめてないんですが、まあ、いいか。
写真込みでサイトに上がる日を待ち望んでいる人も余りいないと思うので個人的備忘録アンド、これが限界というスケジュールの見本です。

前提:原則公共交通機関と自分の足(自転車含む)だけを使う、やむをえない場合のみタクシー可(10キロ以内)

レンタカーなどというしゃらくさいものを使うと旅は一気にオリエンテーリングになってしまう。ワープ装置を使ってポイントポイントだけでは文化は見えないんですよ、大昔を想像して実感したいのなら足だ。チャリは地形がよくわかる。歩きは周辺風景がよく見える。

・・・とかなんとか言うけど実際にはJRの運賃の高騰やマイナーバス路線の廃止により余りに不便になっており、恐らく今までで一番タクシーを使った。

初日;4月某日

朝便で福岡へ。

通常「地理関係のよくわからなくなる」飛行機を使わないのだが羽田福岡は運賃が破格に安いので使わざるを得ない。中国地方を重点的に写真にとりつつ到着、飛行機が遅れ10分しかないので走って空港前の高速バス停へ。この系の走りをよもや多用することになろうとはこの時は思わなかった・・・こともないのだけれど。

小倉行きの途中、若宮インターで下車。待っておいてもらったタクシーで・・・既にタクシーやんか!

<第一ポイント>竹原古墳
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諸星大二郎マニアならおなじみ、フチコマの絵のある装飾古墳で、実際には石室は非常に狭い。しかしよく保存設備が整っていて、何とか「現場で装飾古墳を見る」ことができる。70年代には有名だったが今はどうやら地元でも余り知られていない様子。いちおう事前に公民館に連絡しておいたこともありスムーズに見た。今回の旅は熊本が中心になるので、ここだけ北上するのはちょっと時間の無駄でもあるのだが、電車が繋がっているので敢えてそうした。
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印象としては熊本の装飾古墳、もしくは太平洋岸一帯(とくに茨城福島)に分布する赤を基調とした抽象文様よりは大和の絵画的な装飾古墳に近い。もっと素朴だが簡潔であり、馬が描かれることは大陸の文化を背景としていることをはっきり示している。いずれ古墳時代初期は半島と日本は密接だった。日本海側や瀬戸内に分布する徐福伝説など、鉄文化や馬文化などとともに大陸との交流、特に百済人の居留区の存在をはっきり示している。と思う。私の知識20年前で完全に止まっている。硝子越し撮影禁止、説明テープ貸し出しあり。

そのまま赤間駅までタクシー、新興住宅地を抜けていく。のどかな田園風景の中にこういう新しい住宅街が生まれている姿はそれこそ日本中で見られる光景で、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。「自由が丘」とかあるし。

昼前には赤間を出て、このあと二日目までは鹿児島本線(特急以外)しか使わない。前後車両切り離しに恐々としつつ久留米の一歩先、羽犬塚には1時過ぎ到着。

ほんとはここで宿泊すれば翌日の行程には近いのだが、やんごとなき事情により博多に戻らなければならないので急いで頼んでおいたレンタサイクルを借りる。

ここから八女丘陵の古墳の道を行く。駅舎の建て替え中だが、ここまでは久留米郊外といった風情で開けている。八女茶のちょうど摘み時でもあり緑が目に眩しい。

<第二ポイント>羽犬塚
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・・・その前に羽柴秀吉の飼い犬だったと言われる「羽犬」の墓に寄る。筑後市は羽の生えた犬のマークでアピールしているが、そういう妖怪じみた姿ではなく、羽の生えたように飛び回る犬だった、個人的には「羽柴が犬」が短くなまって「羽犬」になったと思う・・・宗岳寺は八女丘陵へ上る手前にあり、幹線沿いでかなり煩い場所だけれども小さい境内は別世界のように静かでいいお寺。このあたり地蔵信仰も盛んだったらしく六地蔵石鐘を始め石造物が目をひく。10年前は石仏マニアだった魂がちょっとだけうずく。時代は新しく、戦国時代までもいかないだろう。羽犬塚の五輪塔は正面に「犬之塚」の線刻があり、塔全体の形状と字体から古くても江戸後期のものだと思う。反り(?)に江戸の華美な五輪塔の影響がある。他も古くは無い。というか岩質や形状からいくつかの塔の継ぎ接ぎであり、黒く古びた石が元の塔の残骸かもしれない。非常に「異例」である。

ここまでで三つの羽犬像を写真に収めておこう。(山ノ井交差点、役場前、小学校前)

交差点の像が立派な翼を持っていて、twitpicにあげたんですが、あそこにしてはかなりアクセス稼ぎました。イギリスの人とか好きそうだし。

のんびり丘陵を登っていく。既にいくつか古墳に出会うけど、ここでちょっと時間食いすぎて最後物凄い全速力で戻るはめになったから注意。石室が見られない、既に天井石を失い単なる窪みになってる、そういう古墳は軽く流しましょう。

<第三ポイント>弘化谷古墳・石人山古墳

広川町古墳公園。いきなり左手に豊富な遺物と装飾石室で知られる弘化谷古墳が現れます。私は公開日に行けなかったんですが、かなり薄くなっているそうで、奥にある広川町古墳公園資料館内の模型石室で十分だと思う。ちなみに今、装飾古墳は保護のため定常的に公開はしておらず(竹原のようなほぼ公開のところもありますが)春と秋に数日、一斉に一般公開をするようになっていて、ちょうどゴールデンウィークにあわせているか・・・といえば古墳や町によってそうでもないみたいですが、興味があれば調べてみてくんしゃい。そして、面白いのが町や市や県が皆バラバラに、かなり立派な博物館を建てて出土品などを展示して一種競っており、装飾古墳は高松塚の例もあって保護のため非公開の方針に傾いていることから、やたらと石室の等大模型がある。ただ、全部の博物館を網羅するのは時間が必要だし、そうであっても車じゃないと無理。装飾古墳自体のブームが30年も前に終わっており、その後現実的な問題を解決するためにいちいち古墳の近所に資料館を置いていくことになったようです。市町村統合で意味のよくわからない別れ方をしている資料館もありますが・・・交通が不便ではあり、私みたいに絞らざるを得ないでしょう。
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で、ここのかたは親切でした。ほんとは弘化谷古墳よりも大規模で重要な前方後円墳、石人山古墳を案内していただきました。覗くだけなら普通に見学できます。多分元々そうではなかったと思いますけど、前方部に垂直に羨道を設け、後円部前に「石人」を立て、その背後に(本来は縦穴の気もしますが)横穴式石室と横口式石棺が置かれています。とにかく黒い阿蘇凝灰岩が豊富に取れる地域で石には事欠かないことから、石造物が多く、加工のし易さから彫刻も見事、多分べんがらなどもよく取れるでしょうから装飾には赤を多用、そんなところでしょうね。石人はたくさんあったようで、今は2メートルくらいのものが一体重々しく、屋形の中に神体として立っています。目口が穴になってしまっていますがかつてはしっかりした武人像だったとかで、信仰上さすられたりするうちに色も彫刻もはげ穴になってしまったよう。ただ脇の下にははっきり短甲と紅いべんがらが残っており、背中は抉れているのですが、抉れているというより何か造り出しが剥落したように思え、ひょっとするとゆぎを背負っていたようにも見えます。石棺もかつては子供が出入りできてラクガキとかけっこうしていたようで、素晴らしい直弧文による呪術的装飾を楽しむことができますが、その上にある円文の中に文字が刻まれている。「何でしょうね」「文字があったんでしょうか」4、と読める。あ、と思った、円文の下に「年生」・・・4年生・・・。
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しかし地元で親しまれてきた古墳のありようには埋蔵文化財がどうこういう以前に微笑ましさを感じました。

急がないとかなりきついです。八女丘陵の上を昇り下り、ほんとは一日かかるコースだそうですがしょうがない。車も多いし狭山と凄く似た、やっぱり茶ってこういうところでできるんだ、と屋外扇風機の連なりを尻目に急ぎます。

<第四ポイント>岩戸山古墳
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ひいひい言いながらちょっと迷うと八女の中心地に近くなり、やがて八女古墳群、いや北九州で最も重要な、巨大にも程がある岩戸山古墳に出ます。古墳自体がけっこう変形しているうえ巨大過ぎるので、石人が裁判をやっているさまが再現されていたという造り出し部で居並ぶ模型の写真を撮る(実物は資料館内・撮影可能)。磐井の墓であり、大和と戦って敗れたとされていた大陸的な一族の最も優れた長の生前墓。ちなみに石人は巨大で異様な形状が知られていますが、後世とくに明治時代など壊されてしまった例も多く、また埴輪も同時に出土しており決して石人文化という特殊なものではなく、阿蘇凝灰岩という材料を豊富に入手できた環境が強く作用していたようです。古墳時代でも前期にあたる古いものですが、磐井が敗れたあと一族殲滅もしくは敗走させられ、石人が作られなくなった(大和に禁止された)という説も、実はこの後に造られた古墳から最近石人があっさり出土していて、ちょっと覆ったらしいです。その他、出土品から髪の毛と蠅の蛹が出土していて、恐らく葬られた人の腐敗した体から取れたものであろうということで、大和のヨモツヒラサカの伝説を髣髴とさせます。単純な対立勢力ではなかったのでしょう。ただ、私には時間がない。この古墳のみならず周辺の重要な古墳の遺物も委託されている岩戸山歴史資料館の館長さんは、時間にあわせて説明をしてくれるので効率的。
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ここで公園内で迷うという失態をしてしまったんですが・・・夢幻的な芝生と森の風景はここが古墳の上とは思えない壮大さを感じさせてよい。

この後、しばらく一族の古墳が並ぶ尾根沿いの道を進みますが、自転車だとかなりきついです。時間があってもママ的なレンタチャリだとギシギシいいます。どうせ石室の見られないところは横目に流していきましょう。四十七士の人の墓が途中のお寺の裏山にあります(そういえば寺院が少ない土地だなあと思った)。但し同人のお墓は各地にあり、もちろん東京にもあるので、ほんとに赤穂浪士が好きな人ならどうぞ。昔は無縫塔が落っこちていたようですがちゃんと台座に戻されています。

で、このへんで八女丘陵に見切りをつけておいたほうがいいです。私はしばらくまだ丘陵側の道を行って、小さな石人像など見たりしましたが、しょうじき時間が足りない。ほんとは次の終点ポイントで時間をもっととりたかった。

<第五ポイント>童男山古墳群
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八女市山内、羽犬塚からは下手すると20キロくらい?ここまでくると鄙びてきて、川谷も狭くなってきます。山側の道ではなく下の道からのほうがわかりやすい。10以上の古墳があり、墳丘こそ小規模ですが石室が立派。関東の石室に似たくらいの小規模なものもちゃんと前室や奥室の棺台の作り出しなどあってしっかりしていますが、ひときわ大きいのは一番上にある1号墓。円墳の中全体が割石積の縦穴式石室じゃないかというくらいでかいですが、後世信仰の対象となったため改変が認められ、保存用措置含め古墳時代の気配は少ない。しかし一面べんがらで塗ったような紅い色は(例え後世のものでも)異様です。ここは前記した徐福の墓という伝説があり、ちなんだ伝承歌が今も歌われ踊られます。徐福伝説というと九州では佐賀ですが、人によっては古墳の名称から徐福の子供たちじゃないかとも言います。徐福の連れてきた男女かも。私は前記した渡来人居留区の一つだった説をとりますが。

ま、駅まで爆走して7時前です。冬には無理な行程です。

羽犬、童男塚古墳
http://okab.exblog.jp/10741467/

二日目;

とってかえして羽犬塚のちょっと先、古い町並みが懐かしい瀬高駅からバスで山鹿へ。新幹線ができれば恐らく非常に開けるだろうと言われている(というか既に繁盛してる)山間の温泉区の先まで産交バスで。

<1>山鹿市立博物館

このあたり、畑や森や川を含む壮大な歴史公園になっている。

ところで山鹿は西南戦争の三指に入る激戦地でもあり、何やら恐ろしげな話もあるようですが、博物館前バス停から上ったサイクリングセンターと博物館の園地にはかなり立派な顕彰碑がありますので興味があれば。他にも周辺の石造遺物や、何故か野外に置かれた装飾古墳模型群があります。バスの時間の都合上開館9時より30分前に着いてしまうので、それらを見たりして、開館したら事務所へ。事前に申し込んであったチブサン古墳装飾見学のことを伝える。所蔵品は昨日の筑後周辺の博物館に比べればちょっと薄いのでさらっと流して、10時集合の確認をして荷物置いていく。

<2>鍋田横穴墓群・チブサン古墳・オブサン古墳
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私、横穴墓で卒論書いたんですわ。別に執着はないけど、ここは触れるくらい近くで線刻が見られる装飾横穴。物凄く稚拙だけど一通りの武具と人物が描かれた27号墓は道なりに川まで降りて左手すぐにあります。横穴は川沿いにえんえんと続きます。ほんとは戻ったほうがいい。私は雰囲気がよくて川沿いを歩いてしまい、結果時間的に博物館に戻れず現地集合ということで、”女性”を隠喩してると考えられたというオブサン古墳の石室を軽く見た後、チブサン古墳前へ。一通りの説明。赤と黒と白で描かれた横口式石郭の装飾は、広い縦穴石室の中でちょっとこじんまりとして見える。あくまで遺体に向けての石棺装飾なんですな。遠くから来て見せも撮影もさせないとか、ほんとはねえ、と昨日の人も言っていたけど、ここでも写真はフラッシュ無しなら、と許してくれました。もっとも保護硝子越しでは、宇宙人とか言われた王冠人物像まで写らないですけどね。よく目鼻もなく両手をあげたタッシリの古代壁画のような姿が模写されてますが、目鼻もちゃんとあったそうです。抽象文様から具象文様に移行する過程に位置づけられる、その具象側を象徴するのが人物であるということ。下半身が黒くかびていたのが心配。頭側の横壁にかかれています。奥壁の鋸歯文(というよりクレーの水彩のような菱形文)に乳房文はしっかり撮影できます。恐らく乳房ではないけど。昔、青と言われていた色は黒として確認できます。30年前くらいは自由に入れたとか。今は朝と昼の二回だけ公開の密閉状態。古墳は立派な前方後円墳。
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博物館のかたの車で博物館へ送ってもらい、途中小さな磨崖仏を案内してもらう。もともと室町時代の寺院だったところで(また廃寺か・・・)、さっきの横穴群の先でちょっとわかりにくい場所にある。この河岸は良質な凝灰岩の石切り場になっていて、ようはチブサンもオブサンも手近なところから石室の材料を持ってきたというわけだ。

ここからはもうタクシーを使うしかない。

<3>熊本県立装飾古墳館・岩原古墳群

物凄い立派な建物は例の御仁の設計ですが、装飾古墳のジオラマ大集合、とまではいかないくらいの拍子抜けする中身。時間があればゆっくりするのもいいけど、寧ろ周辺の古墳や横穴(岩原古墳群はこじんまりと壮大だけど一部移築とのこと、その先の横穴は一個船形の装飾が内部にあるそうですが殆ど視認できず入ることもできないそうで、見るならその向かい側の岸壁の前原横穴に外部装飾があるとか)を見たほうがいいか。私は飯を食いました。現地でとれたもので作ったオーガニックな食事だそうです。食事するならここ。

装飾古墳研究としては全国を対象にしており、資料集をいろいろ作っている途中で、取り寄せもできるそうなのでここはあえて一冊買うのみにしておいた。

さっきのタクシーに来てもらう。新道と旧生活道路の違いを聞く。新道沿いは店が潰れたりしている。旧道はバスが通る。海が入り込んでいた土地だそうで(吉備もそうだけど初期古墳ができる土地って比較的外に開けたところが多い)新道は古い島や岬をまっすぐ突っ切って通っているようなものだ。

<4>トンカラリン

スライドショウなど
http://okab.exblog.jp/10783884/









近年支線や延長線が発見され山岳ルートに対する疑義も生じている模様です。




<5>江田船山古墳
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注意!トンカラリンの直接向かいの台地は単なる畑。その左手奥に古墳公園があり、「モアイ」と誤呼される巨大石人模造品が立っている(先の装飾古墳館にもある)。雰囲気やよし。時間があれば歩いて廻るといいけど、無い場合は黄金の出土遺物で有名なこの江田船山古墳と石室(石棺が見られる)を見ていくだけでいい。まさに道の駅みたいな開放的な空間で、結構広いので注意。菊水町は田舎だけどド田舎ではない、道路が広いし交通量もある。単なる土産物屋のような菊水ロマン館前バス停から産交バスで玉名駅へ出る。ここでの乗り継ぎがバスの遅れにより3分だった・・・

<6>田原坂
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玉名から鈍行で田原坂駅下車。無人駅でなーんにもない。ちょっと途方に暮れる。荷物を放置してもよさげな雰囲気なので小さな駅舎に置いて徒歩で田原坂まで・・・これが結構上り、歩いた。道標は確かなんだけど、きほん車を前提にした標識だもので遠回り。時間の都合上、せっかく物凄く綺麗なツツジを見下ろす高台の風景、田原坂の上り下りを見下ろす緑に満ちた風景を楽しむヒマもなく、幕末あんまり興味ないからいいや、というか時間が大変なことに!緑濃い坂のほうを見てちょっと夜は怖いかもと思いつつ、売店でタクシーを呼んでもらい、何とか1時間後の鈍行に間に合う。そのまま上熊本駅下車、タクシーワンメーターで熊本城。何で急いでいたかといって熊本城は5時半で閉門なのだ(一部を除けば見るだけなら6時まで滞留可能)。
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<7>熊本城
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七不思議とは言わないがこの天主を失った(再建)城にも謎はいくつかある。もうわからなくなっているものはしょうがないけど、二つ、地図石というパズルのような石組みをした箇所と(城の設計図だの床の装飾だの噂はいくつかあるけど通常このような石組みは強度を増すためになされる)、忘れたけどなんとかの首掛け石というこの二つが容易に見られる不思議遺物。将軍にかけたショウクンの間も再現されている。あと西南戦争で瓦礫の焼け固まったものもある。ちなみに加藤清正の城ということで隣の加藤神社に行くと、神木の木の股に小さな社が置かれている。これも不思議だ。
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小泉八雲旧宅。これは移築はしているがほぼ元通りのものというので珍しい。
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おわり。

三日目;

朝から高速バスで阿蘇越え。懐かしい豊後の山奥を過ぎて大分へ抜け、時間が怖かったが何とか誤差10分で大分トキハ前バス停下車。ここは仕方なく高価な特急で宇佐へ直行。宇佐は鄙びた駅で、止まらない電車もあるので注意。のんびりしたバスのおかげで乗り継ぎ5分もぜんぜん無理ではなく(いちおう事前に問い合わせておいた)終点の四日市バス停で下車。

<1>十宝山寺・大乗院の鬼のミイラ
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子供連れの参拝者が多かった。ちょっと観光化していたが基本無住のままのようだ。牛鬼の系譜に見える。顔だけ奇妙な整形がみられる。虎の皮の腰布をつけていた。ノートには願い事がたくさん書いてあった。石段の下で塩を振って体を清める。遠隔からの車での参拝も多いのはICが近いからだろう。それに車なら、耶馬溪も近い。周辺はちょっとした寺町で鄙びている。東西本願寺別院がミニミニ京都みたいな配置で面白い。幕末に作られた九州最大級の二重式山門の彫刻が素晴らしい。その他、街角に恵比寿さんの石仏が座っていたり。今回いちばん鄙びた町だった。開けてはいるけど。四日市横穴墓群という装飾一基の文化財が寺の裏の崖下にあるのだが、けっこう歩きそうなのでやめた。四日市からは中津までバス。

<2>耶馬溪羅漢寺・青の洞門
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中津から耶馬溪は泣きながらタクシー。バスなんて待っていられない。私は翌日の予定のため中津に泊まったが耶馬渓に泊まれるのならそちらをお勧めする。とにかくここでも時間が押して、乗らないつもりのリフトに乗って旧参道をカットするとかいろいろあった。このへんも書いたからもういいか。焼けてしまった小鬼のミイラは仁王門のあたりにいた鬼を捕らえたものだそう。耶馬溪はわりと小規模だけど、ゆっくりしたければいくらでもできそう。煉瓦作りの橋を見られなかったのが残念。青の洞門は思ったより綺麗だったですよ。羅漢寺下までタクシー、その後羅漢寺までは仁王門経由で登って(曼荼羅石という飾り石がある)、五百羅漢や火災時に活躍したという龍の石彫など見て、下りをリフトにして探勝路経由で青の洞門バス停まで、距離はそんなにないけど聞く人によって言うことが違うので時間が怖かった。特急バス最終で中津へ。
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羅漢寺
http://okab.exblog.jp/10756178/

四日目;

<つづく>その2
http://okab.exblog.jp/10851940/
by r_o_k | 2009-05-01 16:54 | 旅行 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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